帰宅
医者は馬を所持していた。以前診療所を営んでいた医者の馬だったらしい。
一日三回散歩に連れて行くばかりで、乗ることはなかったという。
「というか、乗れないんだ」
白く美しい牝馬である。リュザールの黒馬と並べば、絵になっていた。
「何度も売ろうと思ったのだけれど、形見だと思えばできなくて」
走らせるために草原に放てば、呼ばずとも戻ってくる頭の良い馬だとか。
「問題は、どうやって連れて帰るか、だな」
街から馬を走らせたら、すぐにユルドゥスの集落に戻ることができる。
しかし、医者は馬の乗り方を知らない。
ここで、アユが想定外のことを主張する。
「私が黒馬に乗る。先生とリュザールは、一緒に白馬に乗っていけばいい」
「いや、あの馬は、俺以外操縦できない──」
「あの奥さん、旦那さんを乗せてあの黒馬でここまで駆けてきたんだよ。町で、暴走花嫁とか、噂になってた」
「暴走花嫁……」
リュザールの怪我を治すために、アユはどうやら頑張っていたらしい。
「コツは掴んだから」
「そうか。わかった」
黒馬の顔を見たら、アユは任せろと言っているように見えた。
リュザールしか乗せず、気を許してない者が近づいたら暴れることもあった。しかし、アユに優しい眼差しを向けている姿を見て、丸くなったなと感じていた。
そもそも、アユは動物ウケがいいような気がする。
黒鷲はアユと獲物の取引に応じ、イミカンのぐうたら驢馬は命令に従い、白イタチのカラマルは母親のように慕っていた。
不思議な娘だと、改めて思った。
「じゃあ、行くか。もう、いいのか?」
「俺は……この町に、未練はない」
「わかった」
こうして、リュザールはアユと医者を連れ、ユルドゥスの集落へと戻る。
ユルドゥスの大精霊の洗礼が、医者を迎える。
息もできなくなるくらいの風が吹いたが、しだいに弱まった。
風の大精霊は、新たなユルドゥスの一員となる医者を受け入れたようだ。
リュザールらを出迎えたのは、風の大精霊だけではなかった。
集落の入り口に、槍を持ったアズラが待ち構えていた。
一切の隙がない彼女の立ち姿に、医者が驚愕する。
「な、なんだ、あの屈強な女戦士は! 勝てないと、ユルドゥスに入れないとか?」
「いや、あれは俺の母だ」
「お、お若いお母さんで!」
アズラはリュザールとアユの身を案じ、待ち構えていたようだ。
「無事だったようですね」
「ああ、まあ」
曖昧に返すと、鋭い視線が矢で射られたように飛んできた。
リュザールは観念し、事情を話す。
「なるほど。そういう事態に巻き込まれていたのですね」
「それで、医者の先生の世話はどうしようかと思って」
「安心なさい。適任者がいます」
医者はイミカンの家で生活することになった。
ぐうたらで呑気者のイミカンは、あっさりと医者を受け入れる。
「忙しかったら、どんどん三兄を使ってくれ。意外と器用なんだ」
「え、でも、悪いよ。お兄さんも忙しいだろうし」
「悪くないし、忙しくもない。一日中、楽器の演奏しかしていないから」
リュザールの容赦ない一言に、イミカンが言葉を返す。
「これは、趣味で弾いているんじゃないよ。精霊を、慰めているんだ」
「つまり、一日中働いていないってことだから」
「は、はあ」
「酷いなあ、リュザールは。昔はぴいぴい泣いていて、可愛かったのに」
「泣いていないし、可愛くもなかっただろうが!」
兄弟のやりとりを聞いていたアユは、笑いだす。
「リュザール、奥さんに笑われているよ」
「三兄が笑われているんだよ!!」
リュザールが言葉を返すとアユはさらに笑いだした。
ユルドゥスの者達は医者がやって来たと聞いて、果物や乳製品を持ってきておがむ。
医者はユルドゥスで大歓迎を受けた。
その日の晩、宴を開いたが、どんどんごちそうが運ばれ、大いに盛り上がる。
皆が皆、医者を敬い、感謝していた。
想定外の歓迎だったからか、医者は涙を流して喜んでいた。今まで冷遇され、辛い思いをしていたので、余計に感極まったのだろう。
そんな医者の様子を前に、リュザールとアユは顔を見合わせてあわく微笑んだ。
◇◇◇
翌日、アユはせっせと羊毛を染める作業を行っていた。
集落から離れた場所に、石を積んで簡易かまどを作る。
一人ではなく、リュザールの二番目の兄の娘エリンが手伝ってくれた。
「アユお姉ちゃん、石の並べ方はこれでいい?」
「うん。ありがとう」
まず、先日採ったアカネの根を水に入れて煮込む。もくもくと煙が上がり、空へと昇っていった。
「これは、どんな赤に染まるのかしら?」
「できてからの、お楽しみ」
途中、エリンは家畜の世話をするために戻っていく。
煮込んだ鍋の中が赤で満たされると、羊毛を入れる。
アユは一人、煮立つ鍋の中を覗き込んでいた。
途中、棒に引っかけて羊毛の染まり具合を確認する。
「……?」
いつもと染まり具合が違うので、アユは首を傾げる。
その後も時間をかけて煮込んだが、色合いは変わらない。
煮込んだアカネの種類が違ったのか。鍋の中のくたくたになった根を確認してみたが、今まで使っていた物となんら変わらない。
羊毛も、手触りや長さ、量も今まで作っていたものとほぼ同じだ。
あとは使った鍋か、それとも水か。
ここで、アユは気づく。ユルドゥスに来た時、水がすごく美味しいと感じたことに。
水だけでなく、紅茶や珈琲、料理も美味しかった。
ハッとなったアユは近くにある湖へ走る。ほとりにしゃがみ込み、手で水を掬った。
それを、すぐさま口にする。
「──!!」
草原の水は、アユが住んでいた山の水とは違った。
だから、アカネの色に染まりにくくなっているのだろう。
想定外の事態に、アユは呆然としていた。
織物は地域によって色合いや模様が違う。これは、自生する植物や職人に伝わる技法の他に、水も影響していたのだ。