最終話
リュザールはアユの手を引き、走った。
あとから、動物達も続いて来る。
街を抜け、温泉地を通り過ぎ、草原に出てきた。
ハルトスの者達は追ってきていなかった。
誰も、リュザールとアユのことを気にしていない。
ようやく、終わったのだ。もう、アユを狙う親族はいない。
アユの心にポタリと黒いシミを落とすように巣食っていた実家との因果は──なくなったように見える。
穏やかな風が吹いている。
それはまるで、風の精霊が夫婦を祝福しているかのようだった。
「よかった……本当に、よかった」
リュザールは穏やかな声で、噛みしめるように繰り返した。
生きていたことへの喜びを、抱擁で表す。アユは震える腕を、リュザールの背中に回した。
一人で、怖かっただろう。けれど、なんとか乗り越えてくれた。
感謝の言葉しかない。根性のすわった、ユルドゥスの女だと思った。
アユの頬に触れ、口付けを落とす。
そっと触れるだけの、軽いものだった。
しかし、アユはみるみるうちに、真っ赤になっていく。
その様子を愛おしく思いながら、リュザールは言った。
「アユ、俺はお前を、この先も必ず守──……」
想いは、言葉にできない。
リュザールはアユの肩を押し、口もとを押さえながら一歩、二歩と後ずさる。
喉からこみあげるものを我慢できず、咳と共に吐き出した。
真っ赤なものが、口から溢れてくる。
刹那、草原の景色がぐらりと歪んだ。目の前が、真っ暗になる。
そのあとの、記憶はない。
◇◇◇
リュザールとアユの初めての口付けは、瞬きをする間に終わった。
軽く触れ合うだけのものだった。
それでも、アユにとっては大事件である。
茹だったように顔が熱くなり、目がぐるぐると回りそうだった。
けれど、イヤではない。幸せだと、心から思った。
しかし、満たされた時間は長くは続かない。
アユは信じがたい光景を目にする。リュザールが吐血し、倒れてしまった。
「リュザール!?」
リュザールは腹部を押さえ、息を荒くしている。
先ほどから、拳を握って腹を押さえていることが気になっていたのだ。
切り付けた手のひらの痛みに耐えているのかと思ったが──。
アユはリュザールの上着を捲る。
腹部が、青黒く染まっていた。おそらく、アユの兄か叔父に強く蹴られたのだろう。
「リュザール! リュザール!」
いくら呼んでも、応えてくれない。
「ど、どうすれば……どうすれば……!」
ここで、リュザールの黒馬がリュザールの体を横にする。
「あ、そ、そうだ」
血が喉に溜まって、呼吸困難になる可能性がある。仰向けのままでは危険だった。
「それから、それから、どう……どうすれば……いいの?」
街にいる医者を呼んでくればいいのか。しかし、腰が抜けていて、動けない。
こんな時に限って、力がまったく入らなかったのだ。
リュザールはアユを強い女だと言った。
しかしそれは、リュザールがいるから強くなれたのだ。
彼が気を失った今、頭の中が真っ白になってしまう。
「私は、ど、どうして、こんな時に……情けない……」
アユは思わず天を仰ぐ。
「誰か……リュザールを、助けて!」
ここで、ジャンが遠くを眺め「ヒーハー!」と鳴いた。
ジャンの視線の先にあったのは、一騎の馬である。
騎乗しているのは──リュザールの三番目の兄イミカンだった。
彼一人だけではない。後ろには同乗者がいる。
「お~~い、アユさ~~ん!」
アユはぽたぽたと大粒の涙を流す。
ああ、よかったと、呟いた。
イミカンが連れていたのは、ユルドゥスに滞在している医者だった。
◇◇◇
それから、リュザールは一ヵ月もの間、温泉観光地で療養する。
腹部の怪我は重傷で、絶対安静だった。
しかし、イミカンが連れてきていた医者のおかげで、事なきを得たのだ。
どうして、タイミングよく現れたのか。
その理由をイミカンは「温泉に入りたかったからさ~」なんて、ゆるく答える。
リュザールとアユは、その言葉に疑いの目を向けていた。
「なあ、三兄はいったい何者なんだ?」
「リュザール、私は私だよ」
「でも、今回のことも、伝書鳥のことだって、偶然にしてはできすぎている」
「それでも、偶然なんだ」
そう言い切るイミカンは、妙な説得力があった。
リュザールはそれ以上追及せず、偶然イミカンが医者を連れてやってきたのだと思うようにした。
イミカンはリュザールの傍にいながら、だらだらと過ごしている。
いつもの、リュザールの三兄だったのだ。
季節は夏から秋へと移り変わる。
族長メーレが率いるユルドゥスの集落は、夏営地から秋営地へと移動した。
そこでは、冬支度が行われている。
女達は毛刈りした羊毛を紡ぎ、フェルトを作って服を造ったり、絨毯を織っていたりした。
秋営地に合流したリュザールとアユは、冬に備えてせっせと働く。
リュザールはすっかり健康な体を取り戻している。しかし、アユは過保護になってしまった。今日も、隊商の護衛に出かけるリュザールが風邪を引くかもしれないからと、兎の毛皮が内張りされた外套を用意してくれた。
リュザールはアユの過保護を、心地よく受けている。
「じゃあアユ、ちょっくら行ってくる」
「気を付けて」
リュザールはアユの肩に手を添え、そっと口付けした。
アユの瞳がとろんとなり、じっとリュザールを見上げる様子は悶えるほど可憐だ。
このまま一緒に連れて行きたくなる。
しかし、冬支度を行う女達は忙しい。共にいることは許されないのだ。
名残惜しいが、愛らしい妻から離れ、ユルドゥスの秋営地を発つ。
草原は朝陽を浴びて、黄金色に染まっていた。
これから、雪で覆われて真っ白になるだろう。一年の中で、もっとも辛い季節が訪れる。
しかしそれも、アユと一緒ならば乗り越えることができるだろう。
彼女と築く暮らしは、幸せに満ち溢れている。
これからも、それは変わることはない。リュザールはそう信じていた。
草原の民の暮らしは続く。
いつまでも、いつまでも。
最終話 『遊牧少女を花嫁に、調停者の青年は幸せに暮らす』 ―完―
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
乾いた草原の物語を最後までお届けでき、今は達成感で満たされております。
ちなみに、イミカンはトルコの言葉で「可能性」を意味します。彼については、また後日お届けします。
少しだけ休ませていただき、番外編をお届けできたらなと思っております。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
そして、今月下旬である10月26日に『遊牧少女を花嫁に』の1巻がPASH!ブックス様から発売されることになりました。
睦月ムンク先生に、素敵なイラストを描いていただいております。
今回、PASH!ブックス様の許可をいただき、表紙イラストを公開させていただきます。
ちなみに、裏表紙は楽器を弾くイミカンです。圧倒的イケメンです。
ご期待ください。
こちらも合わせて、よろしくお願いいたします。m(__)m