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羊飼いのセナとケナン

 朝、アユは陽の出よりも早く目覚める。今日も、リュザールは境界線を軽々と超え、アユを抱きしめて暖を取っていた。

 おかげで、アユも肌寒さを覚えて目覚めることはなかったのだが、精霊と婚姻を結んでいる期間にこのようなことは許されるのか。

 ぼんやりしているので、答えは見つからない。

 とりあえず、起きて朝食の支度をする。リュザールから借りた火打ち金で火を熾し、灯火器に灯りを点す。

 明るくなったのと同時に、白イタチのカラマルが近づいてきた。肉の欠片を与えると、その場ではぐはぐと食べだす。今日も食欲旺盛のようだった。

 昨日、リュザールが鶏を土産で買ってきた。鶏の放牧をしない遊牧民にとって、鶏は贅沢品である。

 ありがたいと思いつつ、調理する。

 まず、昨日から仕込んでいた鶏ガラスープを温める。

 作り方は、鶏ガラを入れ、灰汁を丁寧に掬いながら三時間煮込む。白濁してきたら、鶏ガラを綺麗に掬い取って完成だ。

 そのスープを、沸騰させないように弱火で熱する。

 別の鍋にオリーブオイルを敷き、みじん切りにしたタマネギを飴色になるまで炒めた。

 同時進行で鶏もも肉を角切りにして、エストラゴンという根が竜に似た薬草と塩コショウを揉み込む。

 タマネギを炒める鍋に鶏もも肉を入れて、焼き目が付いたらスープの中に入れる。

 続いて、鍋にバターを落とし、短いパスタシュヒリエを入れて炒める。火が通ったら、これもスープの鍋の中に。

 三十分ほど煮込んだら、『鶏肉とシュヒリイェリ・短いパスタダヴック・のスープチョルバス』の完成だ。

 他に、白いんげん豆のサラダに、トマトと甘辛唐辛子の炒り卵を作った。

 精霊の分を皿に用意し、巫女のもとへと持っていく。

 外に出ると、草原の地平線にうっすらと橙色の線が浮かび上がる。ちょうど、夜が終わる時間だった。

 初夏の朝は寒い。アユは歯を食いしばり、一歩、一歩と進んでいく。

 まだ、巫女は起きていないので、朝食は出入り口に置いておいた。

 そうこうしているうちに、リュザールの家畜の放牧を任されている兄弟が起きてくる。

 羊飼いの兄弟、大人しい兄のセナに、活発的な弟のケナンだ。

 セナはまだ眠いのか、目が開ききっていない。ケナンは寝ぐせが酷かった。


「セナ、ケナン、おはよう」

「おはよう、アユ様」

「おはようございます、アユ様」

「別に、様付けはしなくてもいいよ」

「わかった、アユ」


 ケナンが呼び捨てにすると、セナが頬を引っ張る。


「バカケナン。呼び捨てはダメ。せめてさん付けにしなきゃ」

「う~~、大人の事情ってやつか!」


 兄弟のやり取りを見て、笑ってしまう。アユの弟も、こんな感じで生意気だったのだ。


「セナにケナン、まだ、顔を洗っていないね?」

「……」

「……」


 押し黙るということは肯定ということになる。

 きっと、朝の水は冷えているから、洗いたくないのだろう。


「目が覚めるから」


 そう言いながら、底の深い壺型のかめに入っている水を盥に注いだ。

 兄弟は微動だにせず。

 アユはため息を一つ落とし、手巾に浸して絞る。それで、セナとケナンの顔を拭く。

 ケナンはされるがままだったが、セナは照れているのか大人しくしない。


「いい。自分でやる、から」

「セナ、じっとして」


 奮闘すること五分。顔を綺麗に拭いてあげ、ついでにケナンの寝ぐせも綺麗にした。

 アユは兄弟を見比べ、満足げに頷いた。


「それでアユさん、今日はどうしたの?」

「放牧に行こうと思って」


 巫女の家に立てかけておいた月の鳴杖を見せる。すると、ケナンが目を輝かせた。


「すげ~、かっこいい! 兄ちゃん見て、月の鳴杖だ!」


 ユルドゥスで既婚者しか持つことを許されない月の鳴杖は、羊飼いの子どもの憧れでもある。


「俺も、大人になったら、月の鳴杖を使って羊を飼うんだ!」

「その前に、結婚できるかが問題だけどね」


 セナがボソリと呟いた言葉は、ケナンには聞こえていないようだった。

 遊牧民の男性が結婚する時、花嫁の用意した持参品に対する返礼品が必要となる。そのほとんどは、成人になった時に父親から授けられた家畜を返礼品とするのだ。

 よって、両親がいない兄弟が結婚をするということは、大変困難なことである。

 はっきり言えば、無理だ。

 そのことをセナは分かっていて、ケナンは分かっていない。

 アユは胸が締め付けられるような思いとなる。


 兄弟の両親は、侵略者の一族に襲われ亡くなった。

 馬に家畜、家屋に、織物など、すべてを奪われてしまったのだ。兄弟が持っていたのは、己の命だけ。そんな状態で、ユルドゥスに保護された。

 彼らだけではない。

 ユルドゥスに身を寄せる者は、同じような境遇だ。

 皆が皆、同じように幸せになることは難しいのだ。


「ねえ、アユさん、月の鳴杖、ちょっと持たせて!」

「こら、ケナン! それは、貴重で大事な物で──」

「いいよ」

「やった!」


 ケナンは月の鳴杖を手に取り、嬉しそうにしていた。ぶんぶん振り回すと思っていたが、手に取って羨望の眼差しを向けるばかりであった。その横顔を、アユは笑顔で見守る。


「アユさん、ありがと! やっぱり、かっこいいね!」


 返してもらった月の鳴杖を、アユはセナにも差し出した。


「セナも持ってみる?」

「え?」

「ちょっとだけなら、いいよ」

「あ、ありがとう」


 セナも、月の鳴杖を持ってみたかったようだ。

 アユから受け取ったあと、わずかに口元が綻ぶ。

 やはり、セナも月の鳴杖を持ってみたかったようだ。


「兄ちゃん、やっぱ、かっこいいよね!」

「うん」


 兄弟が嬉しそうにする様子を、アユはいつまでも眺めていたかったが──そういうわけにはいかない。


「セナ、ケナン、放牧に、行こう」


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