大切なこと
もうダメだと覚悟していたのに、アユは助かった。奇跡だと思った。
リュザールはアユを力強く抱きしめている。
もう大丈夫。何があっても助けるからと、耳元で囁いてくれた。
──この人だけは、信じてもいいんだ。頼っても、いいんだ。
アユはそれが夫婦なのだと、実感する。
今まで、誰もアユの味方ではなかった。失敗を押し付けられても、守ってくれる人はいなかった。
ハルトスでは、先に言った者勝ちみたいなことが何度もあったのだ。
兄弟、姉妹の中でも序列があり、上手く立ち回った者がのし上がっていく。そんな社会だった。
だから、アユは出し抜かれないように、静かな闘志を心の中に燃やしていた。
誰かに期待なんかせず、隙を見せないよう努力し、目立たないように努めた。
それは、ハルトスの中で確固たる地位を勝ち取るわけではなく、自分の自尊心を守りたかったのだ。
誰かに認められたり、一目置かれたりすることは、欠片も望んでいない。
ただ、争いや諍いに巻き込まれることなく、静かに暮らしたいだけだった。
家族でさえ警戒しなくてはならない中で育ったアユは、リュザールの言葉に安堵し涙した。誰かに頼れるということは、こんなにも嬉しいことなのだ。
「でも、どうして気づいたの?」
「起きたらいないし、放牧に行くとか言っていたけれど、朝からかよって。でも、そのあと──」
リュザールはアユの額にある精霊石に触れた。
「胸騒ぎがしたと思ったら、この石がお前のことを教えてくれた」
ケナンが落ちかけた家畜を助けようとしている、アユが見ていた状況が流れてきたようだ。
リュザールと共に生まれてきた精霊石は、体の一部でもある。
以前、アユにリュザールの記憶が流れてきたのと同様に、アユのことがリュザールに流れたのかもしれない。
「朝じゃないと、採れない草花があったのか?」
「違う。朝を逃したら、他に暇がないと思って。午前中は乳製品の加工があるし、午後からは織物をする準備があるから」
リュザールは後頭部をガシガシと掻き、はあ~~っと、長いため息を吐く。
どうかしたのか。アユはわからずに、小首を傾げた。
「あのな、お前、働きすぎ」
「え?」
「部屋の中に乳製品がありすぎて、驚いた。昨日一日で、あんなに作っていたなんて」
「でも、作らないと無駄になるし」
「そういう時は、物々交換をするんだ」
そういえば、そんな話をアズラが話していたような気がした。乳製品を作る時は、すっかり失念していたのだ。
「普通の家の、三倍は作っていると思う」
「そう、なんだ」
今の調子で作ったら乳製品御殿が建ってしまうと言われ、アユは笑ってしまった。
「笑いごとじゃないからな。本当だぞ」
「うん、わかった」
しかし、リュザールがおかしなことを言うので、アユは腹を抱えて笑ってしまった。
「でも、無事でよかったよ」
「リュザールが、助けてくれたから」
「無茶をする」
「ごめんなさい」
無理をしたアユをリュザールは怒ると思っていた。
しかし、リュザールはアユの頬を、指の背でそっと撫でただけだった。
「あの、リュザール」
「なんだ?」
「私を、怒らないの?」
「怒るわけないだろう? 今回の件は、お前一人でどうにかできる問題でもないし。むしろ、よく耐えたと思っている。すごいじゃないか。ケナンと羊、両方助けるなんて」
胸の奥が熱くなる。
見上げたリュザールと太陽光が重なり、目を細める。とても、眩しかった。
その刹那、アユは気づく。
──ああ、私はこの人のことが好きなんだ、と。
◇◇◇
リュザールの手を借りて立ち上がったのと同時に、ケナンとセナが走ってやって来る。
どうやら一度、家畜を村の柵に戻し、やって来たらしい。
リュザールとアユを見つけるなり、泣きそうな顔になっていた。
「アユさ~~ん!!」
アユに向かって抱き着きそうになったケナンを、セナが腕を掴んで制する。
そのまま弟を座らせて、地面に額を押し付けた。
「ごめんなさい!! 弟が馬鹿だったから、こんなことに!!」
「あ~~……」
リュザールはため息交じりの言葉と共に、兄弟の前にしゃがみ込む。
「一つ言っておくが、一番大事なのは、家畜じゃない。自分の命だ。それだけは、間違わないでくれ」
「でも、家畜は、財産だから。それを守るのが、自分達の仕事で……」
「それでも、大事なのは自分の命なんだよ。財産なんて、努力したらいつでも得ることができる。でも、命を失ったら、それまでなんだ。もしも、今回の事故でケナンが死んでいたらどうする?」
リュザールはケナンの首根っこを掴み、顔を上げさせて問う。
「家畜の世話が、できなくなる」
「そうだ。お前の代わりはいない。今日、どうするべきだったか、わかるな?」
「家畜は、手放すべきだった」
「そうだ」
もちろん、家畜の命は大事である。それに、軽いも重いもない。
ただ、見誤るなと、リュザールはケナンに釘を刺していた。
「俺は──お前らを支援するつもりでいるんだ。まだ未熟で、立派な務めは果たしていないが」
「え?」
「支援、って?」
「きちんと独立できるように、将来家畜を渡して、それから、嫁さんも見つけて……って、何一つ達成していないから、大きな声ではいえないが」
リュザールの言葉に、ケナンだけでなく頭を下げ続けていたセナもハッとなる。
「結婚って? 返礼品なんか、準備できないのに」
「すべての娘達が、持参品を用意できるほど裕福なわけじゃないからな。伴侶を探している人は、探せばわりといるんだよ」
「そうなんだ」
リュザールはここまで考えて、兄弟に接していたのだ。
「だから、自分の命は大事にしろ。これから、やってもらわなければならない仕事がたくさんあるんだから」
「うん!」
「わかった!」
セナとケナンの瞳に、光が戻ってくる。
もう、ケナンは間違わないだろう。リュザールの言葉には、そんな説得力があった。