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真紅のドレス

 自分一家が暮らしていた地でもなく、誰かが傍にいるわけでもなく、かけがえのない何かがあるわけでもなく。


 アユは行く当てがないから、ここに残って生涯を祈りに捧げると言う。

 ここに希望も野望も欲望も、何もかもない。

 彼女の青い瞳は、虚ろだった。


 傍にいるリュザールに助けを求めることもなく、アユはただただ、焼けゆく草原に遠い目を向けていた。


 なぜか、リュザールはその姿から、目が離せなくなっていた。


 今まで話す内容から察するに、彼女はまっとうな人間である。

 どうして、生に縋らないのか。

 大家族の中で育ち、諦めることに慣れているのだろうか。

 わからない。


 今まで出会う人々は、欲にまみれていた。

 欲しいものがあれば、襲って、壊して、殺して。

 広大な草原には、民を統率する王もいなければ、罪を縛る秩序もない。

 だから、調停者の一族の存在は不可欠だった。


 何もかも失ったアユは、ここで何をするのか。

 祈ると言っていたが、それだけでは人は生きていけない。


 今、リュザールをこの地に縛っているのは、彼女の存在である。

 理由はわからないが、彼女の存在が気になって仕方がなかったのだ。


 だから――手を差し伸べて、言葉をかける。


「お前、俺と一緒に来い」


 リュザールは、アユを連れて行こうと思った。


 有無を言わさず、腕を掴んで立ち上がらせる。

 そのまま腕を引いて歩いたが、アユは抵抗しなかった。


 ◇◇◇


 まず、近くにあった泉に連れて行った。とにかく、アユは全身汚れていたのだ。

 侵略者に襲われたあとなので、仕方がない話であったが。


 泉はオリーブの樹に囲まれていて、周囲から見えないようになっている。

 絶好の、水浴びの場でもあった。

 リュザールも、都に行く時は必ずここに立ち寄っている。


 リュザールの馬の鞍には、都で購入した品物が革袋に入って吊るされている。

 月に一度、買い出しに行かされるのだ。

 絨毯に羊皮紙、葡萄酒に香辛料、塩に砂糖、ガラス瓶に陶器、薬、鏡、既製服、壺など、草原の暮らしで手に入らない品を家族全員分買い揃えてきた。

 その帰り道に、アユとその叔父に出会ったのだ。

 リュザールは革袋を漁り、茶色い煉瓦のような塊を取り出してアユに向かって投げた。


「オリーブの石鹸だ。それを使って体を洗え」


 ここら一帯には、多くのオリーブの樹が自生している。それは、草原の民の生活を支えるものだ。都のほうでは石鹸が名物となっており、自分達で作るよりずっと安価で手に入る。

 リュザールは今回の買い出しでも、石鹸の大量購入を命じられていた。その中の一つを、アユに投げ渡した。


 アユは見事、石鹸を落とさずに受け取る。その後、リュザールは体を拭く大判の布も二枚投げた。

 続いて、その辺に落ちている枝を拾い、焚火を作る。


 アユが体を洗っている間に、馬や鷲に餌をやろう。そんなことを考えていたら、背後の泉よりドボンという水音が聞こえた。


「――なっ!?」


 慌てて振り返るとアユが服を着たまま、泉の中に沈んでいったのだ。

 まさか、己の運命を嘆き、身投げしたのでは!?

 リュザールはそう思って、自らも飛び込む。

 水中ですぐに、アユの姿は見つかった。泉の中にいた彼女は瞼を閉じ、腕を広げていた。

 泉の中に差し込んだ陽の光が、アユの姿と重なって神秘的に見える。

 アユはリュザールの存在に気付いたのか、そっと目を開く。

 青い目は――何を思っているのか。

 ここで、息を大量に吐き出す。ごぼごぼと、水が泡立った。

 見とれている場合ではない。泳いでアユに接近し、その身を引き寄せる。

 か細い体を胸に抱き、地上へと上げた。


「はあっ!」


 リュザールは思いっきり空気を吸い込んだ。自身も地上へ上がり、両手を突いて肩で息をする。

 先に泉に飛び込んだアユのほうが、息は乱れていなかった。


「お前、何を……」

「水浴びを」

「は?」

「いつも、服のまま入る」


 服を着たまま泉へ飛び込んだのは、身投げではなかった。勢いよく入っただけだったようだ。

 リュザールはその場で脱力するように、倒れ込んでしまった。


 その後、アユは誰にも邪魔されることなく、水浴びをする。

 リュザールは全身濡れたまま、馬と鷲に餌を与える。

 体は冷え切っていて、指先がぶるぶると震えていた。

 背後よりパシャパシャと聞こえる水の音が、彼から平常心というものを失わせていたのだ。


 その後、泉のほうを見ないようにして、木の枝を集め、火を熾す。

 ここで、服を着替えないと風邪を引いてしまうことに気付いた。

 それと同時に、アユにも着替えが必要なことに気付く。


 彼女の民族衣装は、ボロボロだった。

 新しい服をと考えて――母親に頼まれていた既製服の存在を思い出す。

 それは真っ赤な布地に、金糸の蔦模様が入った派手な襟の詰まった長袖のローブだった。それに、ベールの付いた円筒状帽子も揃いで買うように指定されていた。


 今一度、ローブを広げてみる。

 体の線に沿うように作られた、細身の意匠だ。どう考えても、若者が好むような華美な装いで、齢四十を超えるリュザールの母親が着るには無理がある。

 大変な若作りで、着ている様子を想像したらウッとなる。

 これは、母親に着せてはいけない。そう思ったので、アユの着替えとして与えることにした。


「おい――!」


 振り返ったら、アユの白い背中が見えた。

 服を着たまま水浴びをしていると言っていたので、今もそうだと思い込んでいたのだ。

 慌てて、回れ右をする。

 背を向けたまま、服を投げる。そして、叫んだ。


「これ、着替えだ! 着ろ!」


 遠くから、「ありがとう」というアユの声が聞こえる。

 服を拒絶されなくて、ひとまずホッとした。


 しばらくして、アユが焚火のあるほうへと歩いてきた。

 何も言わず、リュザールの斜め後ろに座る。


「……おい、もっと火の近くに寄れ。体が冷えているだろう?」


 初夏とはいえ、泉の水は冷たい。現に、先ほどまでリュザールも震えていた。

 アユは言われた通り、焚火に近づく。

 その刹那、リュザールはハッと息を呑む。

 視界に入ったアユは、驚くほど綺麗な娘だったからだ。

 煤で汚れていた髪は橙色に近い赤毛で、太陽みたいに美しい。肌はまるで磁器のよう。

 唯一、青い目の美しさは変わらず。

 血の気を取り戻した唇は、木苺のようにみずみずしかった。


 赤髪を三つ編みのおさげにして、ベール付きの帽子を被る様は、まるで花嫁だ。

 ここで、リュザールは気付いた。

 母親が頼んでいたのは自分の服ではなく、誰かの花嫁装束であったのだ。

 それを、勝手にアユにあげてしまった。

 怒られるだろうか。

 世にも恐ろしい母親の怒る様子を思い出し、ぶるりと震える。

 謝ったら、話はわかる。

 かつて『草原の黒豹レオパルト』と呼ばれていた母親であったが、きっと、不幸な遊牧民の少女を助けるためだと説明したら納得してくれるだろう。

 今は、母親が恩赦してくれることを祈る他ない。


 それにしてもと思う。

 いったい、誰が結婚するのか。

 リュザールの四人いる兄は、一人を除いて結婚している。

 三番目の兄は独身だが、見目は良いのに、仕事をせず毎日楽器ばかり弾いているので、一族の女性は結婚したがらない。

 もしや、花嫁衣装を買って、兄に真面目に働いて結婚しろと発破をかける気なのか。

 リュザールの母親が考えそうなことだった。

 とりあえず、その計画は潰した。

 もしも母親の怒りが収まらなかった場合、三番目の兄が庇ってくれるだろう。

 今は、そう信じるほかない。


 街で購入したミントのレモネードが入った瓶を取り出す。

 先に、アユに飲むように差し出した。


「すぐ出るところにカップはないから、そのまま飲め」


 アユはリュザールの命じた通り、瓶に直接唇を付ける。


 瓶ごと飲むことに慣れていないからか、赤い唇の端から、レモネードが零れていた。

 その様子は、見てはいけないものを見ているようで、リュザールはさっと顔を逸らす。


 そして、その瓶はリュザールのもとへと戻ってきた。

 自らも飲もうと思ったが、ふと気付く。

 これは、間接キスになるのではないのかと。


 隣で、アユがじっとリュザールを見つめていた。

 変に意識しているのがバレないよう、意を決しレモネードを飲む。

 盛大に噎せてしまったのは、言うまでもない。

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