新婚夫婦の朝
朝だと言ってトントン、トントンと背中を叩くと、リュザールはもぞりと動く。
大判のフェルトを頭から被り、猫のように丸まって眠っていたリュザールはすぐに目を覚ました。
ぱっと起き上がり、不思議そうな表情でアユを見つめている。
ふいに、リュザールの手が伸びてアユの頬に触れた。ごつごつした手が、頬を撫でる。
その刹那、ドキンと胸が高鳴った。 ソワソワと落ち着かない気分になったが、悪い感情ではないことは確かだ。
アユは突然の接触に驚いたが、別に嫌ではなかったので大人しくしておく。
リュザールの指先は輪郭をなぞるように動き、顎の下で止まった。
親指がアユの唇に触れたあと、リュザールはカッと目を見開いた。
「うわあ!!」
触れられていた手は離れ、リュザールは声をあげる。
その一連の行動から、今まで寝ぼけていたのだとアユは気づく。
「リュザール、おはよう」
「お、おはよう……じゃなくて!」
「じゃなくて?」
「いや、おはようで合っている」
「寝ぼけていた?」
「いや、まあ……強いて言ったら、寝ぼけていた」
先ほどの接触は、特に意味はなかったらしい。
ドキドキして損をしたと、アユは内心思う。
しかし、リュザールの慌てぶりを思い出したら、自然と笑みが零れた。
「なんだよ、笑うなよ」
朝は弱いんだと、リュザールは拗ねたように言った。
「顔、洗ってくる」
「うん」
リュザールを待つ間、着替えを用意しようとしたが、服の入った木箱を開けた瞬間に動きを止める。今日は何の仕事をするのか聞いていないので、どの服を準備すればいいのかわからなかったのだ。
とりあえず今日は、止めておく。
夫の予定を把握してないなんて、妻失格だと思った。しかし、最初からなんでも上手くできる人はいない。同じことを繰り返さないよう、失敗を心に刻むまでだ。
そうこうしているうちに、だいぶ外も明るくなってきた。
アユは家屋の天井を覆う布を棒で使って少しずつずらし、陽の光が差し込むようにする。
棒は重たく、天井を覆う布も分厚いので力がいる。
額にうっすら汗を浮かべながら、部屋を明るくするため作業を進めていた。
そんなことをしていたら、リュザールが戻ってくる。
「あ、おい、それは男の仕事だ」
「そうなの?」
「ユルドゥスではな」
リュザールはアユから棒を受け取って、どんどん天井の布をずらしていく。
瞬く間に、家屋の中に朝焼けの太陽の光が差し込むようになった。
「ありがとう」
「ありがとうも何も、これは俺の仕事だから」
「だったら、ごくろうさま?」
「まあ、そうだ」
続いて、リュザールは着替えをする。
「今日は、何をするの?」
「ジーリ港に行って、行商人の護衛をする予定になっている」
「そう」
ここから半日ほど走った先に、大きな港がある。そこから、隣国の国境まで行商人の護衛に就くらしい。
「どうして、商人を護衛するの?」
「侵略者の一族が襲うのは、遊牧民だけではないんだ」
「そう、なんだ」
港から国境の間は、侵略者の一族が頻繁に行き来している。そのため、護衛が必要になるらしい。
リュザールが戻ってくるのは明日の夜だと言っていた。
「いきなり集落を出ることになって、すまない。前から決まっていた仕事なんだ」
「うん、平気」
ユルドゥスの者達は皆優しい。リュザールがいなくとも、きちんとやっていけるだろう。
そんなことを言おうとしたら、リュザールは眉間に皺を寄せる。
「何?」
「いや、俺がいなくても平気とか、即答するから」
どうやら、アユがあっけらかんとしていたので、機嫌を損ねてしまったようだ。
案外子どもっぽいところもあるのだと、新たな一面に気づく。
「なんて言えばよかった?」
「え、う~ん、仕事と私と、どっちが大事なの? とか言うんじゃないのか?」
「何それ?」
「母上が父上にたまに言っている」
一度、これに対する返答でメーレは「仕事に決まっているだろう」と言ったあと、大変なアズラの怒りを買った。
その後、父メーレは学習し、「お前しかいない!」と言って熱い抱擁をすることをお約束としていたらしい。
「仕事と妻と、大事なのは、聞くまでもない」
アユは淡々と指摘する。妻がいるだけでは、食べていけない。生きていく上で、働くことがもっとも重要なのだと。
「まあ、あれだ。説明することは難しいが──」
仕事よりも妻のほうが大事である。メーレはそんなことを言いながらも、きちんと仕事に行く。
アズラは止めもせずに、笑顔で見送るのだ。
言葉と行動が、あべこべなのだ。しかしこれには理由がある。
「大事なのは、仕事よりも妻のほうを選ぶ言葉というか、姿勢というか」
「なるほど」
仕事と私、どちらが大事なの?──という言葉は、本気で仕事に行く夫を非難するものではないようだ。興味深いやり取りだとアユは思う。
そんなことを考えていたら、リュザールはキリッとした顔で先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「いきなり集落を出ることになって、すまない。前から決まっていた仕事なんだ」
おそらく、リュザールはお約束の言葉を待っているのだろう。
アユは笑いそうになりながらも、真面目な顔で言った。
「私と仕事、どちらが大事なの?」
「それは………………お前だ」
リュザールはそう言ったあと、瞬時に顔を真っ赤にさせる。
自分から言いだしたことなのに、盛大に照れているようだ。
片手で両目を覆い、天を仰いでいる。
「なんだよこれ、馬鹿みたいに恥ずかしいことじゃないか」
「そう?」
先ほどのやり取りはリュザールの両親の真似事であっても、大事だと言われたことはとても嬉しいことだった。
素直な気持ちを伝えると、リュザールはさらに顔を赤くして恥ずかしがる。
そんなリュザールを、アユは微笑ましい気持ちで見つめていた。