目覚め
それは、幼い頃の記憶。
流星が空を流れる夜──大人達の怒号が響き渡る。
調停に出かけていた父メーレが戻ってきたのに、物々しい雰囲気となっていた。
誰かが死んだのか。母アズラに聞いたが、誰も死んでいないという。だったらなぜ、皆不安そうにしているのか。そう問うと、アズラはリュザールを抱きかかえてイミカンへと押し付けた。
イミカンは得意の楽器で演奏しつつ、リュザールを寝かせようとしたが、あっさりと寝落ちしてしまった。
リュザールはイミカンの頬を叩いて起きないことを確認すると、家屋を飛び出した。
大人達は何かを隠している。
リュザールはそれが何か、知りたかったのだ。
唯一、灯りが漏れている家屋へと近づこうとしたが、その前に異変に気が付く。
何か、狼の遠吠えのような、激しく唸るような声が聞こえたのだ。
これは、いったい?
答えはあの家屋の中にあるだろう。
リュザールは意を決し、一歩、一歩と慎重な足取りで家屋へと近づいた。
狼のような声は、だんだん大きく、荒ぶっていく。
恐ろしくて足が竦んだが、好奇心ではない何かが、リュザールの歩みを止めなかった。
ようやくたどり着き、布の隙間から家屋の中を覗き込む。
すると、リュザールの目に飛び込んできたのは、三人の兄達に取り押さえられる父メーレの姿だった。
手負いの熊のように、暴れまわっている。腕は真っ赤に染まっていて、それが血であることに気づいた時はゾッとした。
すぐさまリュザールは察する。メーレは大精霊の力を使ったのだと。
大きな力を望めば、それだけ多くのものを失う。そして、大精霊の依り代となり、人の手には負えなくなる。
巫女の話を、今になって理解した。
メーレは今、激しく怒っている。
草原に災いをもたらす侵略者の一族に対して。もっと犠牲を捧げたら、一網打尽にできる。
そう言いたいのか。
それはメーレの意思ではなく、大精霊の意思だろう。
屈強な兄三人が取り押さえても、メーレはものともせずに暴れていた。
ここで、アズラが縄を持ち出し、突然メーレに飛びかかった。遠慮なく殴りかかり、馬乗りになると鮮やかな手つきで縛る。
一瞬だった。三人の兄達は呆然としている。
メーレは縄で拘束されたあと、治療が施されるようだ。
リュザールは回れ右をして、駆けだす。
胸がばくん、ばくんと激しく鼓動していた。
熊のように暴れる父が怖かった。それ以上に怖いのは、そんな父を一瞬にして拘束状態にする母だったが。
家屋に戻ったリュザールは、呑気に眠る兄イミカンの横で丸くなる。
イミカンだけは、変わらない。何があっても。
いつもはダメな兄だと呆れていたが、今は彼の脳天気さに救われるようだった。
リュザールは目を閉じ、心の中で繰り返す。
大精霊様の力は、安易に使ってはいけない。
幼いながらも、リュザールは人には御せない大きすぎる力を理解してしまった。
◇◇◇
「うっ……」
太陽の光が窓から直接差し込み、その眩しさでリュザールは目を覚ます。
両目を手で覆って起き上がろうとしたが──左手が誰かに握られていることに気づく。
アユだった。
彼女はなぜかリュザールの手を握り、座ったまま眠っている。
「おい、お前、なん──」
ここでようやく、この場が自分の家ではないことに気づいた。
そして昨日、大精霊の力を揮ったことを思いだす。
アユが握っているのは、ナイフで切りつけたほうの腕だった。
もしかしたら、今までのように弓を引けなくなっているかもしれない。アユや商人を守るために、腕を深く傷つけてしまった。
傷の具合を確認するのは恐ろしい。しかし、ずっと何も見ないままというわけにはいかないだろう。
リュザールはまず、アユの手を離そうとした。が、しっかりと握られていてなかなか外せない。
「おい、アユ、起きろ。そんなところで眠るな」
声をかけたが、アユは目を覚まさない。
具合が悪いのかと思い顔を近づけるが、寝息は規則的に立てられていた。顔色も悪くない。
どうして、このように力強く手を握ってくれているのか。
起き上がると、額に乗せていた手巾が落ちる。
傍らにある机には、水の張った盥と、布がかぶさった皿がある。リュザールのために、スープを用意していたのか。
どうやら、アユは一晩中看病をしていたようだ。
リュザールは空いているほうの手でアユの頬を撫でると、口元が弧を描く。同時に、握られていた手も離された。
まずは、アユを寝台に寝せなければ。リュザールは立ち上がり、寝台から下りる。
そして、アユを抱き上げて横たわらせた。
ここで、違和感を覚える。怪我をしている腕に、痛みがまったくない。
多少、皮膚が引きつる感覚はあるが、それ以外はいつも通りだった。
不思議に思い、包帯を外す。すると、リュザールの傷口は驚くような状態になっていた。
まず、パラパラと粒のようなものが落ちていく。それが傷を縫った糸だというのに、しばし時間がかかった。
そしてリュザールの傷は、ただのみみず腫れのようになっている。
ありえない状態だった。
アユを起こして聞こうか。しかし、眠っているところを起こすのも悪い気がした。
どうしてこうなったのか。リュザールは一人頭を抱え込む。
すると、廊下から物音がした。誰かがいるようだ。
リュザールは廊下へ飛び出し、歩いていた人物に声をかけた。
「おい」
「うわっ! びっくりした」
廊下にいたのは、髭だらけの中年男性である。
「お前……医者、か」
「い……医者、だと思う」
リュザールは医者らしき男から、事情を聞くことにした。