番外編 アズラの子作り教室 前編
リュザールは弓矢を背負い、馬と共に草原を駆ける。
どんよりとした灰色の雲の流れは速い。
北から吹く草原の風は、冬の匂いを微かに感じる。
馬を止め、前をじっと見つめた。遠くに見える黒い点は、きっと野生動物だろう。
──さて、どのように狩るか。
風を読み、狩猟の作戦を考える。
黒い点に見えていたのは、鹿だった。まだ若い個体に見える。
鷲に風下から獲物を追うように命じ、リュザールが風上から仕留める。
いつもの作戦だ。
空を旋回していた鷲を指笛で吹いて呼び、鹿を追うように命じる。
リュザールは馬から降りて、岩まで駆ける。そして、その陰に隠れた。
弓を手に取り、矢を番える。
鹿はまだ、鷲に気づいていない。ゆっくりゆっくりと、草を食んでいる。
ひゅうと、音を立てて風が吹いた。今日は、特に冷える。
リュザールは妻アユの作ってくれた外套の合わせ部分を握り、寒さをしのいでいた。
そして、鷲の狩りが始まった。
ピイと高い声で鳴き、鹿に急接近する。
突然の鷲に驚いた鹿は、跳び上がって逃げた。
岩から少しだけ顔を出し、様子を確認する。
鹿が全力疾走する前に、仕留めたい。
十五米突……十米突……八米突……。
距離を目測する。
そして、絶対に外さない距離まで近づいた瞬間、リュザールは岩から出て矢を射った。
風のように飛んで行く矢は、見事鹿の額を貫いた。
止めだとばかりに、鷲が体当たりする。鹿はその場に転倒した。
リュザールはすぐさま鹿に接近し、心臓部分をナイフで一突き。瞬く間に、鹿は絶命した。
「まだ、一年経っていない若い雌だな」
夫婦二人暮らしなので、問題ないだろう。
鷲には褒美の肉を与え、空に放つ。
鹿を布で巻き、馬に載せた。
今日の狩りは終了。兎が三羽に、水鳥が一羽、鹿が一頭となかなかの成果だろう。
現在、ユルドゥスの秋営地では、冬を迎えるための保存食作りが行われている。
雪深い季節を迎えるため、食料を確保しなければならないのだ。
女達は朝な夕なとバタバタしていた。
一方、男達は狩猟に出かけ、肉の確保を行っている。
ユルドゥスの集落に戻る前に、近くの湖の畔で獲物の解体を行う。
まず、鹿の血抜きから。
鹿の足を縄で縛り、太い木の枝に吊るす。
「くっ!」
縄を引き、なんとか吊り下げることに成功した。
血抜きはこうして吊り下げて行うと、効率がいい。あまり大きな個体だと、吊り上げることは難しいが。
まずは穴を掘る。そこに、血を垂らすのだ。
頸動脈を切り、血を抜く。
鹿の血抜きを待つ間、兎と水鳥の解体を行う。
兎の毛皮は襟巻きにしたら暖かい。水鳥の羽根は、矢羽根に使える。
どの部位も、無駄にはしない。
ただ、野生動物の血だけは大地に返すようにしている。草原の民の掟だ。
集落のほうから、子ども達のきゃっきゃという楽しそうな声が聞こえた。
驚くほど平和だ。
秋営地に選ぶ土地は水が豊富で、雪が降り始める時期も遅い。
ここでしっかり食料を確保し、冬営地へと向かうのだ。
鹿の解体を終えたリュザールは、家に帰る。
◇◇◇
アユの姿はすぐに発見できた。
肩までの赤髪を揺らし、せっせと働いている。
精霊の力を使うために捧げたため、長く美しかった髪を失ってしまったのだ。
しかし、髪が短いアユもいい。綺麗だ。とても、似合っている。
ここで、アユがリュザールの帰ってきたことに気づいた。
淡く微笑み、手を振ってくれた。可愛すぎるアユの仕草に、リュザールの頬は緩む。
アユは家屋の前で、無花果の砂糖煮込みを作っていた。ぐつぐつ煮込まれ、甘い香りを漂わせている。
鍋をかき混ぜるのは、リュザールの二番目の兄の子どもエリンだ。
最近、アユに弟子入り志願し、料理を習っているのだ。
「おう、エリン。兎獲ってきたから、持ってけ」
「ありがとう」
料理に夢中のようで、リュザールが差し出した兎に見向きもしない。
代わりにアユが受け取って、エリンの鞄の近くに置いておく。
「アユ姉さん、私、鍋を見ておくから、中でリュザール兄さんと休憩してもいいよ」
「エリン、ありがとう」
「すまんな、エリン」
お言葉に甘え、中で休ませてもらう。
「リュザール、お疲れ様」
「おう」
少々返り血を浴びたので、アユが差し出してくれた服に着替える。
その間、アユは砂糖たっぷりの珈琲を淹れてくれた。
ぬるくなったのを確認し、珈琲を飲む。ホッとする瞬間だ。
しかし、のんびりしている場合ではない。このあと、母アズラに呼び出されているのだ。
「そういや、仕事が終わったら、母上が来いって」
「何か、話があるの?」
「まあ……そうだな」
リュザールはアズラに頼んでいたのだ。どうやったら子どもが産まれるのか教えてほしい、と。
アズラはきちんと教えていなかったハルトスの者に憤り、もちろん任せてくれと胸を拳で打っていたのだ。
しかし、想定外だったのは、リュザールも来いと言われたことだ。
子作りについては、父メーレからしっかり習った。間違いがあってはいけないので、成人を迎える前に教えてもらうのだ。
自分はいいと遠慮したが、メーレの教えだけでは不安だからと参加を強制された。
「悪い話?」
「いいや、悪い話ではない。来年の夏、本当の夫婦になるための心得を聞くだけだ」
「そう」
アユはホッとした表情を見せていたが──リュザールはまったくホッとできない。
来年の夏まで、目には見えない精霊との結婚生活をアユと送らなければならないのだ。
果たして、我慢できるのか。
いくら考えても、答えは浮かんでこない。