想定していなかったこと
繊維を漬けたあと、色を定着させるためにアルム石を粉末にしたものを入れて混ぜる。
水分を絞り、洗濯物のように干して羊毛を乾かすのだ。
風に揺られる色とりどりの羊毛は、美しく染まっていた。道行く女性達が、皆綺麗だと絶賛する。しかし、アユは思っていた色にならず、誰もいない場所では険しい表情をしていた。
「ここにいたのか」
ずらりと干した羊毛の隙間から、ひょっこり顔を出したのはリュザールだ。
「これ、すごいな。一日で作ったのか?」
「まだ、漬けているのもあるけれど」
煮込みながら染めるもの、煮込んだあとに入れて染めるもの、水だしした植物で染めるものと、草木染めの方法はさまざまだ。
今干しているのは、草花を煮込んで染めた羊毛である。
「それで、どうしたんだ?」
「え?」
「なんだか、悩みがあるような顔をしているから」
「……」
顔を俯かせ、前かけの裾を握りしめる。
アユは素直に、思っていることを口にした。
「水の質が山と違っていて、上手く、羊毛が染まらなかった」
「綺麗に染まっているように見えるが?」
「この色も、あの色も、いつもはもっと濃くて、深い色がでる」
「そうなのか」
草原の水と山の水では、水質が違うなんて聞いたことがなかった。
なぜ、今まで気づかなかったのか。
アユは落ち込んでしまう。
「そういえば、以前商人から、地域によって軟らかい水と硬い水があると聞いたことがある」
「軟らかい水、硬い水……」
言われてみたら、ハルトスの山脈に流れる水質は硬く、ユルドゥスが根下ろす草原の水質は軟らかいように感じた。
「水質が問題ならば、仕方がない話だ。気にすることではない」
「けれど……」
色褪せたようにしか見えない羊毛を前に、アユはシュンとなる。
「今年は商人に売る約束をしたから、綺麗な赤い花の絨毯を作りたかったのに」
「そうか」
草原では鮮やかな赤の再現は難しい。頭の中に思い描いていた花が織れないことに、ガッカリしているのだ。
「分かった。だったら、夜間放牧にでかけよう」
夜間放牧とは、夏季になると家畜の食欲がなくなり、やせ細ってしまう。そのため、夜に放牧へ連れ出し、涼しいうちに食事をさせ、太らせるという目的がある。
同時に、繁殖活動も盛んになるので、この時期夜間放牧にでかける羊飼いは多い。
「山のほうにも登るから、ハルトスの水質に近い水があるかもしれない。一緒に行こう」
「いいの?」
「ああ」
「ありがとう!」
アユは嬉しくなって、リュザールに抱き着く。
ガシっと受け止めてくれたが、その後、硬直しているように思えた。
「リュザール、こういうの、するのはイヤ?」
「イヤじゃない…………けれど、母上と今一瞬目が合った」
アズラがいると聞き、アユは慌てて離れる。
「お義母さんは?」
「いや、一瞬にやりと笑って、全力疾走していった」
「そ、そうだったんだ。ごめんなさい」
「いや、いい」
リュザールは今から、父メーレに夜間放牧に出かけることを話しにいくという。
アユは手を振り、見送った。
◇◇◇
太陽の光の下で、アユは織物をする。
織物はいつでもどこでもできるよう、移動式家屋よりも簡単に織機を組み立てることができるのだ。
アユは一米突ほどの織機に縦糸を張り、染めた羊毛を上から吊るした。
縦糸二本に染め糸を絡ませたあと、ナイフで切る。横糸を通したあと、鉄の櫛で編んだ糸を強く叩いて押さえる。織物はこれの繰り返しだ。
アユは一人懇々と織物を織っていたが、絨毯の進み具合と太陽の位置を見比べ、首を傾げる。思っていた以上に、作業が進んでいなかった。いつもの三分の一以下の作業量である。
ここで、腕に違和感を覚える。それは、リュザールと怪我を分け合った腕だった。
これが原因ではない。アユは小さく頭を振って否定した。
きっと、久々だったからだ。そう、思うようにする。
しかし、アユの腕の不調は、織物をしている時にたびたび現れた。
早く仕上げたいのに、腕が思うように動かない。
アユにとって、深刻な問題である。
夜間放牧にでかけるまえに仕上げたかったが、半分しかできなかった。
その日、アユは夕食を作りながら、泣いてしまった。
料理に入らないように手巾で拭っていると、リュザールが仕事から戻ってくる。
「うわ、お前、どうしたんだ?」
急いで背を向けたつもりだったが、リュザールの優れた動体視力は泣いているアユに気づいてしまったようだ。
「何があったのか、言ってくれ」
「……」
「アユ、喜びも悲しみも、楽しいことや苦しいことだって分かち合うと、約束しただろう?」
その言葉に、アユは応えなければならない。
「絨毯を、あまり織れなくなった」
「それは、どうしてだ?」
「分からない。今まで、小さな物ならば半月で完成させていたのに」
「いや、ちょっと待て」
「何?」
「小さな物でも、半月に一枚はおかしな速さだ」
「そうなの?」
「そうだ」
通常、織物はちょっとした物でも、織るのに一ヵ月以上はかかる。
それなのに、アユは半月で作ると言った。
「お前の今までの速さが異常だったんだ。普通ではないことだから、気にするものではない」
「そう、なの?」
「そうだ。俺はお前の織物に収入を頼るつもりはない。だから、無理して織らなくてもいい」
ハルトスの時のように頑張り過ぎないでくれと、リュザールは深く頭を下げる。
アユも同じくらいしゃがみ込んで、頭を下げたリュザールの顔を覗き込んでいた。
「……いや、顔を覗き込むなよ」
「どんな顔をしているかなと思って」
「こんな顔だよ」
真面目な表情から、呆れたような表情となる。
アユはそんなリュザールを見て、笑ってしまった。
張りつめた心は、ほろほろと解けていく。