まっさかさま
咄嗟に反応できず、握っていた羊飼いの杖ごと体が傾いてしまう。
「うっ!」
「ぎゃああああ!」
羊の体重で、アユとケナンは斜面に転げ落ちた。
ケナンは混乱状態にあるのか、羊飼いの杖を放そうとしない。
「ケナン! 杖、放して!!」
「わあああああ!!」
不幸なことに、アユの声はケナンに届かない。
否、ケナンは死んでも杖を放さないだろう。失敗など絶対に許されない。それほどの責任感を持って、家畜の世話をしているのだ。
その考えの根底には、家族は兄のみで生活を支えてくれる両親がいないことがあるのかもしれない。
仕事に関する意識の高さは立派だ。けれど、ケナンは大事なことを見落としている。
命がなければ、何もできないということを。
このままでは、流れの速い川に真っ逆さまだ。
かといって、アユにはケナンを見捨てることなんてできない。
時は待ってはくれなかった。
アユとケナンそれから羊は、湖に沈む重石のように、下へ下へと向かっていく。
──なんとかしなければ!
転がり落ちる斜め下に、突き出るように生える木が見えた。助かる術は、あれしかない。
その先は五米突ほどの高さの急斜面となり、すぐ下は川となっている。
アユは上体を起こし、落下の軌道をずらしていく。
「ケナン、近くに木があるから、掴まって!!」
その叫びは、ケナンにも届いたようだ。
二人がかりで体重を傾けると、転がる向きは大きく変わっていく。
そして──。
「わっ!」
「うっ!」
最後に羊がベエエエ~~と鳴いた。
なんとか、木の上に落ちることができたようだ。
幸い、羊も幹に引っかかっている。
ここでやっと、ケナンは羊飼いの杖から手を放す。
ゼエゼエと息が荒く、瞠目していた。おそらく、まだ我に返っていないのだろう。
アユは手放さず、羊の首からそっと杖を外した。それを、ケナンに手渡す。
「ケナン!」
「……」
「ケナン、しっかりして!」
「え?」
アユが背中を優しく撫でると、ケナンの虚ろだった瞳に光が宿る。
「ケナン、今すぐ、この斜面を上がって」
「へ!?」
「助けを、呼びに行ってほしいの」
助かったばかりではあるものの、先ほどから木がミシミシと音を立てている。
あまり、太い木ではない。折れるのも、時間の問題だろう。
斜面は杖の支えがあればなんとか登れる。運動神経の良いケナンならば、あっという間に上まで辿り着くはずだ。
それに、羊飼いの杖を高く掲げ、大きく左右に振ると遠くにいる者に危機を知らせることができる。重要な道具なのだ。
アユは、羊飼いの杖をケナンに託す。
「村に戻って、リュザールを呼んできて」
「お、俺が?」
「そう」
ケナンは斜面を恐る恐る見上げる。
登れなくはないが、できれば登りたくないような斜面である。
ケナンはごくりと、生唾を呑み込んでいた。
ミシミシと木が軋む音が、だんだん大きくなる。
羊だって、いつまで大人しくしているかもわからない。
「ア、アユさんは、一緒に、登らないの?」
「二人揃っていなくなったら、羊が錯乱して落ちてしまうかもしれない。まずは先に、ケナンが行って」
ケナンも羊も、せっかく助けた命なのだ。どうにかして、救助したい。
「だから、お願い。助けられるのは、ケナンしかいないから」
「わ、わかった。行ってくる」
ケナンは慎重な足取りで、木から斜面に下りる。中腰で斜面に立って杖で支えながら、一歩、一歩と歩みを進めている。
ケナンは大丈夫だろう。羊を守るため、仕事はまっとうしてくれる。そんな安心感があった。問題は羊である。
不安定な場所にいて、そわそわしていた。
アユはチッチと舌を鳴らす。これは、子羊が乳を飲む音に似ているのだ。この音を聞くと、不思議と羊は落ち着く。幼い頃、母親から乳を飲んでいたことを思いだすのか、はたまた周囲に子羊がいると勘違いするのか。
とにかく、動揺している羊にうってつけのものだった。
アユが続けてチッチと鳴らしていると、落ち着きを取り戻す。ばたばたと足を動かすのを止めてくれた。
「……いい子」
あとは、リュザールが来るまでこの状態が保つことを願うばかりだ。
だが、アユの耳には、ギ、ギ、ギと、木の悲鳴が聞こえる。もう無理だと、叫んでいるようだった。
バクンバクンと、心臓が跳ねる。
どうか保ってくださいと、願うばかりだ。
視線を上のほうへと戻すと、地上に戻ったケナンが走る後ろ姿が見えた。
ケナンは助かったことがわかり安堵したが──バキリ! と、ひときわ大きく木が鳴った。
「!?」
アユの悲鳴は、ベエ~~! と高く鳴く羊の声にかき消される。
ついに、木が折れてしまった。しかし、完全に真っ二つになったわけではなかった。
まだ、樹皮が繋がっている。運の良い羊は、太い枝間に引っかかっていた。まだ、落下していない。アユの体は崖下へと放り出されそうになったが、間一髪で右手のみ木の枝に掴まる。
額から頬へ、玉の汗が伝っていく。手のひらも、湿っていた。
せっかく落ち着かせた羊であったが、再度ジタバタと動き始める。
羊が動くたびに、樹皮がメリメリと剥がれていった。
「お願い、大人しくしていて──!」
手汗で枝を掴んでい続けることができず、アユの体はだんだんと斜面を滑っていく。
体重を支え切れず、枝を掴む手が一気に滑った。その瞬間、手のひらに鋭い痛みが走る。どうやら、手を切ってしまったようだ。
もう、限界だった。手を放したら、どれだけ楽になれるか。
しかし、アユが落下したら、すぐ下にいる羊も道連れにしてしまうだろう。
歯を食いしばっていたが、先に木に限界がきてしまった。
樹皮が剥がれ、アユの掴んでいた枝ごと滑り落ちる。
「ううっ……!!」
──やはり、ダメだったか。
瞼をぎゅっと閉じ、来るべき衝撃に備える。
もう少しで急斜面へ真っ逆さまになろうとしていたが、急に動きが止まった。
いったい何事なのか。そっと、瞼を開いてみる。
目の前に、伸びた縄があった。それは、太い木の枝に引っかかっている。
視線で伝っていけばその先に、馬上から縄を引くリュザールの姿があった。
「おい、アユ!! 大丈夫か!?」
リュザールが助けてくれた!
ケナンが頑張って、呼びに行ってくれたのだろう。
恐怖、焦り、喜び、さまざまな感情の昂ぶりが混ざり合い、雫となって頬を伝っていく。
一粒の涙は、汗よりずっと熱かった。
リュザールは馬を後退させ、木ごと地上へと上げる。
羊も落ちずに、ずるずると引っ張り上げられていた。
そしてついに、地上へと上がることができた。
アユは立ち上がろうとしたが、地面に倒れ込んでしまう。
「アユ!!」
駆け寄ったリュザールは、アユを抱き上げた。
アユはその身に縋り、涙を溢れさせる。
「怖かった……!」
ケナンがいないからこそ、言えた言葉だ。
リュザールはアユの背中を撫でてくれる。
「もう、大丈夫だ。何も、心配はいらない」
それを聞いて、アユはやっと安堵することができた。