火花、散る散る
「駆けっこ、ですって?」
「そう」
アユはエシラの腕を掴んで立ち上がった。
「ちょっと、待って! 勝負が駆けっこって……」
「他に、したいこと、ある?」
「り、料理とか?」
「大商人の娘エシラ。止めておきなさい。我が息子以下略の嫁アユの料理の腕は極上です」
「だ、だったら、織物作りとか」
「勝負に何か月、かけるつもりですか?」
一本一本羊毛を編んでいく織物は、一日二日でできるものではない。寸法によっては、数か月から数年かかるものもある。
「は、機織りの、速さを競うとか」
「私は見ていませんが、彼女はほとんど一人で嫁入り道具を作ったそうですよ」
「ひ、一人で!?」
結婚の際に持って行く持参品は、通常は母親や祖母に手伝ってもらいながら作る。そのため、そのすべてが自分で作った品物とは限らないのだ。
「そうだわ! 帳簿付けを競うのはどう?」
エシラにも、誰にも負けない得意なことがあったようだ。大商人の娘らしく、帳簿付けは毎日のように行っているらしい。
「それでも、いいよ」
「あ、あなた、計算とか、できるの?」
アユはエシラをじっと見つめる。それは肯定を意味していた。
帳簿付けは男性の仕事というのが一般的だが、アユの生まれ育ったハルトスでは違ったのだ。
「家族が取引した織物の計算も、作った乳製品の売上の計算も、すべて、私の仕事だった」
アユは羊の放牧をしつつ、帳簿付けも行っていたのだ。
「他の兄弟もできたけれど、私の計算が一番正確だったから、頼まれることが多かった」
正確には頼まれるというのではなく、押し付けられていたという言葉が正しい。しかしアユは、家族の事情を話したら義母に心配をかけると考え、敢えて言わなかった。
エシラのことはよく知らなかったが、だいたい手を見ればどういう女性であるかわかる。
織物に励んでいたら、手先は節くれ立つ。家事を毎日していたら、手は荒れる。
木製の計算器具を弾いていたら、指先は太くなるのだ。
一方で、エシラの手は、ほっそりしていて綺麗だった。おそらく、蝶よ花よと大切に育てられ、暮らしてきたのだろう。
アユは料理も、織物作りも、帳簿付けも、確実にエシラより回数をこなしている。
言い方は悪いが、のうのうと暮らしているような彼女に負けない自信はあった。
だから、平等に戦えるように、アユは駆けっこをしようと提案した。
「料理も、織物も、帳簿付けも、自信がある、ですって?」
「それだけ、やってきたから」
アユの主張は、エシラの闘争心に火を付けてしまったようだ。
「わたくしだって、厳しい花嫁修業はこなしてきたわ。あなたなんかに、馬鹿にされる筋合いはないのよ!」
「馬鹿にはしていない。事実を述べたまで」
アユの冷静な物言いも、エシラは気に食わないようだった。
「あ、あなたみたいな、なんの努力もせずに、ぽっと出でリュザール様と結婚できた人に、わたくしの気持ちなんて、わからないのよ!」
「なんの努力もしていない?」
「そうよ!」
火花を散らすエシラと、永久凍土のように冷え切った目を浮かべるアユの間に、アズラが割って入る。
「二人共、落ち着きなさい」
エシラは今にもアユに飛び掛かりそうな雰囲気だった。一方、アユもやられたらやり返すという姿勢でいる。
アズラが止めなければ、取っ組み合いの喧嘩になっていたかもしれない。
いつの間にか、リュザールとの結婚に関係なく、女の意地を賭けた戦いになっていた。
「いいわ。駆けっこで、勝負しましょう」
「受けて立つ」
すぐさま二人は集落を離れ、草原に向かった。その戦いを、アズラが見届ける。
一人では足りないので、暇なイミカンを連れてきた。
「終着点に、我が義愚息イミカンを立たせていますので」
イミカンは眉尻を下げ、優美な顔を曇らせている。
「争いなんて止めなよ。魂が、醜くなってしまう」
「我が義愚息イミカン、ごちゃごちゃ言わずに、立っていなさい」
「義母上……わかったよ」
アユとエシラは、草原にポツンと立つ木を目標に走る。先に木の幹に手をついたほうが勝ちだ。
距離は五十米突ほど。
のろのろと歩き、なかなか木に到着しないイミカンを、アズラが急かす。
「我が義愚息イミカン、走りなさい!」
そう訴えても聞かないので、アズラはイミカンを追いかけた。
肉食獣に追いかけられる草食獣のようにして、イミカンは木にたどり着く。
戻ってきたアズラは、やれやれといった様子で呟いた。
「まったく、あの男は……」
「リュザール様のお兄様、相変わらずね」
「大商人の娘エシラ、婿にどうです?」
「絶対にイヤ!」
ここでも、イミカンはあっさりと振られている。
草原で持て囃されるのは、頼りになる男なのだ。イミカンはユルドゥス一の美貌の男であったが、ヘラヘラしている上にぐうたらで働きたがらない。そのため、女性陣からまったく見向きもされていなかった。
アズラはイミカンの結婚を諦めていないようで、食い下がる。
「あれを店の前に置いて、楽器でも弾かせていたら客寄せになると思うのです」
イミカンの唯一の才能、楽器の演奏はアズラも一目置いている。
草原ではまったく評価されないことであるが、街に出たら別なのではとエシラに提案していた。
「確かに、あの容姿は客を惹きつけるかもしれないわ。婿としてではなく、従業員としてなら──いいえ、今はそれどころじゃないわ」
「そうでしたね」
エシラはアユをまっすぐに見て、宣言した。
「絶対に勝つわ!」
「私も、勝つ!」
双方、負けるつもりはないようだ。
「そうだわ。負けたほうは、勝ったほうの言うことを一度だけ聞くというのはどう?」
「別に、構わない」
「そう。よかった」
エシラは終着点にいるイミカンを指差しながら言った。
「あなたが負けたら、ぐうたらなお兄様と、結婚して」
アユは奥歯を噛みしめながら、エシラをじっと見つめていた。