結婚儀式
リュザールはアユの手を取って、巫女の家屋の中へと足を踏み入れる。
内装は、いつもと異なっていた。
儀式用の金の祭壇が部屋の中心に置かれている。
地面に広げられたフェルトの敷物ケチェには、槐という縁起の良い植物の花が刺繍されていた。
壁に張られた黒く染められた絨毯は、金の糸で風の大精霊、水の大精霊、炎の大精霊を示す意匠が施されている。これは、結婚式の日にのみ使われるものだ。
家屋の中は薄暗い。外からの光を遮る織物を張っているからだ。
至る場所に置かれた灯火器の中の炎が、ゆらゆらと揺れている。
陶器の器に張られた水が、衝撃もないのに波打っていた。
どこからともなく、風が吹いている。
そのすべては、この場に精霊がいることを示していた。
アユは緊張しているのか、リュザールの手をぎゅっと握る。
すぐさま安心するよう、アユの耳元で囁いた。
その声に反応するように、アユはじっとリュザールのほうを見た。
至近距離で顔を見合わせる形になり、リュザールは照れて顔を背けたくなったがぐっと堪える。
心配いらないと訴えるような目で見ていたら、アユは落ち着きを取り戻したようだった。
三人の巫女はいつもと違う装いで現れる。
陶器製の仮面を付け、薄絹の巫女服を纏っていた。
胸には、青いガラスで作られた『ナザール・ボンジュウ』と呼ばれる魔除けの装備がかけられていた。
これは、「羨望の眼差しにさらされると、悪いことが起きる」という言い伝えがあり、新郎新婦を守るために、巫女が身に着けているのだ。
祭壇の前に水の大精霊の巫女デリンが腰かけ、黒海のリュートと呼ばれる弦鳴楽器を構えていた。
新郎新婦の左右からやってきた風の大精霊の巫女ニライと、炎の大精霊の巫女イルデーテが、月の鳴杖を差し出す。
ずっしりと重い杖を手に取って、先端を床に突いた。
アユは胸に抱くようにして、持っている。
ついに、儀式が始まるようだ。
デリンが弦を爪弾く音が合図となる。
演奏されるのは、若い夫婦の結婚を祝福する調べ。
しっとりとした曲調に、ニライとイルデーテが歌を乗せる。
まず、花嫁の舞いが始まる。
アユは床を爪先でトントンと叩き、月の鳴杖を水平に持ってくるりと回る。
シャン、シャンと、澄んだ鈴の音が鳴った。
アユが動くたびに、花嫁衣裳の裾がひらり、ひらりと舞う。
その様子は、春風が吹いて花びらが漂うように可憐だ。
アユは優美な動きで、旋律の中を舞う。
最後に、月の鳴杖が大きくシャンと鳴らされた。
アユは蹲り、動かなくなる。巫女が奏でる音色や歌声も止んだ。
花嫁の舞いは終わったようだ。
続いて、リュザールが舞う番だ。
昨日、巫女から習った舞いは頭の中に叩き込んでいる。
心配はいらない。
けれど、緊張で手に汗を握っていた。月の鳴杖を落とさないよう、ぎゅっと握りしめる。
デリンのほうを見た途端、演奏が始まった。
花婿の曲は、律動的で勇ましい。
月の鳴杖をくるりと回すと、リィン、リィンという鈴の音が鳴った。
槍を振り下ろすように月の鳴杖を動かし、ドンと力強い足の踏み込みをする。
美しい花嫁の舞いとは打って変わり、花婿の舞いは猛々しい。
激しい動きの繰り返しに、額に汗がじんわりと浮かんだ。
月の鳴杖を突いて上げ、床に叩きつける。
躍動的で力強い舞いであるが、鈴の音は美しい。
最後に、月の鳴杖を大きく回して、舞いは終了となる。
花嫁同様、蹲った姿のまま、リュザールは肩で息をしていた。
心臓はバクバクである。
なんとか、失敗せずに終えることができた。心から安堵している。
月の鳴杖は巫女に預けた。
夫婦は祭壇の前に並んで座り、精霊石交換の儀式を行う。
まず、巫女デリンの手によって、アユの額にあった飾りを取り払った。
何もない額が露わとなる。
まず、花嫁のほうから儀式を始める。
とは言っても、彼女は精霊石を持っていない。
そのため、額に口付けするのみとなる。
儀式はすぐに始めるようだ。
「大精霊よ、若き夫婦に祝いを!」
デリンがそう言うと、内部の灯火器はすべて消えた。
風は止み、器の水は消えてなくなる。
真っ暗闇の中、審判の時がやってきた。
「花嫁から花婿へ、祝福を」
リュザールは座ったまま、儀式を待つ。
アユは立ち上がり、リュザールの傍に寄った。
濃い薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。アユの匂いだ。
同時に、花嫁の薄布と柔肌が触れた。
くらりと眩暈を覚えそうになったが、それ以上の衝撃に襲われる。
アユはリュザールの頭を抱き寄せ、そっと額に唇を寄せた。
触れられた額が、カッと熱くなったように感じる。
精霊石はないのに、まるでそこに大きな力が宿ったような不思議な感覚に囚われた。
酩酊状態と言えばいいのか。
くらくらしていたが、巫女の凛とした声でハッと我に返る。
「続いて、花婿から花嫁へ祝福を」
巫女の言葉を聞いたアユは、リュザールから離れた。
リュザールは懐から自身の精霊石を取り出し、手に取る。
菱形のエメラルドのような石だ。
これを握って、十九年前の春にリュザールは生まれた。
両親曰く、嵐の日だったという。
風という意味があるリュザールと名付けられ、風の精霊の祝福を受けて今に至る。
どんな時も肌身離さず持っていたこの精霊石を、花嫁であるアユに捧げるのだ。
もしも、この結婚が認められなかった場合、精霊石はアユの額には付かない。
その審判を下すのは、精霊だ。
リュザールは舞いの時以上に、緊張していた。
暗闇に慣れた頃、視線を感じる。
アユは穢れのない瞳で、リュザールを見ていたのだ。
その目を見た途端、彼女ならばきっと大丈夫。精霊も、認めてくれる。
そんなふうに、不思議と思ってしまった。
リュザールは精霊石を唇に銜える。アユの腰を抱き、ぐっと引き寄せた。
そして口付けするように、唇に銜えてあった精霊石を額に付ける。
その刹那、パチンと音が鳴り、家屋の中は一瞬光で包まれた。
「──あっ」
衝撃があったのか、アユは小さく声をあげる。
精霊石は額に付いたのか。
恐る恐る、アユの額から唇を離す。
それと同時に、家屋の中の灯火器が一斉に灯された。
強い風が吹き、陶器の器の水が溢れんばかりに満たされる。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
巫女は新郎新婦に、祝いの言葉を贈る。
リュザールはアユのほうを見た。
すると、菱形の精霊石が、彼女の額に付いていた。
どうやら、この結婚は精霊に認められたようだ。
ホッとして、笑みが零れる。
アユも同じように、微笑んでくれた。