異なる価値観
食卓の前に座ったところで、アユが家屋の中に戻ってくる。
手には、陶器と琺瑯の二段重ねの紅茶ポット――チャイダンルックを持っていた。
これは、下の琺瑯に水を入れ、上に茶葉を入れて蒸すように温める。
沸騰したら湯を上の段に注ぎ、下の段には水を追加。茶葉が開ききったら完成だ。
まず、上の段の紅茶を注ぎ、下の段の湯でちょうどいい濃さまで薄める。これが、遊牧民式の古くからの飲み方だ。
アユと目があったリュザールは、ぎこちない様子で挨拶した。
「……おはよう」
「リュザール、おはよう」
ハキハキと挨拶を返したアユは、食卓に近づいて陶器のカップに紅茶を注いでいく。
朝食の準備が整ったようだ。
リュザールと両親は席について、食前の挨拶をする。
「その料理があなたの健康にいいように」
家長であるメーレがそう言えば、同じ言葉をアズラとリュザールが返す。
アユは食卓から一歩離れた場所で、その様子を眺めていた。
それに気づいたメーレは、不思議そうな視線を向けて話しかける。
「おい、どうした? 早く席につけ」
その言葉に、アユは首を傾げる。
「どうしたのです、アユ。早く食べなさい」
「私も、食べて、いいの?」
「いいに決まってるだろ。作ったお前が一番食べる権利がある」
リュザールの言葉を聞いたアユは、隣にちょこんと座って言った。
「その料理があなたの健康にいいように」
親子は声を揃えて、同じ言葉を返した。
「お前、なんであそこで見ていたんだよ」
「羊飼いの女は、家族が食べたあとの残りを食べるから」
「は!?」
ハルトスではまず男が食事を取り、女は残ったパンの欠片や冷えたスープを食べる。
それが、古くからのしきたりであった。
「なんだよ、それ。だからお前、そんなに腕がガリガリなのか? 力なんか出ないだろう?」
アユは自身の腕を見て、首を傾げている。
「掴んだ山羊の髭は、絶対に放さないけれど」
「案外力あるな!」
山羊の乳を搾る際に、大人しくさせるため髭を掴むのだ。
ユルドゥスでは、山羊の髭を持つ役は男がする。
それ以外にも、力仕事は男の仕事だ。しかし、ハルトスでは違ったようだ。
「信じられん……」
「リュザール、女を大事にするのは、ユルドゥスくらいだ。他は、女を物のように扱う」
「はあ!? なんだ、それ!?」
メーレが言った話を信じられず、リュザールは瞠目した。
幼少時より女は男が守り、妻を娶ったら命よりも大事にするように言われて育った。
そんな女性に酷い扱いをする者達がいるのだと聞いて、言葉を失う。
「ユルドゥスの女は幸せ者なのです」
「その話はもういい。スープが冷めないうちに、食べよう」
リュザールは今の言葉にイラつきながらも、パンとスープの器を寄せて食べることにした。
食卓には木製のフォークだけあり、匙はない。スープに浸して食べるから必要ないのだ。
リュザールはパンを千切って、とろりとしたレンズ豆のスープに付けて食べる。
「──!」
あまりの美味しさに、瞠目する。
レンズ豆の旨味がぎゅっと濃縮しており、魚介などの出汁は使っていないのに深いコクがあった。一口、また一口と食べ進めるたびに、朝の冷気で冷え切っていた体がポカポカしてくる。
「ほう、これは、大した料理の腕前だ」
メーレは深く感心している。一方で、スープを作っていないアズラのほうが、誇らしげな表情を浮かべていた。
アユは黙々と食べ続ける。自分で作った料理なので、いつもの味なのだろう。
途中、リュザールは紅茶を飲んだ。これがまた、ほどよい濃さで美味しいのだ。
まずはそのまま飲んで、次に砂糖の欠片を落とす。すると、甘さによって紅茶の味が深まるのだ。
食事中、リュザールは三杯も飲んだ。
アユの料理はどれも美味しく、満足のできるものだった。
最後に、料理を作ってくれたアユに声をかける。
「美味しい料理を作ったその手が、健やかであるように」
その言葉に、アユは淡い笑みを浮かべて返す。
「その料理があなたの健康にいいように」
◇◇◇
朝食後は、リュザールはアユを連れてユルドゥスの巫女の住まう移動家屋に向かった。
巫女とは、調停者であるユルドゥスの守り手である。古くからより、彼女達の加護によって安寧秩序な暮らしがもたらされてきた。
巫女は、大きな精霊の力をその身に宿している。
というのも彼女らは生涯精霊の妻となり、その対価が強大な精霊の祝福なのだ。
現在、メーレの夏営地には、三人の巫女がいる。
風の大精霊の巫女――ニライ。
水の大精霊の巫女――デリン。
炎の大精霊の巫女――イルデーテ。
巫女はもともと、侵略者の一族に襲われ、身寄りがなくなった子がなることが多い。
強制ではなく、本人が望んで巫女になるのだ。
家も、家族も持参品さえも失った女達は、巫女となって生涯祈りを捧げる。
そして、命を救ってくれた恩人であるユルドゥスを守るのだ。
そんな巫女の仕事は多岐に渡る。
「一番大変なのは、あれだ。新婚夫婦が精霊に作った料理を、巫女が食べなければならないのだが――」
そんな説明をしていると、家屋から一人の女性が出てくる。
四十代くらいのふくよなか女性で、アユを発見すると柔らかく微笑んだ。
「まあ、みんなあんな体形になってしまう」
「リュザール、なんの話!?」
キッと睨まれたリュザールは、明後日の方向を向いて巫女の追及を躱した。