新婚生活一日目
夜明け前、太陽も空に昇っていないような時間に、アユはパチっと目を覚ます。
今までにない、すっきりとした朝だった。
それは、おそらく栄養たっぷりのごちそうを食べ、疲れを落とすようにじっくりと風呂に浸かったからだろう。
体の調子はすこぶる良い。
いつもは肌寒さを覚えて目を覚ますのだが、今日はとても温かい。
部屋に火鉢を置いているからということもあるが──アユの体をリュザールが抱きしめていたのだ。
「……」
布団は精霊の分と三枚、敷いている。
どうやら精霊の布団の上を転がり、移動してきていたようだ。
アユを温めてくれているのか、暖を取っているのか、よくわからない。
リュザールは背を向けて眠っていたアユの腰に手を回し、ぴったりと体を密着させてすうすうと寝息を立てて眠っていた。
ぼんやりしている状態からだんだんと意識がはっきりしてくると、アユの中にじわじわと羞恥心が湧いてくる。
身じろぐと、腰にあったリュザールの手が動く。
アユの額にある精霊石に触れた。
ここで、アユは気づく。
リュザールは生まれてからずっと、精霊石と共に在った。
精霊石は彼の体の一部なのだろう。そのため、離れてしまうと、自然と求めてしまう。
リュザールはアユの体温を求めていたわけでなく、精霊石を求めていたのだ。
それを思えば、ちょっとだけ残念な気分になる。
リュザールの精霊石に触れる手が離れた。すると、不思議な現象が起こる。リュザールの記憶の一部が、アユの中に流れ込んできたのだ。
それは、とろけそうな笑顔を向ける父メーレと母アズラだった。おそらく、幼少時の記憶だろう。
リュザールは両親に望まれ、愛され、優しい家族に囲まれて育った人なのだ。
だから、同じように無償の優しさを誰かに与えられるのだとアユは思う。
この先、リュザールに何が返せるのか。
アユは考える。
たくさん料理を作って、織物を織って、他にも精一杯働くしかない。
そういうことしか、今のアユには思いつかなかったのだ。
拘束が緩んだ隙にアユは起き上がる。
まずは、着替えなければならない。火鉢から火をもらって灯火器に火を灯し、手元の灯りを確保した。
木箱の中には、ユルドゥスの女性陣から譲ってもらった花嫁衣裳がある。
一番上に畳んであった、緑色の服を取り出し着替えることにした。
少々大きかったが、腰部分をベルトで巻いたらなんとかなりそうだ。
ちらりとリュザールのほうを見る。まだ、ぐっすり眠っているようだった。
異性の前で着替えるというのは、初めてのことである。
夫婦だから、何も問題はない。ただ、感情がまだついてきていなかったのだ。
眠っているから大丈夫。そう自身に言い聞かせ、寝間着を脱いだ。
素早く花嫁衣裳を纏い、精霊石を隠すベール付きの筒型の帽子を深くかぶった。
手に描かれた指甲花は白から橙色に戻っている。これも、人前に出る時は隠さなければならないらしい。木箱の中に、革や木綿の手袋が入っていた。
花嫁衣裳も一年間着続けなければならないし、食事も一年間精霊の分も用意する。
大変な一年が始まろうとしていた。
髪の毛は薔薇の精油を一滴垂らし、揉み込む。
丁寧に 梳ったあと、おさげの三つ編みにした。
外に出ると、地平線がうっすらと明るくなっていた。
まだ誰も起きていないようで、集落は静まり返っている。
アユは樽の中にある水で顔を洗い、粉末薄荷で歯を磨いた。
身支度が整ったあと、アユは精霊に朝の挨拶をする。
リュザールはまだ眠っていた。
白イタチのカラマルも丸くなり、籠の中でスピースピーと寝息を立てていた。
リュザールとカラマルを起こさないように、なるべく静かに朝食の準備を始めることにする。
新婚生活一日目に作るのは、羊飼い伝統の花嫁のスープである。レンズ豆と挽き割り小麦を使ったスープだ。
ハルトスの花嫁は、初夜の翌日にこのスープを作るのだ。
昨晩は初夜ではなかったが、特別な日だった。だから、花嫁のスープを作ろうと思ったのだ。
新しい家屋には、新婚夫婦がしばらく暮らすのに困らないような食材が用意されていた。
祖母から教わったレシピを思い出しながら、材料を用意する。
まず、鍋にガチョウの鳥ガラを入れ、沸騰したら灰汁を掬う。湯が白濁してきたら、鳥ガラは取り除いた。
次に、レンズ豆と挽き割り小麦を水で洗い、水をしっかり切る。
続いて、バターを溶かした鍋に細かく切ったタマネギを入れて、飴色になるまで炒めた。
鳥ガラスープにトマトペーストを入れ、沸騰したらレンズ豆と挽き割り小麦を入れてさらに煮込む。
味付けは塩コショウ、乾燥薄荷、発酵唐辛子、花薄荷、パプリカパウダー。
スープがとろりとしてきたら完成だ。
二品目は、瑞々しいトマトとキュウリを使ったサラダ。オリーブオイルでドレッシングを作る。
三品目は香辛料がたっぷり入った、ヨーグルトのディップ。パンに付けて食べる。
四品目。先ほど炒めたタマネギを使って、オムレツを作った。じっくり火が入ったそれは、ソアン・ユムルタ──キャラメリゼしたタマネギのオムレツと呼ばれている。
白チーズを切って、昨日焼いたパンを皿に盛りつける。
火を消して、大きな丸い鉄板を裏返したものを被せた。これに、フェルトを被せたらあっという間に調理場が食卓となる。ここに、作った料理を並べた。
そして、アユはリュザールの背を優しく叩いて起こした。