夜間放牧
「その白イタチは、彼女のおかげで命拾いしたわね」
「いや、こいつは煮ても焼いても食えないし」
乳離れしているとはいえ、まだ一人前のイタチには見えなかった。
おそらく、このまま野に放しても死なせてしまうだけだろうとも。
「それにしても、妻の願いを吟味し即座に許す姿勢は、素晴らしいわ」
「まあ、別に、イタチの一匹や二匹、増えたくらいで生活が傾くわけでもないし」
そんなリュザールの言葉に、アユは礼を言う。
「リュザール、ありがとう」
にっこりと微笑みながら言うので、ふいと顔を反らしながら「たいしたことではない」と返した。
「そんなことよりも、その白イタチの名前はどうするんだ?」
アユは白イタチを持ち上げ、じっと見つめる。
「う~~ん……」
アユは眉間に皺を寄せ、真剣に考えていた。じっくり悩んだ挙句、彼女は白イタチにとんでもない名前を付けた。
「烏賊」
「なんで烏賊なんだよ」
「だって、すごくそっくり」
胴が長いイタチは、アユには烏賊にそっくりに見えるらしい。
「烏賊、一回だけ干物を食べたことがある。とても、美味しかった」
山岳地帯を遊牧するハルトスにとって、魚介類はめったに口にできるものではない。
その中でも、アユは烏賊を絶賛している。
「最初に革袋から出した時、烏賊かと思った」
「生きている烏賊を、腰にぶら下げているわけないだろう」
「好きなのかと思って」
「この辺でも、海の魚介はめったに手に入らない」
「そう」
二人のやりとりを聞いていたニライは、笑いだす。
「な、なんだよ?」
「いいえ、あなた達、良い夫婦になりそうだわ」
そういえば、ニライは結婚を反対していた。それは今もそうなのかと聞いてみる。
「いいえ、反対なんてしないわ。だって、お似合いですもの。ごめんなさいね、勘違いをしてしまって」
「別にいいけれど」
そんなわけで、リュザールとアユの結婚は認められることになった。
「それで、結婚式は明日なんだけど」
「あら、急ね」
「ああ。だから、今日は大忙しだ」
これから、リュザールは祝いの席で食べる羊の解体をしなければならない。
アユは女性陣と顔を合わせて、食事の準備をする。
一応、他のユルドゥスの集落にも巫女同士の水鏡通信を使って知らせることになるらしい。
水鏡通信とは壺にためた清らかな水に巫女の力を宿し、他の集落にいる巫女へ言葉を飛ばす呪いである。
各地に点々としているユルドゥスの者達が一堂に集まることはない。
結婚後は夫婦がユルドゥスの集落を回って歩き、挨拶をするのだ。
「夏は忙しいから、挨拶回りに行くのは秋の前になりそうだな」
「あら、今年は夜間放牧に行くの?」
「いや、まだ迷っている」
夜間放牧とは夏季の一ヵ月ほど集落を離れ、夜間に餌を食べさせることだ。
夏の家畜は、日中食欲が落ちる。そのため、夜に餌を食べさせて太らせるのだ。
また、夏は家畜の交尾の季節である。比較的涼しい夜間に活動させたほうが活発的になり、妊娠率が上がると言われていた。
しかし、夜間放牧について行く羊飼いは大変だ。簡易的な移動式家屋を毎日立てて、しまうことを繰り返し、羊の群れを狼から守らなければならない過酷な旅である。
去年、大量繁殖に失敗したリュザールは、今年こそと考えていたが――予定外の結婚をしてしまった。
アユの頑張りを見ると言った手前、彼女一人をユルドゥスの集落に残すわけにはいかない。
「去年は猛暑で、どこも羊の数は増えなかったらしいわ。今年こそと思っている人は多いようね」
「う~~ん」
精霊からの言葉によると、今年はそこまで暑くならないようだ。
絶好の機会なのではとも思う。
しかし――。
そっと横目でアユを見る。すると、キラキラな視線を向けていることに気づいた。
「な、なんだよ?」
「リュザール、夜間放牧、行く?」
「いや、迷っている」
「私もお手伝いするから、連れて行って」
「は!?」
「夜間放牧に、行きたい!」
なんでも、ハルトスは女性が夜間放牧に行っていたらしい。
しかも、アユは十歳の弟と二人で行っていたのだとか。
「な、なんだよそれ。危ないじゃないか!」
「ユルドゥスみたいに、一ヵ月も行かない。長くても一週間くらい」
夜間放牧に行く間、アユは自由だった。誰からも命令されることはなく、心穏やかな中で過ごしていたらしい。
「しかし、狼とかいなかったのか?」
「いた。でも、犬が追い払ってくれたから」
「どんな獰猛な犬なんだよ……」
とにかく、アユは夜間放牧に慣れているらしいことがわかった。
「行ってらっしゃいよ。一緒に夜間放牧に行きたいっていう奥さんなんて、なかなかいないわ」
そうなのだ。
夜間放牧の過酷さを知っているユルドゥスの女達は、一緒について行きたがらない。
そのため、男が単身で行く場合がほとんどである。
「まあ、考えておく」
「ありがとう!」
アユは嬉しそうに言った。
「夜間放牧で喜ぶって、どうなっているんだよ」
「だって、楽しみは、それだけだったから」
その言葉を聞いた途端、浮かび上がった感情は憐憫か、同情か。
ただ一つわかるのは、夜間放牧よりもっと、楽しいことはある。
これから先、アユに教えなければとリュザールは思った。