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宴の犠牲

 リュザールはまず、頼まれている羊の解体を行う。

 両親の家屋の裏手には、肉付きの良いムチムチした雌羊がいた。

 己の運命などわかっておらず、メエメエと鳴いている。

 羊肉は久々だ。そんなことを思いながら、リュザールは腰に差してある大ぶりのナイフを引き抜いた。


 近くに、グラグラと沸騰する鍋が用意されていた。そこに、ナイフを投げ入れる。

 解体に使うナイフは、このようにして煮沸消毒するのだ。

 もう一つ、骨を断つ刃物も入れた。


 ナイフの消毒を待つ間、他に使う桶や敷物などを用意する。


 十分後、鍋の中の湯を捨ててナイフを取り出す。

 これで、準備は完了だ。


 羊の肉は特別な日に食べるものだ。

 婚礼の日や、精霊への感謝祭、犠牲祭の日など。

 普段の羊は遊牧民にとっての財産を示す象徴であり、ヨーグルトやチーズ、バターなどの乳製品を作るための乳を提供してくれる貴重な存在なのだ。


 リュザールが羊の解体をすると聞いたからか、子ども達が集まってくる。

 しかし、近くで見ることはせずに、遠巻きで見つめるばかりだ。

 リュザールが子どもの頃もそうだった。遠巻きで羊が殺される様子を見て、だんだんと肉の塊になっていくところになったら、近付いてじっくり観察する。

 そうやって、ユルドゥスの子ども達は羊の解体を覚えるのだ。


 まず、子ども達を振り返って、ナイフを掲げる。今から羊の解体をするという合図だ。

 その様子を見た四、五歳くらいの子ども達は、ぎゅっと目を瞑っている。十歳近くになると、熱心な視線を向けてくるのだ。


 山羊の革を使って作った敷物の上に誘導した。

 解体の始まりである。

 最初に羊の犠牲に感謝の言葉を述べ、ナイフを天に衝き上げ精霊に感謝の意を示す。続いて、羊の頭を掴んで固定させたあと、一気に喉にある頸動脈を切り裂いた。

 羊はがくんと膝が抜けたあと、横たわる。

 見るも鮮やかな血が、どくどくと流れていく。その血は、桶に受け止めた。

 血の一滴たりとも無駄にしてはいけない。それが、ユルドゥスのしきたりの一つである。

 羊は断末魔の叫びをあげていた。

 しばらくじたばたと暴れるので、体が動かないように押さえつけた。

 二分後、羊は息絶える。

 頭と足を切り落とし、外套を脱がせるように皮を剥いでいく。

 その後、腹部にナイフを入れ、腸や胃袋などの臓物をずるずると出していった。

 次々と、桶に入れていく。

 あとはそこまで手間ではない。肉を部位ごとにわけるだけだ。

 用意してあった斧のような刃物で骨を断ち、細かい部分はナイフで切り分けていく。


「リュザール兄さん、これ、持って行くね」

「ああ、頼む」


 声をかけてきたのは、リュザールの二番目の兄ヌムガの長女、十二歳のエリンである。

 若草色のローブを纏い、長い黒髪を二つに結んだ可愛らしい少女だ。

 他の女性陣同様に、筒状の帽子に後頭部を覆う長い布がついた物を被っている。


「あ、結婚、おめでとう」

「おう」

「選り好んだ甲斐があったね。花嫁様、すごく美人じゃん」

「う、うるさい」


 手を振ってエリンを追い払う。

 その後も、次々とユルドゥスの女達がリュザールに祝いの言葉を述べつつ、これでもかと絡んだ。


 こんなにも周囲がリュザールの結婚を喜んでくれたことは、想定外であった。そのため、照れ臭かったが、嬉しさもこみあげてくる。


「随分と結婚式が楽しみなようですね。我が息子リュザール」

「うわあ!!」


 いつの間にか、目の前に母アズラが立っていた。

 どうやら一人でニヤついていたらしく、それを見られてしまったのだ。


「い、いつの間に!?」

「三十秒ほど前から」

「声をかけろよ」

「我が息子リュザールの笑顔は大変貴重なもので、つい」

「つい、じゃない……」


 ぐったりと、脱力してしまう。


「それで、なんか用なのか?」

「ええ、風の大精霊の巫女が月の鳴杖みょうじょうが準備できたと」


 月の鳴杖とは、月を模した杖に鈴が付けられた杖状の楽器である。

 結婚式の儀式に使う道具なのだ。

 新婚夫婦に贈られ、儀式の際に舞いを踊る。


「そういや、あいつ、舞いは大丈夫なのか?」

「今教えています。筋はいいです」

「そうか」


 月の鳴杖は既婚者の証であり、羊を誘導する際にも使う。

 夫は身の丈以上の長い杖を、妻は身の丈より少し長い杖を手にする決まりだ。


 リュザールも成人の儀の際に巫女から教わった。

 きちんと踊れるものか。もう一度、確認しなければならない。


「ここの後片付けはしておきますので、行ってきなさい」

「ああ、わかった」


 桶に水を張ったものを手渡される。オリーブの石鹸で手を洗い、手巾で水分を拭う。


 そして、リュザールは巫女の家屋まで向かった。


 ◇◇◇


「あの、リュザール坊が結婚するなんてねえ」

「わたくしがお産に立ち会ったのは、つい最近だと思っていたのに」


 巫女の家屋ではニライだけでなく、水の大精霊の巫女デリンと炎の大精霊の巫女イルデーテがリュザールを待ち構えていた。


 デリンは六十代の老女で、熟練の巫女である。

 一方、イルデーテは三十代半ばの巫女だ。


「リュザール、これがあなたの月の鳴杖よ」


 ニライが木箱の中に納められていた月の鳴杖を持ってきた。

 それは赤と黒に塗られた木の持ち手以外、金が張られた美しい杖である。

 先端に三日月と星の意匠があり、釣鐘状の飾りの下にいくつもの鈴が下がっている。

 動かしたら、リィンという澄んだ音が鳴るのだ。


「これが、俺の」

「ええ」

「素敵ですわ」

「本当に」


 デリンに手渡された月の鳴杖を受け取る。

 男性の月の鳴杖は女性のものよりずっと重い。それは家族の長となる者の責任の重さでもあると、以前父メーレが話していた。

 これがそうなのかと、実感する。


「リュザール、おめでとう」

「おめでとうございます」

「本当に、おめでたいわ」


 口々に言う巫女の言葉に、じんとする。

 しかし、今は結婚を喜んでいる場合ではない。


「あの、頼みがあるんだが――舞いを忘れてしまって」


 その言葉を聞いた巫女の目が、キラリと光った。


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