結婚前夜の儀式
デリンはアユの手の甲に、巫女から花嫁への祝福を施す。
羊革袋の先端を切ったものに植物の粉末を水で溶いたものを入れ、精霊の守護を示す独特な模様を描いた。
これは、指甲花と呼ばれるもので、草原で採取したミソハギ科の植物で作られた染料である。
原料となった植物には強い殺菌効果があることから、魔除けの力があると信じられていた。
このあと、巫女の願いで精霊の祝福が指甲花に宿るのだ。
「普通の指甲花は一か月くらいで消えるけれど、これは精霊様の祝福が宿るから、一年は消えないよ」
家事をするときは、革袋を嵌める。
結婚式の日以外は、なるべく人目にさらさないよう、注意を受けた。
手の甲が終わったら、手のひらにも模様を描いていく。
ひやりとした指甲花が触れ、肌の上を這う感触にアユは笑いそうになる。しかし、巫女デリンの表情は真剣そのものなので、ぐっと奥歯を噛みしめて耐えた。
一時間ほどで、左右の手の指甲花が終わったようだ。
手全体に精緻な模様が描かれている。まるで、手に美しいレースの手袋を嵌めているように見えた。
アユもデリンも、ふうと息を吐く。
「次は、足から腿に描くよ」
「足も?」
「安心しな。足は手のようにびっしり描かない。左足に、ちょっと描くだけだよ」
「わかった」
アユの両手には指甲花が施されている。まだ乾いていないので、手は使えない。
そのため、デリンは問答無用でアユの寝間着の裾を捲った。
「──あっ」
「恥ずかしがるんじゃないよ」
「……」
さっそく、デリンは足首に模様を描く。
そして、蔓のような模様を腿に向かって描いていく。
「あんたは、艶やかな薔薇だ」
そう言って、別の色の指甲花を手に取り、外腿に大きな薔薇の花を描いた。
花の種類は、花嫁によって違うようだ。
「リュザールの母アズラはアルペンローゼ、叔母のケリアはエーデルワイス」
デリンは喋りながらも、どんどん薔薇の花を描いていく。
最後に、内腿に蕾を描く。
腿のもっとも柔らかい部位に指甲花の冷たい染料がそっと這い、蕾が描かれていく。
この花は、巫女から花嫁の幸せを願う贈り物なのだ。
「ユルドゥスの花嫁は、とても、幸せ」
こんなにも、大事にされている花嫁を他に知らないと、まるで他人事のようにアユは呟く。
「あんたもこれから、世界一幸せな花嫁になるんだよ」
話が終わったのと同時に、アユの脚に見事な薔薇の花が完成していた。
「綺麗……」
「リュザールに見せてやりな」
「え?」
「本人が見たいと言ったらな」
一度、風が吹いた時に脚を見られたことがあった。
その時は、自然がしたことなので、なんともなかった。
しかし今は──風の仕業だとしても恥ずかしい。
心情の変化に、アユは首を傾げる。
だが、深く考える暇はなかった。
続けて、風の大精霊の巫女ニライがやってきた。
風の祝福の力で、指甲花を乾かすらしい。
アユは初めて、精霊の祝福を目にすることになる。
その前に、ニライに質問をした。
「祝福には、犠牲が?」
「巫女の祝福に、犠牲はないのよ」
ニライは優しく諭すように言った。
おそらく、生涯精霊の妻となる代わりに、精霊の力を得るのだろう。アユはそういうふうに解釈した。
ニライは胸の前で手を組み、精霊へ祝福を願う。
「では、アユ。目を閉じて──」
言われた通りに瞼を閉じると、体全体を風に包まれた。
これが、精霊の祝福。
その身を以て感じたアユは、ポロリと涙を零す。
精霊の風は優しかった。
温かくて、優しくて、まるで慰めてくれるような──風。
アユは、この風を知っている。
日夜、羊の面倒を見て、家事をして、羊毛で手仕事をして。
そんな忙しく過ごす中で、アユの横を漂っていた風だった。
祝福がない者は、愛されていないのではなかった。
気づいてないだけで、精霊はいつだってそばにいたのだ。
そのことが嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらない。
精霊の風は、アユの結婚を心から祝っているように思えた。
「ありがとう」
自然と、そんな言葉を口にする。
一度では言い足りなくて、何度も何度も、アユは精霊に礼を言った。
風が止むと、今度は炎の大精霊の巫女イルデーテがやってくる。
「今度は、わたくしがアユさんの体に描いた指甲花を、体に残るように焼き付けますね」
「焼き付け……」
これを行うことにより、指甲花は一年間体から消えずに残るのだ。
指甲花が消えたら、精霊との婚礼が終わった合図にもなる。
「大丈夫ですわ。火傷をするほど熱くなりませんので」
「わかった」
これも精霊の力だ。恐れることはないと、自身に言い聞かせる。
同じように目を閉じ、精霊の祝福を待つ。
刹那、体全体がカッと熱くなった。
その熱は、アユのよく知るものだった。
寒い夜に、体を温めてくれる優しいもの。
それから、料理を作るための、力強いもの。
炎の精霊もまた、アユのすぐ近くにいたのだ。
瞼を開くと、指甲花の色が変わっていた。鮮やかな橙色になっていた。
足首を捲ると、緑色の模様が見えた。
捲っていくと蔓が伸び、外腿には鮮やかな赤い薔薇が咲いている。
内腿には、葉色に包まれた赤く小さな蕾があった。
これにて、結婚前夜の儀式は完了である。
アユは巫女に、深々と頭を下げた。