勝負の行方は
「ねえ、あなたは、わたくしに勝ったら何を願うの?」
「願い?」
「そう。わたくしと、同じことを願う?」
エシラが負けたら、イミカンと結婚する。これで、公正だ。
しかし、アユは首を横に振って提案を取り下げる。
「だったら、何を願うの?」
「私は──エシラ、あなたと友達になりたい」
「はあ!? なんでそうなるの?」
「だって、私は知らないことばかりだから、いろいろ教えてほしいの。代わりに、私が知っていることを、教えるから」
「あなたの知っていることって?」
「食べられるキノコの種類とか」
「何よ、それ。そんなの、ぜんぜん知りたくもないわ」
「だったら、草原で速く走れる方法とか?」
「!?」
アユは革の靴を脱ぎ、花嫁用の絹の長靴下をするりと取る。両方とも、地面に並べて置いた。
「あなた、裸足で走るつもり? 石を踏んだり、草で切ったりしたら、危ないじゃない」
「平気」
「なぜ、裸足なの?」
「秘密」
アユはエシラの問いかけに答えながら、膝を曲げて伸ばしてを繰り返し、大きく背伸びする。
その行動の意味を、エシラはまったく理解していなかった。
「我が息子リュザールの嫁アユ、大商人の娘エシラ、そろそろ、始めますよ」
「いつでもいいわ」
「準備はできている」
アズラは手を上げて、叫んだ。
「よーい、始め!」
振り下ろされた手を合図に、アユとエシラは走り出す。
初めに前へと躍り出たのは、エシラだった。
子どもの頃から、運動神経がいいと言われて育った彼女は、足が速い。
アユが駆けっこで勝負すると提案した時、突拍子もなさすぎて目が点となった。
けれど、心の中では勝利を確信していた。
駆けっこは得意だった。
年の離れた兄達と競ったことがあったが、一度も負けたことがないほど。
エシラはアユは不思議な子だと思う。
自分の得意分野で勝負すればいいのに、公正ではないからと選ばなかった。
アユは一見大人しく、ぼんやりしているように見えるけれど、時折見せる強い瞳にハッとすることがあった。
リュザールは彼女のここに惹かれたのか。
短い中で、不思議と気づいてしまった。
だからといって、二人の結婚は許せない。
しかし、リュザールと将来を誓ったのは、このエシラ・コークスである。
絶対に、負けるわけにはいかなかった。
もうすぐ、イミカンの待つ一本木に辿り着く。
「──え!?」
ふいに、ぐらりと体が傾く。
エシラは転倒してしまった。
その間にアユが追いつき、追い越した。エシラも慌てて起き上がって走るが、先ほどと違って上手く走れない。
どうしてなのか。
思うように、前に進まないのだ。
アユとの距離は縮まらず。
そうこうしているうちに、アユが先に終着点である一本木に手を突いた。
エシラは、負けてしまった。
「どうして!?」
エシラは納得せず、アユを糾弾する。
「あなた、卑怯な手を使ったのでしょう?」
「卑怯な手って?」
「何か、草原に仕掛けていたんだわ!」
「勝負する場所を決めたのは、お義母さん」
「だ、だったら、精霊様の力をお借りしたの?」
「使っていない」
「証拠は?」
「無風だったでしょう?」
アユの言う通り、今日は風がない。追い風でも、向かい風でもなかったのだ。
「何をごちゃごちゃと言い合っているのですか!」
エシラとアユは、アズラのあまりの迫力に言葉を失う。小娘を黙らせるような、一喝だったのだ。
アズラはイミカンを睨み、事情を説明するよう目力で訴えた。だがイミカンは飛び火がくることを恐れたのか、明後日の方向を向いて関係者ではないように装う。
「怒らないので、説明しなさい」
「アズラ様、この子、ズルをしたの! 私を、転ばせて」
「アユがあなたの足を引っかけたというのですか?」
「わからないわ。でも、急に足が掬い取られたのよ!」
その主張に、アズラは目を細める。地面の様子を確認し、ハッとなった。
「……ああ、なるほど」
「やっぱり、ズルをしていたの?」
「いいえ。我が息子リュザールの嫁アユはズルなどしていません。納得いかないのならば、もう一度勝負をしたらどうですか? たぶん、あなたは勝てないでしょうが」
「ど、どうして?」
「アユは、知っていたのです。あなたは、知らなかっただけ」
「意味が、わからないわ」
「それもそうでしょう。これは、早朝から働く者しか、知らないことですから」
「ねえ、アズラ様、勿体ぶらないで、説明してくれる?」
「その前に、もう一度勝負をしますか? しませんか?」
「するわ! だって、納得できないもの!」
「そうですか。アユ、問題ないですね?」
アユはじっとアズラを見つめる。それは、承諾を意味していた。
今度はイミカンを出発点に立たせ、終着点にアズラが立つ。
同じ距離を同じように走ったが──エシラは負けた。
どうしてか先ほどよりも上手く走れず、最初からアユに追い越され、背中を追う結果となった。
「どう……して? どうして、勝てないの?」
「大商人の娘エシラ、負けは認めますね?」
「ズルは、していないのでしょう?」
「ええ。不思議な力の類も、彼女自身、細工もしていません。もう一度問います。負けを認めますね?」
「……」
「エシラ・コークス!」
「わ、わかったわ。私の負け。これで、満足?」
「結構」
悔しくってたまらないエシラは、奥歯を噛みしめる。
「太陽が昇りきるまで眠っているあなたに、この時間の駆けっこは勝てるはずもないのですよ」
「どういう、こと?」
「しゃがみ込んで、草を見ればわかります」
アズラに言われた通り、エシラは座って草を見る。しかし、いつもと変わらないようにしか見えない。
「その点で、あなたは負けていたのです」
アズラもエシラの隣にしゃがみ込み、草に触れる。指先には、水滴が付いていた。
「これは、朝露です。この時期は湿気が特に多く、昼前まで、草原は湿り気を帯びているのです。この状態で走ったりしたら──あとは、言わずともわかりますね?」
「革の靴だと、滑る……!」
「そうです。朝早くから働く彼女だからこそ、知っていたのでしょう」
あっさりと、エシラは負けてしまった。もう、リュザールとは結婚できない。
エシラの眦から、ぽたり、ぽたりと涙が滴る。
「わ、わたくし、リュザール様の、お嫁さんになるために、今まで、努力をしてきた、のに……。リ、リュザール様が、草原一の、働き者が好きだっていうから、毎日、嫌いな家事も、頑張って……」
そのあとは言葉にならなかった。
「草原一の働き者というのは、わかりやすい断り文句だと思いますが……」
「ア、アズラ様、何か、言いましたか?」
「いいえ、なんでも」
「駆けっこだって、一度だってお兄様達にも負けたことがないのに」
「それも、勝たせてもらっていたのでしょう」
「え?」
「なんでもありません。さあ、二回も勝負をしてくれた、我が息子リュザールの嫁アユに言うことがあるでしょう?」
アズラの言葉を受け、エシラは立ち上がってアユに向かって叫んだ。
「あなたのことなんて、大嫌い!!」
そういうことではない。アズラは額に手を当て、天を仰ぐ。そんな反応も、エシラには見えていなかった。
一方で、エシラの大嫌いだというその言葉に、アユも正直な気持ちを返す。
「私は、別に嫌いじゃないよ」
「な、なんで!?」
「だって、気持ちを隠さずに、素直になることは、簡単にできることではないから」
やはり、友達になるのは難しいのか。アユはそんなことを問いかけてくる。
「賭けに負けた大商人の娘エシラは、我が息子リュザールの嫁アユの友達にならなければなりません。しかし、友情というのは、自然と生まれるものです。賭けをして、手に入れるものではないのかもしれませんね」
さらさらと、草原に気持ちのいい風が流れる。
それは精霊が「もういいだろう」と静かに囁いているようだった。
精霊の声なき言葉に、この場にいた誰もが従う。
「しかし、大変な迷惑をかけたことは事実。大商人の娘エシラ、今日一日、我が息子リュザールの嫁アユの仕事を手伝いなさい。いいですね」
「え、なんで……?」
「いいですね!」
拒否権のない「いいですね」だった。
エシラは頷く他ない。
◇◇◇
夕方、リュザールはアユに土産を買い、帰宅する。
選んだのは、木製の花の胸飾りであった。
渡したら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
ドキドキしながら帰宅をしたが──。
「あら、おかえりなさい」
にっこりと、エシラがリュザールに微笑みかける。その隣に、せっせと裁縫をするアユの姿があった。
元婚約者と妻が一緒にいる、ありえない状況である。
「はあ、おまっ、なんでだよ!?」
リュザールは状況が理解できず、大声で叫んでしまった。