結婚式当日
朝、太陽も出ないような時間からリュザールはアズラに叩き起こされる。
「我が息子リュザール、起きなさい。今日はあなたの結婚式ですよ」
「ううっ……」
「一刻も、無駄な時間はないのですからね!」
いつもより二時間ほど早い朝に、リュザールは被っていたフェルトをかき集めて身を縮める。
「聞こえているのですか! 起きるのです!」
「う~~っ」
耳をつんざくような声にリュザールは従い、のろのろと起き上がった。
続いて、アズラは夫メーレを起こす。
「我が息子リュザール、先に外に出ていなさい」
「わかった」
結婚式の朝、やらなければならないことがあるのだ。
外に出ると、三つある桶の中すべてに水が張ってある。
これは、水の大精霊の巫女が準備した、祝福を得た水だ。これを、父親が結婚する息子へ頭の上からかける風習があるのだ。
そのあとすぐに着替えるので、寝間着のまま行う。
夜にしか見えない空を見上げ、ふうと息を吐いた。
草原の朝は酷く冷える。
今の時間だったら、かろうじて夜と言ってもいい。そんな時間帯であった。
寝間着だけでは肌寒い。リュザールは腕を両手でさする。
これから水をかけられ、さらに寒くなるのだ。考えただけでもぞっとする。
「すまん、待たせたな」
「おう」
メーレが眠気まなこでやって来た。さっそく、桶の水を確認している。
はあと、憂鬱そうにため息をついていた。
「こんな寒い時間にやらんでもなあ。可哀そうだ」
「冬の結婚式は、もっと寒いだろう」
「そうだったな」
「一兄の時は秋だったが、二兄の時は冬じゃなかったか?」
「ああ、そういえば、雪が積もっていたな」
「考えただけでも、ぞっとする」
メーレは言う。今までの三人の息子への儀式はまったく辛くなかったと。
しかし、リュザールへ水をかける行為は、あまりしたくないとぼやいていた。
ここで、リュザールは他の兄に比べて甘やかされていたのだと、実感することになった。
「まったく、弱くなったものだ……」
「兄上達が立派に育って、安心したんだろう」
「まあ、それもあるだろうな」
リュザールの兄達は一人を除き、独り立ちをして家族もいる。
特に、長男であるゴースは次期ユルドゥスの族長として皆を率いる器があった。
心配事はほぼないのだ。
「お前が結婚することになって、余計に安心しきった状態かもしれぬ」
「まあ、今まで頑張っていたから、いいと思うけれど」
「いいや、まだまだしっかりせねば」
メーレは頬を打ち、気合を入れている。
「よし、いくそ──せい!!」
メーレは一気に、桶の中の水をリュザールの頭上から被せた。
水は氷水のように冷たい。冷え切った体をあっという間に粟立たせるものだった。
リュザールは歯を食いしばって、耐える。
これを三杯、かけてもらった。
その後、風呂場に行って身を清める。
巫女の手は借りず、一人で入った。
脱衣所では母アズラが待ち構えていた。
「うわあ!」
「待っていました。我が息子リュザール」
「そんなところで待つなよ」
「私も、息子の裸など見たくもないのですが」
時間がないと言われ、強制的に服を着せられる。
用意されたのは、白ズボンと、同じ色のふくらはぎまで丈のある、詰襟の服だ。襟や袖には、金糸で刺繍がなされていた。
途中で水の大精霊の巫女デリンがやってきて、リュザールの額に指甲花の染料で精霊の呪いを描く。
円形で、中には幾何学模様が描き込まれていた。
ここに、精霊石を付けるようになっているのだ。
アユは精霊石を持っていないので、中心に石がはめ込まれることはないが。
呪いを描き終えたら、風の大精霊の巫女ニライが描いた円陣を乾かし、炎の大精霊の巫女イルデーテが描いたものを肌に焼き付けた。
これで、儀式の前準備は完了である。
続いて、頭部には筒状の帽子を被る。これで、額の呪いは見えなくなった。
最後に、大判の赤い肩掛けをかけたら身支度は完全なものとなる。
「では、参りましょう」
リュザールは巫女らの誘導で、儀式を行う家屋に移動した。
◇◇◇
アユは家屋の前で待っていた。彼女もまた、白の婚礼衣装を纏っている。ぴったりと体の線に沿うような美しいもので、銀糸で花模様の刺繍がなされていた。ユルドゥスに伝わる伝統的な花嫁衣裳である。
これも、アズラがリュザールの花嫁のために準備していた品らしい。大き目に作っておいて、昨晩、手直しをしたようだ。
リュザールはただただ、花嫁衣裳を見つめる。
指先までレースに包まれているのかと思えば、手首から上は巫女の描いた指甲花である。
結婚式の日だけ、ああして白くなっているのだ。翌日になったら、色が変わる。
これも、精霊の力である。
結婚式当日はベール付きの帽子ではなく、レースのベールを被っていた。
額には巫女の描いた呪いと、それに重なるようにターコイズの飾りを身に着けている。
アユの深紅の髪は左右から編み込まれ、後頭部で纏め上げていた。
耳にはシャラシャラと音の鳴る金の房がついた、真珠の飾りが輝く。
目元には朱が引かれていた。それは、アユの意思の強さを際立たせるかのよう。
頬には薄紅がはたかれ、唇には真っ赤な口紅が塗られていた。
世にも美しい花嫁が、リュザールの目の前にいたのだ。
アユも、リュザールが来たことに気づいたようだ。
目が合うと、さらに見惚れてしまう。
いつもだったら恥ずかしくて目を逸らすが、今日ばかりはそうもいかない。
リュザールだけの花嫁が、目の前にいる。
それは、こんなに嬉しいものなのかと、実感することになった。
リュザールは結婚する。
遊牧民の少女アユを花嫁にするのだ。
リュザールはアユのもとへ行き、そっと指先を握ると、指甲花が施された手の甲に口付けする。
花嫁の頬は、薔薇色に染まった。