祝福の代償
荷車が行き来しやすいよう石畳で整えられた道を、大荷物を抱えた商人達が闊歩している。
ザムドール──草原の真ん中にある、小さな町である。流通の中間地点として、さまざまな商品が市場に並んでいた。
日覆いの幌がかけられた商店が並ぶ市場は、人でごったがえしている。
その多くは、商談目的の商人だ。
町中を、一台の荷車が高速で引かれていく。引いているのは、馬だ。
馬を操っているのは、美しい花嫁である。
青いベールをなびかせ、町の中心街を風のように駆けていた。
リュザールはザムドールの医者にもとへ運ばれた。町外れにある診療所は、木製の平屋建てで、建物自体が傾いていた。なんとも怪しい外観である。
しかし今は、藁にも縋るような気持ちでリュザールを連れて行った。
ドアノブは回せるので、鍵がかかっているというわけではなかった。建物が傾いているからか、なかなか扉が開かないのだろう。
続けて、どんどんと叩いたが反応はなかった。
「すみません! 誰か!」
腹の底から叫んでも、返事はなかった。アユは息を大きく吸うと、そのまま吐き出す。
そして──思いっきり扉に体当たりした。
扉はガキン! と変な音を立てながら開く。
やっと診療所の中に入れたが、中は薄暗く人の気配はない。
濃い、薬草の匂いが漂っている。近くにあった窓のカーテンを開くと、診療所内の様子が明らかとなる。
まず、目に付いたのは大きなテーブルだ。そこにあったのは、乳鉢に薬草の入った瓶、ガラス製品がいくつか並べられている。製薬道具なのだろう。
他に、診療台とぼろい机と椅子があり、みっちりと本が詰まった本棚もある。
そのことから、一応診療所であることが理解できた。
「あの、ごめんください」
声をかけるが、やはり反応はなかった。奥に続く扉のドアノブに手をかける。やはりこれも、開かなかった。アユはもう一度、体当たりをして開く。
廊下を進み、途中にあった扉を叩いたが返事はない。ここは物置のようだった。本が雑多に重ねられ、埃だらけで咳き込んでしまった。
隣にある部屋は、台所だった。その隣が風呂。
一番端にある部屋の扉を叩く。
「ううん?」
「!!」
反応があった。アユは扉に渾身の蹴りを入れて中へと入る。
そこは寝室で、ずいぶんと酒臭かった。寝台はシーツを体全体に被ったような盛り上がりがある。
アユは大股で寝台まで近づき、訴える。
「すみません、夫が、怪我をしていて!」
「怪我?」
「精霊の祝福を使おうとして、腕を、切ってしまって」
「ああ……そういうの」
もぞもぞと動き、シーツから顔を出したのは目が隠れるほど前髪が長く、茶色い髭が顔全体を覆ったむさ苦しい印象の男だった。見た目は四十前後に思えた。
声が若かったので、意外に思う。髭を剃ったら若いのかもしれないが。
それよりも気になるのは酒臭さだ。本当に医者なのか、疑問に思う。
「あの、お医者様?」
「そうだけど」
「治療を、お願い、したいのだけれど」
「わかった。君は、家の裏にある井戸の水を使って、湯を沸かして」
アユは指示を聞き、弾かれたように走り出す。酒臭さは気になったが、医者の声はしっかりしていた。だから、大丈夫だろうと判断する。
裏口から井戸に向かい、水を汲む。台所は一応清潔さを保っていた。胸を撫で下しつつ、かまどに火を入れて湯を沸かす。
沸騰しだしたら寝間着姿だった医者がやってきて、鍋の中に針を入れた。どうやら煮沸消毒をしたかったようだ。
「もう、旦那さんのところに行ってもいいよ」
「わかった」
診療室に戻ると、リュザールは診療台に寝かされていた。傍にいたのは商人で、アユの顔を見るなりホッとした表情を見せていた。
「ああ、奥さん、よかったです。ご無事で」
「うん、ありがとう」
リュザールは商人が寝かせてくれたようだ。
診療台の上のリュザールは体を曲げ、額に汗を浮かべながら辛そうにしている。
アユは再び走った。井戸で冷たい水を盥に持ってきて、自らの手巾を浸して絞る。
リュザールの顔や首筋拭い、熱を逃がそうとした。
「待たせたね。始めよう」
治療を開始するようだ。医者は商人に、リュザールの体を押さえておくように指示を出す。
「奥さんは離れていて。これは、普通の怪我とは違うようだから」
「え?」
「彼、祝福を使ったのでしょう? それによって負った怪我は、体が治療を拒絶するんだ」
何を言っているのか分からなかったが、アユは医者の言葉に従う。
医者は針に糸を通し、リュザールの傷口へ近づけたが──ここで、突然リュザールが叫び、ジタバタと暴れ出した。
人は自らの犠牲を代償に、奇跡の力を揮う。
リュザールはアユにその力を使うなと言った。
その意味を、今、目の当たりにする。
リュザールは治療を拒んだ。それは、彼の意思ではない。優しい風を吹かせているいつもの精霊の力でもない。だったら、いったい誰なのか?
精霊石を持つアユに、それは伝わっていた。
そっと精霊石に触れてみる。
──犠牲ヲ、モット、犠牲ヲ。サスレバ、コノ世、スベテノ憎キモノヲ、滅ボスダロウ
低く、怒気のこもった声だった。
額に汗が浮かび、膝の力が抜けてその場に頽れる。
両手を床に突き、息を整えた。
アユは確信する。治療を拒んでいるのは、草原の大精霊である、と。