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1
「不味い」
渡されたコーヒーを一口飲んで、海野藍子は吐き捨てるように呟いた。
藍子と同じ薬学部に在籍している井沢智樹は、そんな藍子の反応に苦笑いを浮かべてみせる。
「藍子さーん。学食のコーヒーに期待しちゃダメだって。そりゃ、藍子さんは喫茶店でバイトしてるから、コーヒーの味にうるさいのかも知れないけどさ」
智樹はそう言ったが、喫茶店でバイトをしているからといって、コーヒーの味にうるさいわけではない。ただ単に、ぬるいから不味いと言ったのだ。藍子の好みは熱いコーヒーである。まあ、奢ってもらっておいて、礼より先に言うせりふではないか。そう思ったが、藍子は口にださなかった。
前に落ちかかってきた長い黒髪を後ろへはらうと、智樹を睨む。
「ところで、何であんたがここにいる訳? 私、人と待ち合わせしてるって、さっき言ったわよね」
「聞いたけど?」
にこにこと笑いながら智樹が首を傾げた。それが何か? とでも言いたげだ。
智樹とはこの大学に入学してからの腐れ縁だ。智樹と一緒にいると、どうも調子が狂う。
藍子はイライラしてきた。テーブルを人差し指で叩きながら、口を開く。
「聞いたけど? じゃないわよ。聞いてたら普通、どっか行くでしょ。あんたには遠慮ってもんがないわよね。前から思ってたけど」
わざと冷たい表情を作って言ってやったが、智樹は悪びれた風もなく、笑顔を崩す事もなかった。
「あはは。藍子さんって怒った表情も綺麗だよね。僕好きだなー」
「ふざけないで!」
我慢の限界。藍子はテーブルを思い切り叩いた。振動でテーブルが揺れる。テーブルの上に置いていた紙コップは、幸いにも倒れなかった。
一瞬驚きの表情をした智樹だったが、ふと何かに気づいたように、眼鏡の奥の瞳を見開き、次いで指で藍子の後ろを示した。
勢いで怒った表情をしたまま振り向いた藍子の目に、女性の姿が映る。
大きな瞳に小作りの鼻。ふくよかな唇。それらが全て、絶妙なバランスで配置された顔。肩まで伸びた茶色の髪が、彼女の優しげな雰囲気をよりいっそうひきたてている。
しばらく驚いた顔で、藍子を見つめていた女性は、その優しげな容貌を裏切る事のない、可愛らしい声音で藍子に話しかけた。
「藍ちゃん。何を怒ってるの? 怖い顔して。せっかくの美人が台無しよ」
「……月乃」
藍子は女性の名を呼んだ。
女性、柴崎月乃はこの大学の医学部に在籍している。藍子とは小学生の頃からの付き合いだ。
藍子が表情を和らげると、それに安心したのか、月乃は微笑んだ。その後、藍子の背後で、席についている智樹を見つけて声をかける。
「あら? えーっと、井内さんだったかしら? こんにちは」
「こんにちは月乃さん。でも、井内じゃなくて、井沢です」
「あら。それはどうも失礼しました、井沢さん。ねえ、藍ちゃん。井沢さんと密会中だったの?」
月乃の問いに、藍子は溜息をついた。何だか妙に疲れた気分だ。
「月乃。密会って……。あのねぇ。密会っていうのは、ひそかに会うことを言うの。この人の多い学食の中で、どうやって密会できるっていうのよ。まったく、妙なこと言わないでよね」
藍子がそう言うと、なぜか月乃と智樹は顔を見合わせた。
「藍ちゃんって、理系のくせにそういうところ妙にこまかいわよね」
「そうそう。妙にこまかいよね」
月乃に同意する智樹の頬を、藍子は無言でつまみ上げた。
「イテテテー」
痛そうに顔をゆがめる智樹を見て、少しだけすっきりした藍子は、智樹の頬をつまんでいた指を離す。
藍子の指から開放された智樹は、少し涙目になりながら、眼鏡の奥から恨めしげに藍子を見た。
「暴力反対」
そう訴えた智樹に、藍子は月乃に席へつくよう促してから言った。
「目には目を。歯には歯を」
「藍ちゃん。それ違うと思う」
藍子の隣の席についた月乃は、律儀につっこんだ。
「あはははは」
月乃のつっこみに笑い声を上げた智樹の足を、藍子は思い切り踏みつけた。
「痛てっ」
痛みに驚いて足を上げた智樹は、膝をテーブルに強打した。辺りに大きな音が響く。何事かと近くにいた者たちが智樹を見る。いい気味だと、藍子は思った。
膝を抱えて呻いている智樹に、月乃が声をかける。
「大丈夫ですか? 井内さん」
「い、井沢です。月乃さん。大丈夫です」
「ふんっ。日ごろの行いが悪いからそういうことになるのよ。ほら、さっさとどっか行きなさいよね。月乃と話しがあるんだから」
追い立てるように藍子は智樹に向かって、しっしっと手を振る。
「藍ちゃん。それは可哀相よ。私はいう……じゃない、井沢さんがいても構わないわよ」
「ほらー、月乃さんは良いって言ってるよ、藍子さん。それに、次の実習また一緒だし、一緒に実験室行こうよ」
「けっ」
藍子は不満げに吐き捨てた。だが、内心少しほっとしていた。
最近、月乃と二人きりになることが怖いのだ。自分の心の奥にしまいこんだ思いが、ばれてしまうような気がして。
絶対にばれてはいけない思いを封印したまま、月乃のそばにいることが、少し苦痛なのだ。
「……で? 今日はどうしたの? 私に話しがあるって言ってたわよね」
藍子は月乃に話を向けた。
昨夜、月乃から電話がかかってきたのだ。話したいことがあるから、明日学食で待ち合わせしましょうと。
最近、互いに学業が忙しく、同じ大学内にいても、顔をあわせる事はめったになかった。
否、それは建前だ。
確かに学業は忙しかったが、会おうと思えば、今日のように会うことは出来た。
藍子は避けていたのだ。月乃のことを。それが月乃にばれたのかと思い、内心ひどく焦って、昨夜は余り眠れなかった。
月乃は表情を正して、藍子を見る。藍子はじっと月乃を見つめた。
「実は、これ、かおる君に渡して欲しいの」
そう言って、月乃は持っていた鞄から何かを取り出す。それは月乃に不似合いの、青いハンカチだった。男物だろう。そのハンカチは綺麗にアイロンがかけられていた。
月乃に差し出され、藍子は無意識にハンカチを受け取った。
「これを、かおるに? って、私が渡さなくても、月乃が直接渡せば良いじゃない。かおると付き合ってるのは月乃なんだから」
藍子は月乃の目を見ることが出来ず、ハンカチに目を落としたままそう口にだした。
「それが、無理なの。しばらく実習で忙しくて、いつデートできるか分からないから。この間汚したハンカチ、洗ったから返すって、かおる君に伝えてね。今日、バイト先で会うでしょう? かおる君と」
月乃がそこまで言った時、智樹が手を上げた。
「はい、質問」
「何ですか? いう……じゃない、井沢さん」
「……月乃さん。早く名前覚えてくださいね。えっと、話を戻すけど、かおる君って一体誰? 可愛い名前だけど、男性だよね」
智樹の問いに、月乃と藍子は顔を見合わせた。
「ああ、知らなかったっけ? 私とかおると月乃は幼馴染なの。そして、かおるは月乃の彼氏でもあるって訳」
「ええ! やっぱり月乃さん、彼氏いたんですか。残念だなぁ。非常に残念だ」
「あんたが残念がる意味が分からないわ」
「あら? 井沢さんは、藍ちゃんが好きなんですよね」
無垢な笑顔で、月乃は智樹に問う。智樹はわざとらしく胸を押さえるマネをした。
「ストレートですね。結構きましたよ。今の攻撃」
「え? 私は何もしてないわよね。藍ちゃん」
「月乃。こんなバカに付き合う事ないから。だから言ったでしょう。さっさとどっか行ってもらえばよかったのよ」
藍子が半眼で智樹を睨んでみせると、智樹は苦笑いを浮かべた。
「もう、藍子さんはきっついよなー。そう言うところも好きだけど」
眼鏡の奥の瞳を細めて笑う智樹は、それなりに整った顔立ちをしている。実際智樹はもてるのだ。だが、そんな事、藍子には関係なかった。
「そう言う発言するから、誤解を招くのよ。この間も、井沢さんと付き合ってるって本当ですかって、後輩に聞かれたんだから。こっちはいい迷惑だっていうの」
藍子の発言に、月乃は不思議そうな顔になる。
「何が誤解なの?」
月乃が尋ねると、藍子は月乃に向き直り、口を開いた。
「いい、月乃。あんたには、かおるがいるから大丈夫だと思うけど。こいつはただの変人だから。どういう訳か、私の顔が気に入ったってだけで、ずうっと付きまとってるのよ。こいつは私に恋愛感情なんて全くもってやしないんだから。こいつにとっては、顔が好みか好みじゃないかが重要ってだけなの」
そう言って、また睨んでやったら、智樹は相変わらず笑顔で反論をよこした。
「失敬だな。顔だけじゃないよ。性格も気に入っているよ。でも、月乃さんの顔も好きだなぁ、僕は。月乃さんは藍子さんと違って誰にでも優しいし、医学部のマドンナだからね。こうやって、お二人の姿を正面から拝見できる僕は幸せモノであります」
智樹の発言に、藍子と月乃は顔を見合わせた。しばらく無言だと、周りの音が大きく聞えてくるような気がするから不思議だ。
藍子は月乃から、智樹に視線を戻し、言った。
「キモっ」
「藍ちゃんそれは可哀相よ。せめて、気持ち悪いってちゃんと言ってあげなきゃ」
月乃は慌てたように、藍子の肩に手を置いた。智樹は眼鏡を指で押し上げて、口を開く。
「月乃さん。どちらにしろ意味は一緒だから」
むしろ、月乃の方が酷くないか? と思う藍子だった。
何となく気まずい雰囲気に陥ってしまった。藍子は話を逸らすべく、一口飲んだまま放置していたコーヒーを手に取った。
「はい、月乃。コレあげるわ。コイツに奢ってもらったんだけど、私ぬるいの苦手なのよね。月乃、猫舌だから飲めるでしょ」
月乃に紙コップを差し出すと、月乃は嬉しそうに紙コップを手に取った。
「あ、いいの? ありがとう。実は喉渇いてたの」
「お金出したのは、コイツだから」
そう言って、智樹を指差した。智樹は胸を張る。本当にバカだと藍子は思った。
「そういえば、月乃。あんたちゃんと薬飲んでるの? お昼食べてないなら、さっさと食事して薬飲まなきゃ」
ふと、思いついて藍子は言った。月乃は、口につけていた紙コップを下して、藍子を見る。
「心配性だなぁ、藍ちゃんは。食事はしたし、薬もちゃんと飲んだから」
「本当に?」
「本当に」
二人の会話をじっと聞いていた智樹が、またもや手を上げて二人の注意をひいた。
「はい、質問」
「今度は何よ」
間髪入れずに藍子が問う。智樹は藍子と月乃を見比べる。
「えっと。薬って何のこと? 月乃さん。風邪かなんか引いてるの?」
智樹の問いに、またも二人は顔を見合わせた。二人の顔が曇る。
月乃は、淡く微笑んでから、口を開いた。
「私、小さい時から病気にかかっていて、毎日薬を飲まなきゃならないのよ。あ、でも安心して。人に感染するものではないから」
智樹は、月乃の話を聞きながら、なんともいえない顔を作る。そんな顔するなら、はじめから聞かなければよいのに。
「ゴメン、月乃。私達そろそろ行かないと。コレ、ちゃんとかおるに渡しておくから」
月乃にハンカチを示して、藍子は立ち上がった。ほら、さっさと行くわよと、藍子は智樹の頭を叩く。
「痛い、藍子さんは本当に乱暴なんだから」
文句を言う智樹を、藍子は急き立てる。
「あ、頑張ってね。藍ちゃん、いうっ、じゃなかった。井沢さんも」
藍子と智樹は月乃に見送られ、食堂を後にした。
月乃と手を振って別れた後。実験室へ向かうために、藍子と智樹は並んで行き交う人の少ない廊下を歩いていた。
しばらく無言で歩いていたが、智樹が藍子に呼びかけた。
「あの、藍子さん」
「何よ」
藍子の声は冷たい。だが、それはいつものことなので、智樹は続けた。
「月乃さんの病気って、治らないものなの?」
「……」
「ねえ、藍子さ……」
返事をしない藍子にもう一度呼びかけたとき、藍子は不意に立ち止まった。二、三歩先まで進んで、智樹も立ち止まる。
藍子は溜息をついて口を開いた。
「さっき、本人に聞けばよかったじゃない」
そう言って恨めしげに智樹を見る。智樹も溜息をついた。
「よく言うよ。話しを途中で遮ったの、藍子さんじゃないか」
智樹が言うと、藍子は智樹から目を逸らした。
「まあ、いいか。月乃別に隠してないし」
「じゃあ、教えてよ」
智樹がそう言ったのを機に、二人はまた歩き出した。
「あの子の病気は、スポットシンドロームっていうの」
藍子が言うと、智樹は眉を寄せた。
「スポット、何?」
「スポットシンドローム。まあ、あれよ。スポットっていうのは痣の意味ね。月乃の身体は、突然痣が浮きでるの。痣だけじゃなくて、突然発疹がでたり、かぶれたり」
「なんだ。アレルギーみたいなものか。別に、余命が少ないような病気じゃないんだね」
智樹の言葉に、藍子は顔を顰めた。立ち止まり、智樹を睨む。
「なんだって、何よ。発作が起きたら、それは苦しむのよ。痣が浮き出るとき、かなり痛い思いするんだから。その痛みで死んでしまう人だっているのに。それをなんだって何よ」
藍子は悲痛な表情を浮かべていた。智樹は驚いて藍子を見つめる。
「月乃が苦しんでいる姿を見たこともないくせに。簡単に言わないで」
藍子の大きな声が廊下に響き渡る。
「ごめん、藍子さん。僕が悪かった、軽率だったよ。謝るから落ち着いて」
智樹は大声を上げた藍子の両肩に手を置いて、藍子をなだめる。藍子は智樹から視線を外し、下を向いてしまった。
近くを歩いていた人が驚いてこちらを見ている。それに何でもないと言うようにジェスチャーし、智樹は藍子を見下ろした。
藍子が俯けていた顔を上げる。いつもの勝気な藍子の顔に戻っていた。藍子は、肩に乗っていた智樹の腕を払いのける。
「勝手に触るなんて十年早いわよ」
そう言って藍子は踵を返した。智樹は藍子の背に慌てて声をかける。
「ちょっと、藍子さん。そっちは実験室とは逆方向」
「やめた」
「は?」
聞き返した智樹を振り返りもせず、藍子は言う。
「行くのやめた。貧血で倒れましたって、教授に言っといて」
藍子はそれだけ言うと、後ろで藍子を呼ぶ智樹の声を無視して歩き続ける。
智樹は、藍子を追っては来なかった。
大学を後にして、藍子はようやく立ち止まる。
智樹のせいで嫌な事を思い出してしまった。
ただでさえ、気分が沈んでいる時に、これはたまらなかった。
藍子は思い出してしまった映像を、頭を振って追い払おうとした。
しかし、一度思い出した映像は、容易に消せるものではなかった。
2
小学四年生の、夏の夜。
藍子とかおると月乃は、小さな冒険へくりだした。
近所にある高台の公園に、三人で出かける。そんな簡単なこと。だが、小学生の三人にとっては、夜、親に内緒で家を抜け出すだけでも、それは立派に冒険心をくすぐるものだった。
街を見下ろす位置にある公園は、夜景も綺麗で、近所ではデートスポットとしても有名だ。しかし、藍子たちの目的は夜景ではなく、星空だった。月乃が星好きで、一度、ここから夜空を見てみたいと言ったのだ。
それならばと、藍子とかおるが計画を立て、冒険を決行したのである。
その日はとても澄んだ夜空で、たくさんの星が瞬いていたのを、今でもはっきりと憶えている。三人はカップルのいないベンチを見つけてそこに腰を下した。眼下には夜景が広がっている。だが、それよりも藍子は夜空に瞬く星の方が綺麗だと思った。
『ちょろいよな』
うーんと伸びをして、三人の中で唯一の男の子である渡邊かおるが言った。
『ちょろいって?』
月乃は、かおるが言った言葉の意味が、分からないようだった。月乃に見つめられ、かおるは困った顔をした。短い髪を乱すように頭をかく。
『え? えーと、あれだよ。なぁ、藍子。なんて言ったらいい?』
『簡単だってことでしょ』
話しを振られ、藍子は夜空から、友人二人へと視線を戻した。
月乃はひどく真面目な顔で、なるほどと手を打った。
それがなんだか可笑しくて、藍子とかおるは顔を見合わせて笑う。なぜ笑われているのか分からない顔をしていた月乃も、つられて笑い出した。
笑いがおさまった後、三人はそろって顔を上に向ける。
たくさんの星が目に映る。
大好きな友達と並んで見る星空は、それは美しく、藍子の頭に残っている。
このまま綺麗な思い出で、終わってくれればよかったのに。
藍子はいつもそう思う。
この後に起こった出来事は、藍子にとって目を逸らしたい物でしかなかったから。
アルバイト先の喫茶店へ向かう途中、藍子は道の端でうずくまっていた。智樹のせいで、色々と昔のことを思い出し、少し気分が悪くなったのだ。
つい、へらへらと笑う智樹の顔を思い浮かべて、藍子は急に苛立ちを覚えた。
「あれ? 藍子。おまえこんな所で何やってんの」
聞きなれた声が、藍子に呼びかけた。藍子はしゃがみ込んだまま、ゆっくりと振り向く。
「……かおる」
そこには、藍子の思っていた通りの人物がいた。
藍子と月乃の幼馴染、渡邊かおるだ。百八十を越える長身。引き締まった体躯。かおるは、青いシャツとジーパンという、ラフな格好でその身を包んでいる。
なぜこんな所にかおるがいるのだろう。この時間はもうバイトをしているはずだ。そう思ったときに、気づいた。かおるの手には買い物袋が提げられている。大方、買出しの帰りなのだろう。
「おまえ、死にかけた酔っ払いみたいな顔してるぞ」
近くに寄って来たかおるは、藍子の顔を覗きこんだ。藍子はかおるの足に、パンチをお見舞いする。口で反論する元気がなかったのだ。
「痛ってーな。凶暴女」
「……ぎゃあぎゃあ喚かないでよ。かおるちゃん」
藍子はわざと、ちゃんを強調して言う。かおるが、自分の名前にコンプレックスがあることを知っているから、わざとそう言ったのだ。
「ちゃん言うなっていつも言ってんだろう。藍子。ほら、手ぇ出せよ。いつまでもそんな所に座り込んでたら、通行の邪魔だから」
差し出された大きな手を、藍子は躊躇いながら取る。強い力で手が引っ張られたかと思うと、いつの間にか立ち上がっていた。
「……どうも」
藍子はかおるの顔を見ずに、礼を言う。
かおるは端整な顔に、仏頂面をつくった。
「可愛くねぇの」
「悪かったわね。どうせあなたの大事な月乃より、可愛くなんてなれませんよーだ」
そう言って、今だかおるに握られていた手を引き抜く。かおるが眉を寄せた。
「誰もそんなこと言ってねぇだろ。バーカ」
「バカって言ったほうが、バカ」
「何だよ。バカ」
「うっさいバカ」
二人は歩きながら、互いを罵り合う。これが昔からの、藍子とかおるの付き合い方だった。
結局、二人の言い争いはバイト先の喫茶店まで続いた。
三階建ての雑居ビルに、その喫茶店はある。
『喫茶コキア』という名前の喫茶店が、二人のアルバイト先だった。
二人は裏口から中に入る。藍子は長い髪を後ろで一つに結わえ、制服に着替えると、狭い厨房に入った。
「おはようございます。マスター」
たまたま厨房に顔を出していたのだろう。大抵、店内のカウンターにいるマスターが、厨房にいた。
「おはよう。海野さん。今日暇だよー」
笑いながら、笑えないことをマスターが言う。相変わらず能天気な人だ。
いつも笑ったような細い目をしたマスターと藍子は、高校生の頃からの付き合いだ。
最初は客と店員として知り合い、後にバイトと雇い主という関係になった。
「今日はアキさんいないんですか?」
アキさんとは、藍子よりも年下の、マスターの新妻で、たまにこの店で手伝いをしている。今日は姿が見当たらない。もしかしたら店の方へ出ているのかもしれないが、そんな気配もなさそうだ。
「うん。今日は検診があるからお休み」
マスターは細い目をさらに細めて幸せそうな顔をする。マスターの若い新妻は、現在妊娠中だ。
「おい、藍子。くっちゃべってないで、早く店内行けよ。客が帰るぞ。椅子の音がした」
かおるが、食器を洗いながら藍子に声をかける。水を流しながら、よく椅子の音を聞き取れるものだ。地獄耳だと、藍子は呆れた。
「分かってますよーだ」
藍子は、見ていないのを承知で、かおるに向かって舌を出す。
藍子は踵を返して店内へ向かう。一度溜息をついてから、ぐっと腹に力を入れる。
これから仕事だ。接客は笑顔が大事。そう自分に言い聞かせる。そして、藍子はレジの前に立つ客に向かって、営業スマイルを浮かべた。
3
「お疲れさんっしたー」
「お疲れ様です」
閉店作業を終えたあと、藍子はかおるとそろって、店を出た。
藍子とかおるの家は近い。近すぎると言ってもいい。かおるの家は藍子の家の向かいにあった。
そのせいで、一緒に帰りたくなくても、一緒に帰るしかなくなるのだ。
藍子は、今日何度目か分からない溜息をつく。
「はーあ」
「でっかい溜息だな。幸せ逃げるぞ。今のうちに吸っとけよ」
「はあ? 吸うって何よ」
「よく言うだろ。溜息つくと幸せが逃げるから、すぐに出てった幸せを吸い込めって。そうすりゃ、出てった幸せがまた元に戻るってさ」
「言わないわよ。っていうか初めて聞いた。そんなの」
藍子は街灯のおかげで、夜道でも良く見えるかおるの顔を見上げた。
かおるは笑顔だ。
「何笑ってんのよ」
藍子はなぜか急に恥ずかしくなって、かおるから、視線を外した。
「いやー、最近まともにお前と話してなかったからさ。なんか、まあ、ぶっちゃけ嬉しいっつうかさ」
「何よそれ」
藍子は照れて赤くなった顔を見せまいと、視線だけでなく、顔をかおるから背けた。
なぜそんな事を言い出すのだ。確かに最近、藍子はかおるのことも避けていた。月乃と同様に。バイトのシフトも出来るだけ、かおると被らないように調整していた。
それをもしかしたら、気づかれていたのかもしれない。
「最近、お前忙しいのか知んないけど、全然家にも顔ださねぇしさ。月乃も言ってたぜ。最近藍ちゃんが遊んでくんねぇって」
かおるの口から月乃の名が出た時、藍子は高調していた気分が一気に冷めていくのを感じた。
そして、ふと忘れていたことを思い出す。
「あ、そうよ。月乃。月乃からハンカチ預かってたのよ。すっかり忘れてたわ」
そう言って藍子は鞄の中から、青いハンカチを取り出す。そして、それをかおるに手渡した。
「ああ、コレ。別に返さなくてもいいって言ったのに」
「そんなの、月乃に直接言ってよ。私を介さないで」
藍子はかおるの口から、月乃の名が出るたびに、自分の心に暗く嫌な感情が生まれるのを感じる。
嫌だ。ダメだ。こんな感情。捨ててしまわなければ。
「だって、なかなか会わねぇもん」
「電話があるじゃない」
「あいつ、実習の時ケータイの電源切ってるし。この間しばらく忙しいからゴメンとか言われたし」
やめて、これ以上月乃の話しをしないで。藍子は、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「一ヶ月前から付き合いだしたカップルとは思えない、冷めた状況ね」
心の中は大荒れなのに、藍子の口から出た言葉は、静かだった。
「ああ、まあな」
しばらく、沈黙が続いた。黙々と二人して家路を急ぐように歩く。
ふと、横を歩いていたはずの気配がなくなったことに、藍子は気づいた。立ち止まって、後ろを振り返る。かおるは五歩分ほど後ろに立っていた。街灯の下。何か思いつめた表情で、口を開く。
「なあ、藍子。俺……本当は」
「言わないで。言わなくていい。私達は、月乃を守るって決めたの。誓ったでしょ、あの日」
藍子はかおるの言葉を遮った。藍子は下を向いていた。そのため、かおるの表情は分からない。だが、聞きたくない言葉を、かおるが言おうとしていたことは分かる。だから遮った。
「声がでけーよ。バカ」
囁くような、かおるの声。
かおるが近づいて来る気配がする。
「バカって言った方がバカよ。バカ」
藍子も同じように、小さな声で言った。
「いや、俺はお前の方がバカだと思うな」
その声に顔を上げて、藍子はかおるを睨んだ。
「うるさい」
そう言って、隣に並んだかおるの背を平手で叩く。結構いい音がした。
「痛いな。凶暴女」
「私に優しさを求めないでくれる。月乃が十分優しくしてくれるでしょう」
藍子はそう言うと、前を向いて歩きだした。いつもと同じ帰り道を、かおると二人で。
4
『私、かおる君のこと、好きなの』
今から一月前。満開の桜の下で、お花見をしていた時のことだった。
月乃が、突然かおるに告白したのだ。藍子の目の前で。楽しいはずの、三人のお花見の席で。
かおるは呆けた顔で月乃を見つめ、藍子は絶句したまま月乃を見た。
二人から注目された月乃は、いつもと変わらぬ優しげな笑みを浮かべたまま、二人を見返した。
『もう一回言うね。私、かおる君のこと好きなの。私と付き合ってほしいの。かおる君。返事、聞かせてくれる?』
先に我に返ったのは、藍子だった。藍子は呆けたままのかおるの足を叩いた。一度、藍子を睨んだかおるだったが、すぐに状況を思い出したのか、藍子に文句は言わなかった。
『あ、えっと、その。何だ。あの、と、突然過ぎてだ。その、ビックリして。答え。後でもいいか?』
かおるは本当に驚いていたのだろう。つっかえながら、そう口にだした。
藍子は、かおるがすぐに答えをださなかった事に、幾分安堵した。安堵してしまった自分が嫌だった。月乃がかおるを好きならば、絶対に応援しなければならないのに。
『ねぇ、月乃。あんた、本当にこんなのがいいわけ?』
それでも藍子は、月乃にそう聞いていた。そう聞いてしまっていた。嘘ならばいいと、冗談ならばいいのにと。微かな希望を胸に抱いて。だが、現実は違った。
『うん』
恥ずかしそうに、頷く月乃。藍子は目の前が暗くなったような錯覚に陥った。
『そう、良いんじゃない。うん。かおるなら、月乃の病気に理解あるし。かおるほど、月乃の彼氏にぴったりなのって、いないのかもしれない』
心とは裏腹に、口から勝手に言葉が飛び出す。そんなこと、本当は思ってもいないのに。
『本当? 藍ちゃん。本当にそう思う?』
嬉しげな月乃の、可愛らしい声。
頷かなければならない。月乃のために。月乃を守るって決めた、あの日の誓いを破らないために。
そう、自分に言い聞かせて。藍子は笑顔で、月乃に頷いてみせた。
藍子はわざとらしく眉間に皺を寄せた。バイト先で藍子がこういう表情をつくるのは珍しい。客もまばらな昼前の土曜日。目の前のカウンター席に座った客が、井沢智樹では、こういう表情をつくりたくもなるというものだ。
「……いらっしゃいませ。ご注文は?」
「チョコレートパフェ」
藍子は注文を復唱した後、厨房に注文の品を告げる。
今、マスターはいない。早めのお昼休憩に出ていた。今、店内には、かおると藍子のほかに、テーブル席に座る二人の客と、藍子の前に座る智樹しかいない。
「藍子さん。その制服似あってるね」
少しずれた眼鏡を元の位置に戻しながら、智樹はにやけた顔を藍子に向ける。
藍子は無視したい衝動に駆られながら、口を開いた。
「どうも」
「冷たいなー。僕と藍子さんの仲なのにー」
意味深な事を言うな。意味深なことを。しかも大声で。藍子はまた眉間に皺を刻んだ。
「お客様。変なことを言わないで下さい」
「嫌だなー。僕は変なことなんて言ってないよ。ところで藍子さん。あの人が噂のかおるさんかな?」
言われて藍子は振り返った。厨房からチョコレートパフェを持ったかおるが顔を覗かせている。
自分の名前を言われて少し驚いたような顔をして、かおるは厨房から出てきた。大きな身体が藍子と並ぶ。
「おお、大きいですね。身長何センチ?」
「百八十五ですけど……」
そう言いながら、チョコレートパフェを智樹の前に置く。かおるは訝しい表情を作って、藍子を見下ろした。
「藍子、こちらのお客様、知り合い?」
小声で聞くあたり、一応気を使っているらしい。そう思って、藍子も小声で返す。
「うん。同じ学部の同級生」
「ふーん」
どこか不機嫌そうに見えるのは、藍子の気のせいだろうか。かおるはチョコレートパフェを美味しそうに食べる眼鏡男を軽く見下ろした後、踵を返した。
「あ、ちょっと待って。えーと。かおるさん」
「はい?」
智樹の呼びかけに、かおるは振り向く。智樹は女性好きのする笑顔を、かおるに向けた。
「僕は、井沢智樹って言います。藍子さんとは公私共にお世話になっています」
智樹は座ったまま軽く頭を下げる。かおるも一応会釈を返すが、表情は先程よりもさらに不機嫌そうに見える。
「ただの友達だから」
別にしなくてもいい言い訳を、藍子はしてしまう。
智樹は、藍子の言葉に眉を顰める。
「やだなー藍子さん。そう強調しなくてもー。藍子さん達は恋人どうしでも何でもないんでしょう?」
智樹の問いに、藍子は智樹を殴りたい衝動に駆られる。それを思いとどまったのは、まだ客が他に二人いる事と、職場だという思いからだ。だが、拳は胸の前で握り締める。
不穏な空気を感じ取ったのか、智樹は厨房の入り口の前で立ち止まっていたかおるに、視線を移す。
「かおるさんって、月乃さんと付き合っているんでしょう? 一度お目にかかりたかったんだ」
場の空気を読まない男、井沢智樹。藍子の脳裏にそんな言葉が過ぎる。
「渡邊」
「へ?」
「俺の苗字。渡邊。かおるって呼ばれるの嫌いなんだよ。だから、名前呼ぶときは渡邊って呼んでくれる?」
かおるの言葉に、智樹は頷いた。
「分かった。失礼。渡邊さん」
智樹が謝罪すると、頷いてかおるは厨房へ入っていった。
「無口な人だねぇ。渡邊さん」
「そうでもないわよ。普段はどっちかっていうと、ひょうきんな方よ。あんた嫌われたんじゃない?」
藍子が言うと、智樹は情けない顔を作る。
「えー。僕はまたやってしまったのかな」
「そうみたいね」
藍子は智樹の言葉に同意を示す。智樹は同姓の友人が極端に少ないのだ。だからこうして、構ってくれる藍子のそばに近づきたがる。それを許してしまっている藍子も藍子だが。
「あ、そうそう。忘れるところだった」
「何よ」
藍子が問うと、智樹はにんまりと笑った。
「ダブルデートしようよ」
「はあ?」
藍子は思わず大声を上げてしまった。二人の客が驚いた様にこちらを見る。
藍子は申し訳ありませんと、二人の客に頭を下げた。
「あんたのせいで、大声出しちゃったじゃない。バカ」
「酷い、人のせいにするなんて。僕は大声を出して欲しいなんて、一言も言ってないよ」
藍子はカウンターに突っ伏したくなった。
「で、話しを戻すけど。僕と藍子さん。渡邊さんと、月乃さん。この四人でダブルデートしようよ」
嬉しそうに、親指だけ曲げて四を作る智樹に、藍子は小声で詰め寄る。
「ちょっと、月乃とかおるはいいわよ。カップルだから。でも、どうして私とあんたなのよ。冗談じゃないわ」
かおると月乃が仲睦まじく、寄り添う姿なんて見たくない。内心そういう思いで、智樹の提案を拒否した藍子だったが、次の智樹の一言で、反論できなくなった。
「月乃さんは了承済みだよ。久しぶりに日曜日は時間があるんだって。楽しみにしてるってさ、次の日曜日。川原公園へ遊びに行こう」
月乃が了承済み。それならば、藍子は行かないとは言えない。月乃が楽しみにしているなら、その楽しみを藍子が奪う訳にはいかないのだ。藍子は月乃を守らなければならないのだから。
5
日曜日。藍子はかおる、月乃、智樹と四人で、川原公園と呼ばれる場所へ来ていた。ちょっとした森の中にある公園だ。藍子の家から電車で二駅先にあるこの公園は、学校の遠足で何度も足を運んだことがある。藍子達にとっては、馴染みの場所だ。
公園といっても遊具があるわけではない。川原の近くに広場や遊歩道があるだけだ。夏になると、川遊びをする子どもや、広場でバーベキューをする人々などの姿が多く見受けられる。だが、五月の連休明けの日曜ともなると、人も少ない。
四人は川の近くで敷物を敷き、かおるが作ってきたお弁当を広げた。ごつごつとした石の上に敷物を敷いたので、座り心地はひどく悪い。
緩やかに吹き抜ける風が、緑と水の匂いを運んでくる。春の穏やかな日差しが降り注ぎ、とても気持ちがよい。
藍子の心とは裏腹に。
「わお。旨そう。これ全部、渡邊さんが作ったんだ」
重箱に入ったおかずやおにぎりを見て、智樹が感嘆の声を上げる。
かおるは戸惑ったように、頷いた。
「あ、まあ。そうだけど」
「かおる君はね。今年調理師免許を取るのよ。喫茶店で働いてるのもそのためなの。かおる君の料理は本当に美味しいのよ」
月乃が嬉しそうに、かおるを見ながら言った。智樹は眼鏡の奥の目を丸くしながら口を開く。
「へー。すごいな。すごいよ渡邊さん」
本気で褒めている智樹に、今までずっと不機嫌そうな顔をしていたかおるの顔が笑顔になる。
「そう褒めるなよ、井沢。おまえ結構良い奴じゃん。さ、眺めてないでさっさと食べようぜ。腹へった」
かおるの言葉を合図に、和やかな雰囲気で食事が始まる。
だが、藍子の胸中は複雑だった。笑顔で、振られた話には受け答えするが、頭が良く働かない。
ぼうっとしている間に、重箱の中身は殆ど空になっていた。
「あー食った、食った」
「かおる君ご馳走様でした」
月乃がかおるに声をかける。かおるがそれに笑顔で頷く。そんな姿を見ていられなくて、藍子は川へ視線を転じた。
ゆっくりとした流れの川は、さほど深くない。余り奥まで行かなければ、踝くらいの深さだろう。
藍子はそう思ったと同時に口を開いた。
「私、ちょっと川に入ってくるわ」
そう言って立ち上がった。この場にいたくなかった。月乃と、かおるを見ていたくなかったのだ。
「えー? 一人は危ないわよ。藍ちゃん」
「そうだよ。それに、まだ水は冷たいよ」
月乃と智樹がそう言うが、そんな事はどうだっていいのだ。この場から離れたいだけなのだから。
「大丈夫よ。足をちょっとつけるだけだから」
そう言って、藍子は三人に背を向ける。その背に声がかかった。
「待てよ藍子。俺も行く」
その声に藍子は振り向いた。かおるが立ち上がってこちらを見ている。
「あ、それが良いわ。かおる君、藍ちゃんのことお願いね」
「おう。まかせろ。月乃、ちゃんと薬飲んどけよ」
そう月乃に言い残して、かおるがこちらに向かってきた。
「何で来ちゃうのよ」
小声で藍子が言う。傍らを歩いていたかおるが、問い返す。
「え? 今なんか言った?」
「言った。何で来ちゃうかな。彼女置いて」
そう言うと、かおるが顔を顰めた。
「お前だって、彼氏置いてきてるじゃないか」
「あいつは彼氏じゃないって言ってるでしょう」
そう言って藍子は足を速めた。
藍子とかおるが靴を脱いで、川へ入っていく姿を眺めながら、月乃は笑顔を作った。
「楽しそう……」
思わず月乃はそう呟いた。最初、川に入って歩き回っていただけの、藍子とかおるだったが、いつの間にか、水の掛け合いをしている。
「楽しそう」
またそう呟いていた。
「そう思うなら、月乃さんも行けばいいのに」
ふいに隣から声が聞こえ、月乃は驚いた。そういえば、今日は彼もいたのだ。いつも三人で行動していたから、つい忘れそうになっていた。
月乃は智樹に向かって首を横に振り、視線を藍子たちがいる川へ向ける。
「いいの、私は。せっかく二人で楽しそうなんだもの。邪魔はしたくない」
視線の先では、藍子が業を煮やしたのか、かおるを突き飛ばした。かおるは尻餅をついている。
着替え持って来ていないのに、大丈夫だろうか。そう思っていると、また、横から声が聞こえた。
「何か、月乃さんたち三人って、妙な関係だよね」
その言葉に、月乃は智樹を見る。一体、何を言い出すのだろう。
智樹の顔に、いつもの笑顔が見られなかった。月乃は、なぜか緊張した。一体、どうしたというのだろう。
「妙って? それはどういう意味かしら」
月乃の問いに、やはり笑顔を見せず、智樹は言う。
「月乃さんは、本当に渡邊さんのこと好きなの?」
その問いに、月乃は目を見開いた。
「す、好きよ。当たり前じゃない。じゃなかったら、付き合ってなんかない」
「そうかな。だったら何で平気なの? 彼氏が、他の女の子とあんな風に楽しそうにしてるのを見て。何で平気なの」
そう言って、智樹は視線を川の方へ向ける。かおるが、藍子を引きずり倒そうと、腕を引っ張っている姿が月乃の目にも映る。藍子が踏ん張ってそれに耐えている。
「それは、だって、相手が藍ちゃんだから」
月乃は言いよどむ。智樹は間髪いれずに言った。
「その方がよっぽど変だよ。藍子さんなら得に心配じゃないか。幼馴染で、ずっと一緒にいたんだろう? あの二人は。自分から心変わりしないかって、彼女なら心配になるんじゃない普通」
「そんな心配、しないわよ」
「そうかな。少なくとも藍子さんは、どうみても、渡邊さんのこと好きだよ」
その言葉に、月乃は息を飲む。智樹は続けた。
「それに、渡邊さんも……」
「やめてよ」
月乃は声を上げた。大きな声は、川へ入っている二人にも届いたようだ。
だが、構いはしない。
「いい加減にして。あなたに、私の気持ちなんて分からないわ」
そう言って、月乃は立ち上がると、駆け出した。
遠く、藍子が自分を呼ぶ声が聞こえたが立ち止まらなかった。
二人にあわせる顔が無い。
月乃はそのまま、一人駅へ向かって走った。
「ちょっと、アンタ月乃に何言ったのよ」
藍子は智樹に詰め寄った。胸倉を掴んで揺さぶる。
「ちょ、ちょっと。藍子さん。待って」
「何が待ってよ。月乃何で怒ってたのよ。あの子が怒るのなんて、滅多にないんだから」
「月乃の奴。薬、飲んでないじゃないか」
かおるが、敷物の上に転がっている、白い粉薬の袋を見つけた。
「嘘……」
かおるの言葉に、藍子は智樹の胸倉を掴んでいた手を離して、かおるを見る。
「ほら」
そう言って、かおるが藍子の手に薬を乗せた。
その薬を握り締め、藍子はまた、智樹に視線を移した。
「どうしてくれるのよ。あんたが月乃を怒らせたせいで、月乃死んじゃうかも知れない。月乃が死んだらあんたのせいだから。どうしてくれるのよ」
泣きそうな声で、藍子は言う。智樹は、そんな藍子を見つめる。
「死ぬような病気じゃ、ないって……」
「発作が起きたら、それが大きな発作だったら。月乃は痛みに耐えかねて死ぬかも知れない。最初で言ったじゃない。死んでしまう人もいるって」
その言葉に、智樹は言葉を失くしたように口を閉ざした。そんな智樹に、なおもいいつのろうとした藍子の肩を、かおるが掴んだ。
「やめろ、藍子。こいつを責めるより、月乃を捜す方が先だ。行こう」
かおるが、藍子の手を掴む。引っ張られるように、藍子は走り出した。
走りながら、かおるが何かを思い出したように、振り返った。
「おい、井沢。おまえその辺のもの片付けて、ちゃんと持ってかえって来いよな」
そういうと、今度こそ前を向いてかおるは足の動きを速めた。
6
さんざん探し回ったが、月乃は公園の近くにいなかった。
一体どこへ行ったのだろう。
藍子は途方に暮れたように、溜息をついた。人の少ない電車の車内。振動に揺れる体。
イスに座った藍子の手は、隣に座るかおるの手と繋がっている。
あの時みたいだ。
藍子は、繋いだ手の感触に、昔の事を思い出した。
繋いだ手の温もり。
病院の待合室。
三人で初めて決行した冒険。
それがこんな事になるなんて。
藍子は泣いていた。
声を殺して泣いていた。
ここは病院だ。大声をだしてはいけない。今辛いのは、藍子ではなく、月乃なのだから。
そう思うが、涙は止まらなかった。
月乃は星を見ている最中、発作を起こした。
月乃がスポットシンドロームという名の病気だとは、聞いていた。だが、それがどんな病気なのか。藍子は分かっていなかったのだ。
突然苦しみだした月乃に、藍子はどうしていいか分からなくなった。
立っていられず倒れた月乃のそばにしゃがんで、月乃の名を呼ぶ。
かおるが、誰か呼んでくると言って走り出したのは分かったが、藍子はしばらく呆然としていた。
『痛いよ、藍ちゃん』
痛みに呻く中、月乃がか細い声で言った。
慌てて、藍子は月乃の手を取ろうとした。だが、その手が途中で止まる。
藍子は見てしまった。
月乃の首筋から、赤い発疹が顔へと広がっていくのを。
急に嫌悪感が藍子を襲った。
逃げ出したくなった。
『月乃……私も。私も、誰か呼んでくるから』
そう言って藍子は走り出した。
怖かったのだ。
ただ怖かった。
月乃が変わっていく恐怖。自分の知らないものへ、変貌する姿。痛みに呻く月乃なんて知らない。そんな姿、知らなかった。
藍子は耐えられなかったのだ。
だから、月乃のもとから逃げ出した。
『ごめんなさい。月乃。ごめんなさい』
泣きながら、藍子はここにいない月乃に向けて謝る。
月乃は今、処置室の中だ。
藍子はかおると二人、誰もいない、薄暗い待合室の椅子に座っている。
『一人にして、ごめんなさい。ごめんなさい』
かおるのいる場所へと向かうために走るさなか、藍子は確かに聞いていた。月乃が自分を呼ぶ声を。だが、藍子はそれを無視してしまった。
大人を呼んで月乃の元へ駆けつけた時、月乃は、意識がなかった。顔の半分が赤い発疹に覆われていた。
死んでしまったと思った。
後悔した。一人にしてしまった事を。逃げ出してしまった事を。
『大丈夫だよ。藍子。大丈夫』
藍子の隣から、声がかかる。かおるだ。藍子の手を握るかおるの手に、力がこめられた。
藍子は、涙目をかおるに向ける。
『月乃は大丈夫だよ。だから、泣くな』
真面目な顔で、かおるは、藍子の涙を指で拭う。
『でも、でも。わた、しがっ、冒険、行こうなんて言わなかったら、こんなことに……』
『それは、俺も同じ。俺だって、月乃の病気がこんなすごいもんだと思ってなかったもん。誰も、きっと月乃だって思ってなかったんだ。あいつ、抜けてるとこあるし』
『でも……』
藍子は反論しようとしたが、かおるの言葉がそれを遮った。
『だから、今度はこんなことにならないように、俺たちで月乃を守るんだ』
その言葉に、藍子は目を上げる。かおるの顔を見ると、かおるは無理やり作ったような笑顔を見せた。
『守るんだよ。月乃を。俺たちで』
『守る?』
『そう。アイツが幸せになれるように。何があっても。アイツが辛くならないように。俺たちで月乃を守るんだ。……約束』
そう言って、かおるが小指を藍子に突きだす。藍子はかおるの小指に自身の小指を絡めた。
暗く、静かな待合室に、指きりをする声が、響き渡った。
「月乃、大丈夫かな。また前みたいに大きな発作起こしてたらどうしよう。月乃の近くにいなくちゃいけなかったのに。どうして、月乃のそば、離れちゃったんだろう」
藍子の目に涙が溜まる。かおるが藍子の頭を自身の胸に抱き寄せた。周りの乗客の視線から、藍子を守るように。
「お前が悪い訳じゃないよ。それに、発作が起きるとは限らないじゃないか。最近は滅多に発作、起こさなくなっただろう」
「そうだけど……」
だが、それはいつも月乃が薬を飲んでいるからではないのか? 藍子はそう思う。今、藍子が持っている薬。あれを飲まなければ、いつ、発作が起こってもおかしくないのだ。
「あいつ、公園の周りにもいないし、家にも帰ってない。あと、月乃の行きそうな場所って、心当たりないか」
かおるに問われ、藍子はかおるの胸から顔を離して、考え込む様に窓の外を見る。
月乃を捜しまわるうちに、夕方になっていた。
大きな太陽が、時々、家やビルの合間から現れては姿を隠す。
もうすぐ日も沈む。
月乃は大丈夫なのだろうか。
冒険へ出たあの日。あの日の夕日もこんな風に真っ赤で、綺麗だった。
そう思った途端、藍子は声を上げた。
「そうだ、あそこは? 私達が、初めて冒険した場所」
「高台公園?」
「そう。あの子、あんな事があったあとも、良く星を見に行ってたじゃない」
「行ってみる価値はあるか」
かおるはそう言って頷いた。もうすぐ最寄の駅に着く。
藍子は祈った。
どうかそこに、月乃がいますようにと。
7
すっかり日は暮れた。高台公園の敷地の中、藍子とかおるは街灯を頼りに坂道を登った。
もし、ここに月乃がいなければどうしよう。藍子には月乃がいそうな場所に、もう心当たりはなかった。
坂を上りきって、ベンチのある場所へ向かう。そのベンチからは、星も、自分達の住む町のネオンも良く見える。
「いた。月乃だ」
かおるが声を上げた。藍子の目にも映る。街灯の下。月乃がベンチに腰掛けている。顔を上に向け、星を眺めているようだ。
「月乃! あんた薬も飲まないで何やってんの」
藍子が月乃に向かって、叫ぶように言う。
月乃がその声に振り返った。
そして、立ち上がり、口を開く。
「来ないで」
今にも走り出そうとしていた藍子とかおるは、その声に立ち止まる。
「月乃?」
街灯の下。藍子達には月乃の表情が良く見えた。いつも、幸せそうに微笑んでいる月乃とは違う。どこか、苦しそうに歪んだ表情をしている。
「月乃、お前、まさか発作起こしたんじゃ」
かおるが声をかけるが、月乃は首を横に振った。
「違う。薬は飲んでるし、発作を起こしたわけじゃないわ」
月乃の言葉に、藍子は力が抜けそうになるのを感じた。良かった。薬、飲んでいたのか。月乃は元気そうだ。言っていることは嘘ではないだろう。そう思い、藍子は少し安堵した。
「……じゃあ、どうしたっていうのよ。何で近づいちゃいけないの。月乃、何があったのよ」
藍子が問う。月乃は一度顔を俯けて、意を決したように、また顔を上げた。
「私、かおるくんと藍ちゃんが、お互いに好きなこと知ってた」
月乃の唐突な言葉に、一瞬意味を理解しきれなかった二人は、ほぼ同時に慌てふためいたように声を上げた。
「こんな奴、誰が好きになるかー」
互いに、指さして言う藍子とかおるに、月乃は首を横に振ってみせる。
「隠さなくてもいい。二人とも、私を何だと思ってるの? ずっと、一緒にいたのよ。二人の気持ちぐらい、とっくの昔に気づいてたわ」
気づいていた?
月乃は何を言い出したのだろう。一体、月乃はどうしたいというのだろう。
「分かった。月乃、智樹に何か言われたんでしょう。だから、急にそんなこと……」
月乃がこんなことを言い出した原因は十中八九智樹だ。きっと、アイツがよからぬ事を月乃に吹き込んだに違いない。藍子はそう思って、ここにはいない智樹を呪った。
「違う。そうじゃない、そうじゃないの」
月乃は、藍子の言葉に首を大きく横に振ってみせる。
「じゃあ、一体、どうしてお前そんなこと言い出したんだよ。分かるように説明してくれ」
かおるが、月乃に説明を求める。月乃は口を開いた。
「絶えられなくなったのよ。無理だった。我慢しようと思ったけど、出来なかった。……私達の今の関係はおかしいわ」
月乃の言葉に、藍子と智樹は一瞬目を見交わす。三人が三人とも同じ事を思っていたのかもしれない。そのことに気づいたのだ。
「どうしてなの? どうして、かおる君は私を振ってくれなかったの」
かおるは戸惑ったような声をだす。
「月乃、何言って……」
月乃は叩きつけるように、かおるの言葉を遮った。
「さっきも言ったでしょう? 私は、二人がお互いに好きだって知ってた。だから、あのお花見の日。振られるつもりでかおる君に告白したのよ。なのに何でオーケーするの? どうして、藍ちゃんは私を後押しするような事言うの。私のこと、可哀相だとでも思ったの?」
「それは違う」
藍子は、叫んだ。月乃と藍子は互いに見つめ合う。
「何が違うの」
月乃が珍しく大声をあげた。藍子は胸に手を当てて、正直な気持ちを言葉にだした。
「私は、ただ月乃を守りたかっただけ。月乃が幸せになるように、ずっと守っていこうってかおると約束したから。だから……」
藍子はそこで、言葉を切った。月乃が街灯の下で、冷たく微笑んだのを見て、つい口を噤んでしまった。
「だから、自分の気持ちを押し殺してまで、私にかおる君を譲ったの? 藍ちゃん。私はもう子どもじゃない。私を守るなんて、そんなの藍ちゃんのただの自己満足じゃない」
その言葉に、藍子は息を飲む。
自己満足? そうなのかもしれない。月乃のため、それだけを思ってずっと耐え忍んでいるつもりだった。過去の自分の罪を、勝手に償っているつもりでいた。
それは、間違いだったのだろうか?
「月乃、やめろよ。俺たちはそんなつもりじゃなかったんだ」
「嘘よ。私はね、かおる君。二人の事、本当に親友だと思ってた。何でも話し合える親友だと。なのに、二人はいつも肝心な事を私に言ってくれない。私がかおる君に好きって言った時、私は二人の素直な気持ちが聞きたかった。それなのに、二人して嘘付いて。私を騙そうとして。それが、辛くて悲しかった」
月乃は顔を俯けた。泣いているのかもしれない。藍子がそう思ったとき、月乃は俯いたまま、言った。
「でも最初は、それでもいいかって思った。藍ちゃんとかおる君が付き合えば、私と一緒にいてくれる時間が減ると思っていたから。私が、かおる君と付き合うことになれば、藍ちゃんもきっと、私と離れずに一緒にいてくれる。そうすれば、ずっと三人で一緒にいられるって」
月乃はそこで、一度言葉を切った。ゆるい風が、ゆっくりと三人の間を吹きぬける。
「私はただ、三人で一緒にいたいだけだったのに。なのに、二人して、私といると辛そうな顔する……私から離れようとするの。私を受け入れてくれたんじゃなかったの? なのにどうして私から離れていこうとするの?」
言いながら、月乃は両手を握り締めていた。それだけ、力のこもった声だった。
知らなかった。月乃がこんな風に思っていたなんて。ずっと、藍子は自分だけが耐えているつもりでいた。
だが、それは間違いだったのかもしれない。
「月乃……」
藍子が、月乃を呼ぶ。
月乃は顔を上げた。一時、言葉がやんだ。
「ごめんなさい……。二人のこと責めたけど、一番酷いのは私よね。井沢さんに三人の関係はおかしい、本当にかおる君のこと好きなのかって聞かれて、自分の本当の気持ちが分からなくなった。私のかおる君への思いは本当に恋なのか、友情なのか分からなくて、逃げ出したの。二人にあわせる顔がないと思って、なのに、二人の顔みたら、急に腹が立ってきて、二人に八つ当たりしちゃった。……ごめんなさい。私には二人を責める資格なんてないのに」
月乃が口を閉ざした。
公園の木々の、葉擦れの音が、耳を打つ。
突然、かおるが動いた。かおるは月乃のもとへ走った。
月乃は驚いた様に後ずさろうとしたが、それより早く、かおるは月乃の腕を掴んで、自分のもとへ引き寄せた。
「ごめん、月乃。ごめんな」
かおるは、月乃を抱きしめながらそう口にした。
「離してよ、かおる君」
「いいから聞けよ」
かおるは、月乃を抱きしめたまま声を上げた。
月乃は、かおるの胸から抜け出そうともがいていた動きを止めて、かおるを見上げる。
「月乃、ごめん。俺、藍子が好きなんだ。ごめん。ごめんな。ずっと、黙っててごめん。お前を裏切るようなことして悪かった。お前のことも好きだけど、それは恋愛じゃないんだ……」
月乃の目に、うっすらと涙が浮かぶ。月乃は、かおるを抱きしめ返した。
「うん。分かってたよ。だから、別れてあげる。……それと、ごめんなさい。二人のこと分かってて、告白なんかするんじゃなかった。二人のこと困らせてるって分かってたのに、ずっと後悔してたのに、言いだせなくてごめんなさい」
「月乃」
「でも、かおる君。告白する相手、間違ってるわよ」
そう言って月乃は、かおるから身体を離した。
今度は、かおるも月乃の動きを遮る事はない。
月乃は、目元に溜まった涙を拭うと、かおるの横から顔をだし、後方でじっと固まったように動かない藍子を見る。
「藍ちゃん。藍ちゃんはどうなの? ちゃんと、本当のこと聞かせて」
月乃がそう言うと、藍子は我に返ったように一度瞬きをした。そして、泣きそうな顔で、口を開く。
「月乃、ごめんなさい。私、私も……」
そこまで言って、藍子は言葉を詰まらせた。月乃と、かおるはじっと藍子の様子を見る。藍子は、意を決したように、口を開いた。
「私も、かおるがずっと好きだった。でも私、月乃を裏切るつもりなんてなかったの。私、月乃を失うのが怖かった。月乃が幸せならそれでいいと思った。かおるを諦める事が、月乃ヘの罪滅ぼしになると思ったの」
「罪滅ぼし?」
訝しげな声を上げた月乃に、藍子は言う。
「月乃が、この場所で発作を起こした時、私逃げたでしょう? だから、ずっと、それ、後悔してて。月乃は私の名前呼んでくれたのに、私、それも無視して逃げちゃって」
藍子の言葉に、月乃は首を傾げる。
「でもあれは逃げたんじゃなくて、人を呼びに行ってくれたんでしょう?」
月乃の言葉が胸に突き刺さる。藍子は胸元の服を掴んで、今までずっと言えなかった思いを口にした。
「違う、違うの。あの時、ただ怖くて、嘘付いて月乃のもとから逃げ出したの」
月乃の反応を見るのが怖かった。藍子は、視線を地面へと落とし、月乃が非難の声をあげるのを待った。
「藍ちゃんたら。そんなこと、気にしなくて良かったのに」
「え?」
藍子は顔を上げた。月乃を見ると、月乃は泣き笑いの顔で、藍子を見つめている。
「そんなこと、気にしなくて良かったのにって言ったの。子どもだったの、お互いに。急に発作を起こした私を見て、怖くなるのなんて当たり前じゃない。それに、病院に着くまでずっと、私の手、握っててくれたでしょう? 私は、感謝こそすれ、藍ちゃんを恨む気持ちなんてちっともなかったのに」
藍子の顔が歪んだ。藍子の頬に涙が伝う。藍子は、かおると月乃のもとへ向かって走った。
かおるが、藍子を抱きとめようと腕を広げたのが分かった。だが、藍子はかおるの横をすり抜けて、月乃に抱きついた。
後ろで、あれ? などというかおるの声が聞こえたが、気にしない。
藍子は月乃を抱きしめたまま、言った。
「ごめんね月乃。私、月乃のこと好き。大好き」
「うん。私も大好き。ごめんね、藍ちゃん」
二人して、抱き合って、泣き出した。そんな二人を、かおるはしばらく呆れたように見ていた。その後、ゆっくりと二人に近づく。
「おい、俺を忘れんな」
そう言って、かおるは抱き合っている二人を包み込むように、腕をまわした。
夜の公園で、抱き合ったまま大泣きしてから、一週間が過ぎた。
藍子は、喫茶店のカウンター内で、カップを拭いていた。
かおるは厨房で、マスターと一緒にナポリタンを作っているはずだ。
藍子はそう思いながら、目の前の席に座っている二人の客を嫌そうな顔で見た。
「どうして、あんた達二人がくっつくかな」
藍子は、ぼそりとそう漏らす。
それを聞きつけた二人の客のうち一人が、声を上げた。
「いやだなー、藍子さん。気の合う男女が惹かれ合う。それは自然の摂理ってもんだよ。ねー、月乃さん」
「ねー、智樹君」
ねー、じゃないでしょ。と、藍子は思うのだった。眉間に皺を寄せ、藍子は前に座る二人の客を見る。月乃と智樹。この二人はどうやら、付き合い始めたようなのだ。
一体どういう経緯でそういうことになったのか。それはまだ聞いていないが、これから聞き出すつもりだ。
昼のピークが過ぎれば、バイトも終わる。かおると二人、月乃と智樹の馴れ初めについて聞くのも悪くないだろう。
そう藍子は思うのだった。
「藍子」
呼ばれて振り向いた先に、かおるの姿があった。かおるの手にはナポリタンの乗った皿が二つ。
藍子は自然と笑みを浮かべ、かおるのもとへ向かう。
かおるから、ナポリタンを受け取るために。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この作品は針井龍郎先生発案のシャッフル企画に参加させていただいた作品です。柚木なぎさ先生のキャラクター原案をもとに書きました。
今回は初の企画モノ参加となりました。針井先生、素敵な企画をありがとうございました。
そして、投稿モノとしては私初の恋愛ジャンルとなりました。いかがでしたでしょうか。
恋愛モノは普段できるだけ避けて通るのですが、(はずかしいので)せっかくの企画モノだし普段とは違うお話を書いてみようということで、こんな感じになりました。
ちゃんと恋愛モノになっていれば良いのですが(汗)
今回とても楽しく書く事が出来ました。柚木先生ありがとうございました。柚木先生のキャラクターを上手く表現できていれば良いのですが。こんなんですみません。でも、本当に楽しんで書くことができました。
最後になりましたが、某交流サイト様で、大学について教えてくださいとのスレにお答えくださった心優しき皆様。本当にありがとうございました。皆様のお蔭で、この小説は完成いたしました。せっかく色々と教えていただいたのに、殆ど大学でのシーンがなかったことをこの場をお借りしてお詫びさせていただきます。そして、ありがとうございました。
次話はキャラクター原案です。柚木先生に頂いたメッセージをコピペさせていただきました。
それでは、ここまで読んで下さった皆様ありがとうございました。次の後書きでは、キャラクターからどのように話を膨らませたかを書こうかと思っていますので、ご興味のある方はご覧下さいませ。