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焚火を囲んで

 のんびりしている時間はない。日が暮れるまでに、少しでもユルドゥスの夏営地ヤイラとの距離を詰めておかなければならない。


「おい、もう行くぞ」


 座ってぼんやりしていたアユの腕を取って立たせる。

 すると、ヒュウと音を立てて風が通り過ぎていき――アユの足元まですっぽりと覆うスカートがはらりとめくれ上がった。


 強い風だったので、太ももあたりまで、見えてしまう。


「――うわっ!」


 二、三歩と後ずさり、顔を真っ赤にして声を上げたのは、リュザールのほうであった。

 アユは無表情のまま、その場に佇む。

 リュザールは指を差し、強く糾弾した。


「お、お前、恥ずかしがるとかしろよ!」

「恥ずかしい?」


 小首を傾げ、聞き返される。


「か、風で、脚が見えたんだぞ!?」

「仕方がない」

「は?」

「風のしていることだから、仕方がない」


 アユは言う。

 草原と共に生きることは、この地にあるものすべてを受けいれることであると。


「草、土、木、風、太陽、雲……そのすべてが、私達の生活を支えている。その中で生きている以上、何もかも、受け入れなければならない」

「いや、それはそうだけど」


 と、ここでリュザールは思い出す。

 花嫁衣装一式は、ベール付きの帽子とローブだけではなかったと。

 忘れていたが、ゆったりとしたズボンもあったのだ。


 結婚後、一年間も花嫁衣装を着る。

 しかし、その恰好のままでは、仕事がしにくくなる。そのため、スカートの下に穿くズボンも付いているのだ。

 どちらにせよ、馬に跨らなければならない。ズボンは必要だったのだ。

 リュザールは荷物を探り、ズボンを発見してアユに差し出した。


「これを、スカートの下に着ろ」


 受け取ったアユは、じっとリュザールを見る。


「なんだ?」

「見られていると、穿けない」

「は?」


 風が吹いて脚が見えるのは仕方がないが、自らスカートをたくし上げるのは恥ずかしい。

 今になって、リュザールの言っていた意味に気付いたと言う。


「なんだよ、それ」


 脱力し、深い深い溜息を吐く。そして、包み隠さずアユに言った。


「お前、変わっているよ」


 首を傾げるアユに、さらなる溜息を一つ。


「いいから、ズボンを穿け」


 リュザールはアユに背を向ける。

 ごそごそと布のすり合わさる音が聞こえる間、落ち着かない時間を過ごしていた。


 身支度が整ったので、ようやく出発となる。

 近くの木に止めていた鷲は、空へと放った。


 リュザールは馬に装着していた鐙を踏んで、軽々と騎乗する。

 そのあと、アユに手を伸ばした。

 だが、アユはリュザールに手を差し伸べたが――触れ合う寸前で動きを止める。


「おい、どうした?」

「私は――必要?」

「どういう意味だ?」

「あなたのところへ行っても、きっと、役に立たない」


 行先は、調停者であるユルドゥスの集落。

 そこは、女も子どもも、猛き者ばかりだと言われている。


 アユは、ただの羊飼いだ。戦う術など、何も持たない。

 そう、彼女は淡々と言った。


 リュザールは深い溜息を吐き、アユの手をぐっと掴んだ。

 手を引いてアユを馬に近付け、眼前で言った。


「役に立つか、立たないかは、連れて行くと判断した俺が決める。お前が勝手に自分で決めることじゃない。それに、最初から決めつけるな。役に立たないじゃないんだよ。諦めずに、やるんだ!」

「!」


 その刹那、虚ろだったアユの目に、光が宿る。

 生気が、戻ってきたのだ。

 すぐに彼女から顔を逸らしたリュザールは気付かなかったが。


「ごちゃごちゃ言っていないで、馬に乗れ。日が暮れてしまう」


 そう言うと、アユはリュザールの言葉に従い、鐙に足をかける。

 ひと息で、大きな体の黒馬に跨った。


「よし、行くぞ」


 リュザールの前に座るアユが頷くと、馬の腹を軽く蹴る。


 黒馬は美しいたてがみと尻尾をなびかせながら、草原を駆けた。


 ◇◇◇


 思いっきり飛ばしたら、日暮れ前までにユルドゥスの夏営地に辿り着いたかもしれない。

 しかし、想定外の荷物があった。アユだ。


 ユルドゥスの夏営地まであと半日は必要だろう。草原の地図を見下ろしながら考える。

 今日は一晩、野宿することになった。

 リュザールは茜色に染まる草原に池を発見し、その場を野営地と決めた。

 指笛を吹いて、鷲を呼ぶ。

 リュザールの黒鷲は、すぐにやって来た。

 夜は狼が出る。しかし、鷲を傍に置いていたら、警戒して近寄ってこない。

 もしも、接近してくる場合も、鳴いて教えてくれる。

 父親から十五の時に贈られた黒鷲は、相棒でもあった。

 そんな黒鷲に餌を与え、馬には褒美の角砂糖を与える。


 そうこうしている間に、アユはその辺に落ちていた拳大の石を円形に並べ、中心部に枝をくべるという簡易かまどを作っていた。


 手際の良さに、リュザールは目を見張る。


 火打ち石を探しているようだが、そうそう簡単に見つかるものではない。

 リュザールはアユの作った簡易かまどの前にしゃがみ込み、ベルトに吊るしていた革袋を外して手に取る。


「おい、火はあるぞ」


 リュザールが取り出したのは、火打ち石と火打ち金。

 火打ち金は鋼鉄製で、掴みやすいように平たい円型となっている。

 石と枯草を片手に持ち、火打ち金に打ち付けるのだ。

 すると、数回叩いただけで、小さな火が点る。

 枯草の塊に火を入れ、息を吹きかけると、ボッと大きな火が起こる。

 それを、簡易かまどの中へと入れた。


「それ、すごい」


 リュザールの火打ち金に、アユは羨望に似た眼差しを向けていた。


「火を熾すの、とても、大変だった」

「お前のところでは、石だけで打っていたのか?」


 アユはリュザールをじっと見つめる。肯定ということだろう。


「さっきから疑問だったんだが、お前、なんで声を出さないし、出してもちっさいんだよ」

「声は、仕事道具だから」

「は? 歌い手かなんかなのか?」

「違う」


 とりあえず、喉を保護する目的で、あまり声は出さないようにしているらしい。

 もう帰れない故郷を思っているのか、アユは遠い目をしている。

 悪いことを聞いたと思い、リュザールは深くつっこまなかった。


「メシだ。メシにする。腹減った」


 リュザールは近くに置いていた袋を手に取り、中から小さな鍋を取り出す。

 中に角砂糖を六つと、珈琲カフヴェの粉を入れた。そこに水を入れて、ブクブク泡立つまで沸騰させる。

 ものの数分で、完成となる。

 リュザールは袋から陶器のカップを取り出し、珈琲を注いだ。

 一個しかないので、まずはアユに飲ませるために差し出した。


「ほら」

「あなたの、分は?」

「俺は、あとで飲む」


 一人旅なので、カップが一個しかないであろうことを、アユはわかっていた。

 首を左右に振って、リュザールに先に飲むよう勧める。


「いいから飲め」

「でも、私は、あなたより先に飲むわけにはいかない」


 ――働かざる者は、恵みを受けるな。

 草原に生きる遊牧民は、それを信条としている。

 アユはそれに則って、珈琲の受け取りを遠慮しているのだ。


「だったら、お前に命令する。これを、飲め」


 そう言うと、やっとカップを受け取ってくれた。

 しかしまだ、飲もうとしない。

 リュザールは頭をガシガシとかきながら、熱い珈琲を飲まない理由を呟いた。


「……俺、猫舌なんだよ」


 そう言うと、アユは淡く微笑んだ。

 焚火に照らされた笑みは、とても美しく見える。

 リュザールは顔を逸らし、早く飲むように言った。


「うん、おいしい」


 耳を澄まさないと聞こえないほどの、小さな呟きだった。

 この国の特産品である珈琲は、極細に挽いて作られている。それを煮出して淹れるので、表面は泡立ち、中はどろりとしている。


 リュザールはアユにシミットという、ゴマがたっぷりまぶされたパンを差し出した。


「これも食え。命令だ」

「ありがとう」


 今度は素直に礼を言って受け取る。


 空腹だったのか、パンを食べるアユの目尻に、涙が浮かんでいた。

 リュザールはそれを見ないようにする。

 そして、自身もシミットを齧った。

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