出発
アユはスープの入った鍋に蓋をして、織物で包む。他の料理は一枚の大皿にまとめた。
精霊の分として用意した朝食を、巫女のもとへ持って行くのだ。
準備が終わってさあ行こうという瞬間に、リュザールが鍋と皿を持って振り返る。
「よし、行くぞ」
「う、うん」
まさか、鍋と皿の両方を持ってくれることは想定外だった。
宙をさまよっていた手に、手袋を嵌めるように言われる。
花嫁の指甲花は、結婚式の当日以外は他人に見せてはいけないのだ。
アユは綿の手袋を嵌め、家屋の出入り口の布を開ける。
巫女の家屋でリュザールとアユを迎えたのは、風の大精霊の巫女ニライである。
「あらあら、朝からスープがあるなんて、豪勢ね」
「ハルトスの花嫁伝統のスープらしい」
「まあまあ! 楽しみだわ」
ニライは胸に手を当て、膝を突く。
「──幸せのおすそ分けに感謝を」
そう言ったあと立ち上がり、リュザールの持つ鍋と皿を受け取った。
「ニライ、俺、今から護衛の仕事に出かけるから、何かあったらアユを頼む」
「ええ、ええ。もちろんよ」
リュザールはアユを振り返り、わからないことや困ったことがあったら巫女を頼るように言った。
すぐに、リュザールは港町に向かうようだ。
アユが朝食を包んでいる間に、仕事道具の準備は終えたよう。
一度家に戻り、小さく畳んだ地図をベルトに差し込んでいた。
「あの、リュザール、これ」
アユが差し出した包みの中身は、パンにチーズと燻製肉を挟んだものである。それと、革袋に入れた葡萄酒だ。
護衛の仕事に出かけると聞いて、食後に急いで作った弁当である。
「お腹が空いたら、食べて」
「……」
リュザールはじっと、弁当を見下ろしていた。
もしかして、不要な物だったのか。アユはそう思って引っ込めようとしたが、同時にリュザールが受け取った。
「あ、ありがとう」
「うん」
「なんか、こういうことしてもらったの、初めてで」
リュザールはみるみるうちに、笑顔になる。
どうやら、嬉しかったようだ。迷惑ではなかったようで、ホッと安堵する。
「でも、材料切ってパンに挟んだだけのものだから」
「十分だよ。俺、外に出るときは、義姉さんにもらったトウモロコシパンばかりだったから」
トウモロコシパンは日持ちするので、もらっても放置していることが多い。
そのため外の仕事に行く時に、持って行くのがお決まりとなっていたようだ。
「あれもな、もうちょっと美味かったらいいんだけれど」
もともと、料理上手が作ってもトウモロコシパンはそこまで美味しく焼けないのだ。
「トウモロコシパン、私も試作してみる」
「頼む」
出発前に話があるようで、座るように言われた。
「何?」
「精霊石の力についてだ」
使い方は巫女に聞いたかという質問に、アユは頷く。
「頼みがある。何があっても、精霊石の力は使わないでほしい」
「どうして?」
「どうしてもだ」
洗濯物が乾かなければ、明日もまた乾かせばいい。
誰かに風の精霊の力を貸してくれと懇願されても、聞き入れる必要はない。
精霊の力に頼らずに暮らしてくれ。
きっぱりと、リュザールは言った。
「こっそり使っても、俺の精霊石だからわかるからな」
「……」
精霊の力を使ってはいけない具体的な理由をリュザールは言わないので、アユはなんだか腑に落ちない。
「納得していない顔をしているようだが」
「納得は、していない。なぜ、使ってはいけないの?」
「それは──」
リュザールは口を開いたが、何も言わずに閉じる。眉間に皺を寄せ、険しい表情となった。
ここでアユは、譲歩案を出した。
「あとでだったら、教えてくれる?」
「まあ……そうだな。またあとで、ゆっくり説明する」
今日はとにかく、仕事に行かなければならない。
リュザールは立ち上がり、家屋の外にでる。見送りをするため、アユも続いた。
馬の鞍には、最低限の荷物がぶらさがっていた。その中に、弓矢や剣といった武器もある。
指笛を吹くと、黒鷲がやってきた。
餌を与え、馬についてくるよう指示を出し、再び空へと放つ。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
アユはリュザールを見送った。
戻ってくるのは、明日だ。
◇◇◇
出入り口を覆う布を棒に巻き付け、留めていると背後より声をかけられた。
「奥様、おはよう!」
振り返ると、リュザールの家畜の世話をする兄弟が立っていた。
弟のケナンは二個のバケツに満たされた家畜の乳を持ち、兄セナは大きな哺乳缶を持っていた。
「牛と羊の乳を持ってきたよ」
元気よく話しかけてくるのは、ケナンだ。アユは朝の挨拶と礼を返し、その場に置いておくように言った。
「重いから、家の中まで運ぶ」
「あ、ありがとう」
セナは大きな哺乳缶を運んでくれる。ケナンもあとに続いてくれた。
「哺乳缶のが羊、搾乳バケツのが牛」
ギリギリ聞き取れるくらいの小さな声で、セナが教えてくれる。
「乳製品を作らない日は、言って。商人に売るから」
「わかった」
リュザールの言う通り、家畜についてのほとんどは幼い兄弟がすべて面倒をみてくれるようだ。
アユの弟よりもしっかりしているので、驚いた。
「セナ、ケナン、ありがとう」
礼を言うと、セナは頬を染めて俯き、ケナンは満面の笑みを返した。
そのまま帰ろうとする兄弟を、アユは引き留める。
「あの、二人ともお腹、空いていない? パン、食べる?」
その問いかけに、兄弟は揃って首を横に振った。
「巫女様が、朝食を準備しているから」
「毎日、パンが食べ放題なんだ!」
このあと、朝食らしい。セナとケナンは軽やかな足取りで帰っていった。
どうやら、ユルドゥスには貧しさ故に腹を空かせた子どもはいないようだ。
それは、とても嬉しいことである。
しかし、故郷のいつも空腹だった弟達を思えば切なくなった。
幸せは平等に与えられない。
そのことは、心苦しいことでもあった。