夫婦は分かち合う
診療室に移動し、リュザールは医者に腕の怪我を見せた。
すると、今まで眠そうにしていた医者の目がハッと見開く。
「これは──!」
「朝起きてみたら、こうなっていたんだ」
「ありえない。ありえないよ、こんなことは」
医者はリュザールの腕を掴み、傷跡を指先でなぞる。
「痛みは?」
「ない」
「嘘、だろう……昨日、確かに俺が傷口を縫ったのに……。糸は?」
「なんか、包帯外したらパラパラ落ちていった」
傷を目の当たりにして尚信じられないようで、医者は穴が空きそうなほどにリュザールの傷跡を眺めていた。
息がかかるような距離に顔があるので、鳥肌が立っていたが今は我慢するほかない。
「もしかしたら、アユ、妻が何か知っているかもしれない」
「ああ、そうだね。でも、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
医者は居住まいを正し、真剣な表情で話す。
「犠牲を厭わない男と、奥さんの説話みたいだと思って」
「な、なんだ、それは?」
「古い精霊神の話に、魂を共有させて、夫の犠牲を妻が受け取るみたいな話だったようだ」
「魂の共有? 聞いたことがない」
「昔、町の酒場にいた吟遊詩人が、歌っていたのさ」
それは何百年、何千年と昔の話である。
ある草原に、誰かを守ることに犠牲を厭わない調停者の男がいた。その男の妻となった女は、いつも泣いていた。
男が、指をなくし、腕をなくし、足をなくしても、誰かを守ろうとするからだ。
女は精霊に祈る。次に、夫が何かを失くした時、その犠牲を女が負うようにしてほしい、と。
そして男に、次に何かを失くす時は、痛みも悲しみも妻がすべて受け止めると宣言していた。
それなのに、男は妻との約束を忘れ、自らの命を捧げて弱き者達を救おうとした。
結果──男は死なずに、妻が死んでしまった。
男は嘆き、命を絶とうとしたが、なぜか死ぬことができない。
死した妻は風の精霊となり、男が死のうとすると嵐を生みだし男への咎としていた。
女は荒ぶる風となって訴える。
自分勝手な犠牲は誰かを不幸にすると。
男は多くの人々を犠牲によって救い、英雄として崇められることに酔っていたのかもしれない。
調停者の一族にある精霊石の交換は、その神話にある夫婦の話に倣って行われていたらしい。犠牲によって人々を救うのは構わないが、遺される家族のことも考えるようにと。
精霊石を交換することによって、夫婦の気持ちは通じ合う。
大事なものを忘れないように。
吟遊詩人の歌はそこで締めくくられていたようだ。
「その神話が本当なら、アユが怪我を負っているということか?」
「さあ、どうだろう?」
血の気が引くという感覚を、リュザールは生まれて初めて体験する。
弾かれたように立ち上がり、診察室を飛び出した。
アユがリュザールの怪我を負っていたとしたら、大変なことだ。
「アユ!」
「……ん?」
リュザールの叫びで、アユは起きたようだ。
「ん、朝?」
その問いかけには答えず、リュザールはアユを怒鳴ってしまった。
「お前、なんてことをしたんだ!」
「え?」
「腕を見せろ!」
布団を捲り、アユの腕を捲る。
するとそこにはリュザールと同じ、ミミズ腫れのような傷痕があった。
「こ、これは──!」
リュザールの傷がアユに移っているわけではなかったが、傷痕はある。
いったい、どういうことなのか。
遅れて、医者がやって来た。
「奥さんの傷は?」
「ないといえばないし、あるといえばある」
「どういうこと?」
リュザールは医者に、アユの傷痕を見せた。
「これは、君の怪我の位置や大きさとまったく同じだね。いったい、何が起きたんだ?」
医者とリュザールは、アユに視線を送る。
アユは起き上がり、昨日の出来事を語った。
「異国に、夫婦は喜びも、悲しみも、痛みも苦しみも、すべて分かち合うっていう言葉があって……」
リュザールがあまりにも苦しそうにしていたので、その言葉を口にした瞬間、傷痕ができたらしい。
「それは、どういう言葉なんだ?」
「……」
「アユ、教えてくれ。頼む」
リュザールは片膝を突き、頭を下げて乞う。
「リュザール、立って」
「言葉を教えてもらうまで、立たない」
アユは寝台から下りてしゃがみ込み、リュザールと目線を同じにした。
「……病める時も、健やかなる時も、困難な時も、幸せな時も、死が二人を分かつまで、愛し、慈しむことを、誓います」
「わかった」
リュザールはアユの手を取ると、巻いていた包帯を解く。
手のひらの傷は瘡蓋ができていたが、見た目は痛々しい。
「リュザール、ダメ」
「ダメじゃない」
リュザールは先ほど教えてもらった言葉を口にする。
すると、手のひらに鋭い痛みが走った。
「──ぐっ!」
息苦しくなり、頭を金槌でガンガン叩かれたような感覚に陥る。
ポタリと、額から汗が伝った。
それは、傷の痛みからというより、傷を共有した力の衝撃といえばいいのか。
とてつもない大きな力が、アユとリュザールの間を巡ったようだ。
息苦しさと頭痛が治まったあと、手のひらを見る。すると、薄皮一枚を切ったような小さな傷ができていた。
すかさず、アユの手を確認する。
痛々しい瘡蓋はなくなり、リュザールと同じく薄皮一枚切れた程度のものが残っていた。
「お前の時も、こんなに苦しかったのか?」
「……」
「そうだったんだな」
リュザールはアユを抱きしめ、耳元で礼を言う。
「もう、こういうのは、二度とやらないようにしよう。お互いに」
リュザールの懇願に対し、アユは頷いて同意を示した。