牙を剥く
アユの肌が粟立つ。今しがた目にしたものは、悪しきものが凝縮した塊に思えた。
だが、まだはっきりと見たわけではない。
目を凝らすと、五頭の馬とそれに騎乗している者の姿が確認できた。
ゆらゆらと不気味に揺れるのは、黒い旗。絵柄までは見えないが、不吉なもののように思える。
アユはリュザールを振り返り、前方に見えたものを報告した。
「リュザール!」
「どうした?」
「前に、何か、よくない存在が、迫っている」
リュザールはハッとしたものの、そこまで驚いているようには見えない。
おそらく、この強風から何かを読み取っていたのだろう。
「俺には、まだ何も見えないが……何か悪いものが迫っていることはわかる。風の精霊が、先ほどから知らせていたんだ」
「そう」
やはり、リュザールもわかっていたようだ。だから、こうして商人一家と共に付いてきたのである。
そして、この向かい風は「こちらへ来るな」という精霊からの警告なのだ。
「アユ、奴らの特徴はわかるか?」
「黒い旗……それから、獅子の絵が、描かれている」
「!?」
リュザールの舌打ちが聞こえた。
それは、侵略者一族の中でも最低最悪と云われている一族であるという。
標的となった商人や遊牧民は老若男女問わず一人残さず屠り、金目の物は根こそぎ奪う。
残忍な者達の集まりなのだ。
リュザールは馬を止める。騾馬に乗っていた商人一家も、それに倣った。
商人は騾馬から降りて、リュザールのもとへとやって来る。
「どうかなさいましたか?」
「前方から、侵略者の一族が迫っている」
「な!?」
「落ち着け。家族が不安がる」
「え、ええ」
商人やリュザールに姿はまだ見えないようだが、遠くのほうで土煙が巻きあがっているのは確認できた。商人は顔を青ざめさせていた。
「あ、あの、どこかに、隠れます?」
「いや、この辺りに隠れられるようなところはない」
もちろん、荷物を捨てた状態でも、駱駝と騾馬の脚力では馬から逃げ切ることは不可能だろう。
しだいに、リュザールの目にも侵略者達が見えてきたようだ。
武器を携え、今から商人一家を蹂躙しようと近づいてきている。
リュザールと同じ、褐色に金の髪を持つ者達ばかりであった。
先頭を走るのは、頭部の髪をすべて剃った上半身裸の筋骨隆々な男である。年頃は四十前後か。胸から頭のてっぺんにかけて、昇り龍の入れ墨が掘られていた。
その男の獲物を狙い、舌なめずりする様子までアユには見えてしまう。
アユはそっと、帽子の上から精霊石に触れる。リュザールの感情が流れ込んでいるのか、強い熱を発していた。
そこから、焦りと怒りの感情が流れ、アユにも伝染する。
「リュザール、どうする?」
「……」
侵略者の一族はもう目前まで迫っていた。
自慢の弓矢は風が強いので使えない。いったい、どのようにして侵略者の一族と戦うのか。
リュザールは腰ベルトからナイフの柄を握り、鞘から抜く。
手にしたのは大振りのナイフであったが、相手は大剣を持っている。応戦するにはいささか心細い。
「リュザール?」
嫌な予感がしたので、振り返って名を呼んだ。
それと同時に、リュザールは大振りのナイフで自らの手首から肘までの間を切りつける。
「──っ!?」
言葉を失ったのと同時に、リュザールの腕から血が噴き出た。それは風に流れ、宙を舞う。
アユのほうにも赤い血潮が飛んできたが、頬に触れる寸前で風が攫っていった。
リュザールの血は風に乗って弧を描き、次第に変化を遂げる。
向かい風がピタリと止んだかと思えば、今度は追い風となる。
その風はリュザールのいる周囲を目とし、大きく渦巻いた。
だんだんと風は強まり、刃のように鋭くなる。
それは──嵐のごとく。
吹き荒ぶ烈風は接近する侵略者の一族を襲い、逃がさない。
悲鳴が聞こえていたが、何が起こっているのか嵐の内側からはわからなかった。
「今のうちに、進むぞ」
「は、はい」
嵐は歩みとともに進んでくれるようだ。
その間、リュザールの血は流れ続ける。
アユは止血したいと思ったが、手を出すことができなかった。
これも、額の精霊石のせいだろう。
リュザールと同調し、してはならないと頭のどこかで理解していたのだ。
駱駝と騾馬を急かし、なるべく速足で草原を進んでいく。
途中で、嵐は消えた。代わりに、強い追い風が吹きつける。
周囲に侵略者の一族の姿は見えないので、休憩をしたいと頼んだ。リュザールは一刻も早く町に行きたいようだったが、アユは必死に懇願する。
まず、馬を止めて降りると、商人がやって来て平伏した。
「ありがとうございました!!」
「あ、いや、いい」
リュザールはぶっきらぼうに言う。それどころではないのだろう。
何か治療をと考えていたら、先ほど商人が言っていた話を思い出す。
明礬には、止血効果があると。
「あの、明礬の使い方、教えて」
「え?」
首を傾げた商人だったが、リュザールの左腕が血だらけなことに気づく。
「あ、あの、はい。承知いたしました」
リュザールは顔を青くしていた。商人の妻が包帯を持ってくる。
大きな白い石に見える明礬は、水に濡らして使う。商人は明礬を水に浸し、リュザールの傷口に当てた。
「──ぐうっ!!」
明礬は沁みるようだ。アユは咄嗟に、リュザールの怪我をしていない手を握る。
もう一度、水に濡らした明礬を傷口に当てた。
リュザールは歯を食いしばったような表情となり、アユの手をぎゅっと握る。
それを数回繰り返し、包帯を巻いた。
白い包帯に、ジワリと血の赤が染み込む。
「もう少ししたら、明礬が効くはずです」
「ありがとう」
滲む血を見ていたら、泣きたくなる。
これが、精霊の祝福の対価なのだ。
犠牲なくして、力は揮えない。分かっていたが、いざ目の当たりにすると辛くなる。
「先に進もう」
リュザールはなんともなかった風を装って、馬に乗った。アユも続く。
日が沈むのと同時に、ようやく街が見えてきた。
「リュザール、あと少し、頑張っ──」
背後から、ドサリという音が聞こえた。最初、荷物を落としたのだと思っていたが、振り返ると、リュザールが落馬した姿が目に映った。
「リュザール!!」
アユは見様見真似で馬を止め、飛び降りた。
リュザールはナイフで切りつけた腕を掴んだまま、倒れていた。