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約束

 やっと朝食にありつける。そう思っていたが、リュザールはアユの動作の違和感に気づいた。

 手の動きが、いつもと違ってぎこちない。

 パンを指先で握ってもう片方の手で千切るのだが、パンを摘まんだ手が震えていたのだ。


「おい、どうした? 手に、何か怪我をしているのか?」

「え?」

「見せてみろ」


 アユの手からパンを抜き取って、手のひらを裏返す。


「なっ!?」


 アユの左右の手のひらの皮は裂け、血が滲んでいた。


「お前、怪我してないって言っていたのに、しているじゃないか」


 アユは返す言葉がなかったのか、しょぼんとするばかりだ。


「綺麗に洗っているみたいだが、止血がなってないな」


 リュザールが織物で作った袋から取り出したのは、遊牧民にはあまり馴染みのない綿の布。それをナイフで裂き、包帯を作る。

 まず、正方形に折った綿布を当て、その上から包帯を巻いた。


「切り傷は綺麗に洗って放置が一番いいんだけどな。今は、血が出ているし、痛いだろうから」

「ありがとう」


 問い詰めると、アユにとってこの程度の傷は日常茶飯事だったようだ。

 そのため、怪我がないか聞かれた時に言わなかったと。


「なんだよ、怪我が日常茶飯事って」

「家事を焦りながらした時とか」

「なんで焦りながら家事をしていたんだ?」

「とにかく、時間がなくて」


 アユの言っていることが、リュザールには理解できない。

 たった一日で、ヨーグルトやチーズといった乳製品を量産する腕前はかなりの仕事の速さだろう。

 そこから推測すると、最悪の事態が思い浮かんでしまう。


「お前さ、もしかして、他の兄弟に仕事を押し付けられていたんじゃないのか?」

「そういう日もあったけれど」

「そういう日って……。まさか、兄弟から仕事を押し付けられない日は、兄嫁や妹に押し付けられていたとか?」

「そういう日も、あったけれど」

「なんだよそれ!」


 アユの家族はアユが断らないことをいいことに、楽をしていたようだ。


「お前な! そういうのは、自分のためにも他人のためにもならないってことを、知らないのか?」

「……」

「自分を守れるのは、自分しかいないんだ!」


 アユが焦るほど仕事を押し付けられていたという事実に、リュザールは腹を立てる。

 拳を握りしめ、自らの腿を叩いた。


「ごめんなさい」

「なんで、お前が謝るんだよ」

「断る勇気がない私が、悪いから」

「いや、悪いのはお前じゃないだろう!?」


 怒鳴ってしまったあと、アユの傷ついた表情を見てハッとなる。

 これも、崖に落ちかけた羊を助けようとしたケナンの過ちと同じことだった。

 良くないことだということは、アユ自身が一番分かっている。だから、リュザールはすぐさま謝った。


「怒鳴ってすまない」

「ううん、大丈夫」

「今度、そういうことが起こったら──」


 ユルドゥスでそういうことは起こるはずがないが、念のために言っておく。


「俺がぶっ飛ばす」

「え?」

「お前を焦らせたり、困らせたりする相手は、ぜんぶ倒してやるから、安心しておけ」

「……」

「その沈黙は、頼んだと受け取っていいのか?」

「ち、違う」


 いつもは淡々としているアユが、珍しく狼狽えていた。


「暴力は、よくない」

「それはわかっているが、お前を酷い目に遭わせるヤツへの気遣いの心は持ち合わせちゃいないんだ。俺に暴力をふるわせたくなかったら、自分を守る言葉を覚えることだな。わかったな?」

「うん、わかった」


 アユの返事に、リュザールは目を見張った。


「何?」

「いや、返事をするようになったと思って」


 今まで、アユの返事といったら、じっと相手を見つめることだった。


「もう、私は羊飼いではないから、声を大事にする必要はない。それに、ユルドゥスの人達は、きちんと声に出して意思を伝えている。だから、思っていること、感じていることは、きちんと話したいと思った」


 やっと、アユはハルトスの思想からユルドゥスのものへ切り替えができたようだ。

 彼女はもう大丈夫だろう。そんな安心感があった。


「よし、食事にするぞ」


 リュザールはアユの皿の上にあったパンを掴み、一口大に千切ってやる。


「あ、自分でできる……」

「できないから、してやっているんだよ」


 そう返すと、アユは大人しくなった。


「親切は自分に返ってくるからな。だから俺は、こうして一日一回いいことをするんだよ」

「ありがとう」


 アユはあわく微笑んで礼を言う。その柔らかい笑顔を直視できず、リュザールは顔を背けてしまった。


 ◇◇◇


 本日、アユは仕事を禁じられてしまった。

 新参者だというのに、洗濯物の集まりにも行けない。

 その上、監視者もいた。


「おい、今日の家事は禁止だぞ」

「……」


 リュザールだ。ナイフを研ぎながら、アユの行動を制限してくれる。

 母アズラにアユの見張りをするよう、命じられているのかもしれない。


「仕事をしなかったら、何をすればいいのか……」

「別に、したいことがあればすればいいじゃないか」


 趣味は特にない。そのため、自由に過ごしていいと言われ、アユは戸惑ってしまった。


「することなんて、いろいろあるだろう?」

「いろいろ……」

「自分のために時間を使うんだ」

「私のため……」


 だったら、以前リュザールが作ってもいいと言っていた織物を作りたい。

 が、ここでアユは気づく。


「あ!」

「どうした?」

「今日集めた草花を、崖下に落としてしまったから」

「あ~、そうだったのか」


 アユはがっくりと肩を落とす。次、摘みに行けるのはいつになるのか。

 見当もつかない。


「だったら、今から採取に行くか?」

「え?」

「馬の手綱は握れないだろうが、俺が支えておけばいいだろう? どうだ?」

「行きたい」

「だったら決まりだ」


 こうして、アユはリュザールと共に草木染めに使う植物を探しに行くことにした。



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