アユの絨毯
昨日の残りのスープで朝食を済ませる。
空っぽの胃に、ジャガイモを潰して煮込んだスープは優しく沁み込んだ。
治療代と入院費を支払おうとしたが、医者は受け取らなかった。
「いや、怪我を治したのは、君ら夫婦の不思議な力だし」
「しかし、昨晩傷口を縫っていなかったら、さらに出血していたかもしれない」
「そうだけどさ、二日酔いで、縫い目もぐちゃぐちゃだっただろうから」
「おい、どんな縫い方をしたんだ」
「まあ、治ったからいいじゃないか」
代金を受け取る気はないようなので、リュザールはアユと共に診療所の掃除を行うことにした。
歩いただけで埃の塊が舞い上がる部屋を、夫婦は無表情で綺麗にしていく。
「いや~、助かるよ。ここ、ほとんど患者もいないし」
「そうなんだな」
「俺がよそ者だから、信用がないんだよね」
医者がここにやってきたのは三年前。それまでは、旅をして各地を巡っていたらしい。
「なんで医者が旅をしているんだよ」
「まあ、いろいろあって」
遠い目をしながら、医者は語る。
「偶然立ち寄ったこの地で、ここに住んでいた医者を看取ったんだ」
今際の際に、ここを継ぐように頼まれたらしい。断る理由もなかった医者は、その話を受けたのだとか。
「毎日商人が出入りして、市場も活発で、解放的な町だと思っていたんだけれど」
実際に住んで気づく。この地に住む人々は、よそ者を歓迎せずに閉鎖的な考えを持っていることに。
「いや~、驚いたよ。旅人としてやって来た時は食堂のおばちゃんも、宿屋のお爺さんも親切だったのに、いざここに住むとなったら、無視されるわ、きつく当たられるわで」
それは宗教の違いだったり、今までの均衡が崩れることを恐れていたり。理由は多々あったのだろう。
「酷い話で、病気になったら、遠く離れた隣の村まで患者を連れて行くっていうんだ。本当、よく分からない話なんだけどね」
補修をする余裕がない診療所はボロボロ。患者が来ないので、汚れていても問題はない。
だから、医者も酒浸りな日々を送っていたのかもしれない。
「診療所も人が住んでいるのかいないのか、分からないから、外から来た人も近寄らないしね。だから、君らが頼ってここに来てくれた時は、嬉しかったよ。自分の役目を、できることを、思い出すことができた。しかしまあ、これから先、患者が来ることもないだろうけれど」
リュザールは自らの腕の傷跡を見る。ぱっくりと開いていた傷口は、まっすぐ一本の傷跡が残るばかりだ。曲がったり、波打ったりしていない。
傷跡を治したのはアユの願った奇跡であったが、傷口を元通りになるよう縫ってくれたのはこの医者だ。きっと、腕はよいのだろう。
こんな所で燻ぶらせるには、もったいな人材である。
「だったら、俺達と一緒に来ないか?」
「え?」
医者をユルドゥスに招くことは、長年の悲願としていた。歴代の族長が何度も交渉していたが、今まで一度も叶わなかったらしい。
それだけ医者の数は少なく、貴重な存在なのだ。
「遊牧生活をしているから、楽な環境ではないが──」
きっと、医者の存在は望まれ、尊敬されるだろう。
「どうしようかな。光栄なお誘いだけど、故人の願いを反故にできないし」
「まあ、無理にとは言わない。少し、出かけてくる。その間に、考えておいてくれないか?」
「う~~ん、そうだね。わかった」
その後、商人一家がやってくる。白イタチのカラマルは、子ども達が面倒を見てくれていたようだ。
上等な羊肉を貰ったようで、お腹がぷっくり膨れていた。
「意識が戻ったようで、安心しました」
「心配かけたな」
「いえ……。私達こそ、命を助けていただいて……なんとお礼を言っていいものか」
「気にするな」
ここで、商人一家と別れる。
「じゃあ、絨毯ができたら連絡するから」
「はい! 楽しみにしています」
市場の絨毯商を通じて、取引を行う約束を交わした。
「さて、俺達も行くか!」
アユはリュザール見上げ、首を傾げながら質問する。
「どこに?」
「市場だ」
◇◇◇
港から大都市までの中間地点であるこの町には、様々な商品が並んでいる。
魚、果物、野菜、香辛料と、新鮮な食べ物が並んでいた。雑貨も豊富で、各地の伝統工芸なども並ぶ。
その中で、リュザールは商人と知り合いだという絨毯商の店を覗くことにした。
「ったく、どこにあるんだ?」
市場の店は百以上ある。人も多く、視界に映るほんのわずかな商品を見て判断しなければならない。
「あ、見つけた」
目敏いアユが絨毯商の店を発見する。リュザールの手を握り、誘導してくれる。
手袋越しだったが、リュザールは内心ドギマギしてしまった。
「リュザール、あれ、絨毯のお店──どうしたの?」
「いや、いきなり手を握るから、驚いて」
「あ」
アユは無意識だったようで、手に視線を落として頬を赤く染めている。
「ごめんなさい。嫌だった?」
「嫌ではない」
「そう、よかった」
ホッとしたように微笑むアユは可憐だった。いつの間にこのように笑えるようになったのかと、リュザールは不思議に思う。
出逢ったころは、面を被ったように表情は何も変わらなかったのだ。
「リュザール?」
「ああ、悪い。行こう」
絨毯商の店は市場の中でも雑然としていた。狭い中で大きな絨毯を何枚も展示しなければならないので、仕方がない話だろうが。
台の上に広げられている絨毯は、素晴らしいものであった。
羊毛を使った物で、毛足は長く見ただけで手触りがいいことが分かる。目の詰まった織り目は丁寧な作りであった。
何よりも素晴らしいのは、燃えるような夕陽に似た赤を使った羊の角模様である。
羊の角は豊穣と武勇を示し、絨毯の織り目からは勇ましさが感じられた。
リュザールはひと目見て、この絨毯を気に入った。これが家にあったら、どんなにいいものか。
しかし、目利きではないリュザールにも、この絨毯の価値が分かってしまう。
おそらく名工と呼ばれる職人が作る、世界に二つとない最高級品であると。
「お客様、そちらの商品がお気に召しましたか? お目が高い!」
絨毯商が揉み手で近寄って来る。
値段を聞いたが、到底手の届く品ではない。
商人は続いて商品の説明をしようとしたが、アユが袖を引くのでその場から離れた。
「おい、どうしたんだ?」
アユの顔色が悪い。リュザールの服を掴んだまま、離さなかった。
「アユ?」
「あれ、私の、絨毯……」
「え?」
「嫁入り、道具、だったもの」