精霊の祝福は、
楽器を奏でる美貌の男はリュザールの兄、イミカンだった。
「今宵は月が綺麗だったからね、つい」
「また、そんなことを言って。昼間寝ていたから、夜活動的になっているだけだろうが」
デリンは容赦ない。
「い、痛いよ、デリン」
「これくらい、お前の両親の心の痛みに比べたら、なんてことないんだよ」
「酷いな」
「酷いのは、あんただよ!」
噂の族長の息子イミカンは、ハッとするほど美しい顔の持ち主だった。
ただ、一日中ぐうたらと過ごし、家族へ実りをもたらさない役立たずの男である。
周囲が何を言っても無駄。
家族は何もかも、諦めているのだ。
「デリン、アユのことだけでも、教えてくれないかい?」
「彼女は、あんたの弟、リュザールの嫁だ」
「え? そうなんだ。へえ、あの子が結婚を……」
「そうだよ。だから、ちょっかいかけるのは禁止だよ」
「なんで? 家族になるのに?」
「最初の話に戻るけれど──」
「ん?」
デリンはすうっと息を大きく吸い込んで叫んだ。
「あんたが、悪い虫だからだよっ!」
「ウッ、耳がキーンって」
イミカンが怯んだ隙に、デリンはアユの腕を掴んでずんずんと歩く。
たどり着いた先は、新しく建てられた家屋だ。
「ここが、あんたとリュザールの新しい家だ」
「私とリュザールの、家?」
「ああ、そうだよ」
デリンは中へと入り、ガラスの灯火器に火を灯す。
火の灯りに照らされた部屋は、きちんと生活ができるように整えられていた。
地面の上に敷かれた絨毯は真新しいものではないが、丁寧に織られたものだとわかる。
「アユ、今日はここで休むんだ。リュザールの実家は料理でいっぱいいっぱいだからね」
今晩はアズラもリュザールの家に泊まる。家族水入らずの晩を過ごすわけだ。
「よかったねえ。立派な家をこさえてもらえて」
「本当に。私には、もったいないくらい」
「そんなことないんだよ」
デリンはアユの手を引き、ぎゅっと抱きしめる。
「ここの人達は、どうして、こんなに優しいの?」
「それは皆、悲しみを知っているからさ」
調停者一族ユルドゥスは、さまざまな喪失を目にする機会が多い。
また、家族を失った者、住む場所を奪われた者が集まっているのだ。
「気持ちがわかるから、あんたみたいな子を、放っておけないのさ」
「……」
伯父に連れられ都への道を行く間、アユの心は空っぽだった。
持参品を失い、自らの意思を失い、家族を失った。
何を見ても、聞いても、心揺さぶられることはない。
空虚に支配されていた。
そんな中で、アユはリュザールに出会った。
リュザールはアユの空っぽだった心に、どんどん温かなものを注いでくれた。
おかげで、自分自身を取り戻すことができたのだ。
「私も、もらうばかりではなく、彼に、何かを返したい」
「そうだね。でも、それは気持ちだけにしときな」
どういうことなのか。アユは小首を傾げた。
「お前は明日、リュザールから風の精霊石を受け取るだろう」
そうすれば、アユは精霊の祝福を使うことができる。
「人はね、ただで精霊の力を使えるわけではないんだよ。犠牲が、必要なんだ」
「犠牲?」
「ああ、そうだよ」
たとえば、洗濯物を乾かす風の力が必要とする。
さすれば、人は手のひらをナイフで切りつけ、精霊に血を捧げるのだ。
「犠牲になった血の対価として、風が巻きあがる」
一日一回、血の一滴を失うくらいならなんてことはない。
ただ、問題は精霊の力を戦闘手段として使う場合だ。
「人が歩けなくなるほどの大きな風を巻き起こすには、たった一滴の血では足りないんだよ」
ここで、アユはハッと息を呑む。
「大きな、犠牲が?」
「ああ、そうだよ。お前は、賢い子だね」
過去、とあるユルドゥスの青年は指を切り落とし、大きな嵐を呼んだ。別のユルドゥスの族長は腹を裂いて、危機に陥ったユルドゥスの者達を救った。
「精霊の祝福は、犠牲と引き換えに使えるようになる」
その犠牲が大きければ大きいほど、力を増していくのだ。
「ただ、気を付けなければならないことは、その犠牲が清いものでなければならないということだ」
誰かを憎む心を以て力を使えば、祝福の力は汚染されてしまう。
そんな状態で祝福を願えば、力は暴走して自身の身を亡ぼす結果となる。
精霊の祝福は、万能な力ではないのだ。
「そもそも、精霊の祝福を受けたものは、弱い存在なんだよ」
人は弱い。
ある日、それに気づいた精霊が、祝福の力を与えるようになった。
「人は、勘違いをしているけれどね。元々祝福を持たない者のほうが、強いんだ」
指を切り落とした青年も、腹を裂いた族長も、もともとは精霊の祝福を持たない者だったのだ。
伴侶の精霊石の力を得て、祝福の力を得た。
そして、彼らは大きな犠牲と引き換えに、強力な祝福の力を使ったのだ。
精霊石を持つ者は、犠牲と対価の仕組みを生まれながらに知っている。
そのため、誰に習うことなく、精霊の祝福の力が使えるのだ。
アユのように儀式で精霊石を得る場合は、巫女が教えるようになっていた。
デリンには懸念があるようで、精霊石の使い方の他に小言を添えた。
「アユ、あんたは、守るものを見誤ってはいけないよ。お前が守るのは、この家だ」
デリンは強い口調で、アユに言い聞かせる。
「精霊石の力は使わないほうがいい。お前のことは、リュザールが必ず守るから」
精霊の祝福の知られざる犠牲と対価に、アユの肌は粟立つ。
侵略者の一族に襲われた時、なぜリュザールが祝福の力を使わなかったのかと、理解することになった。