ボトルシップレーサーズ (1)
天井のライトが眩しい。いつもよりもずっと光が強い気がする。まるで真夏の太陽みたいに、ヒナの身体を照り付けてくる。
暑い。ただでさえ室温の高い屋内プール全体に、熱気が充満している。興奮した生徒たちから発せられる体温が、吐息が、辺りの空気を沸騰させている。汗が噴き出して、口の中がカラカラになる。きらめく水面が愛おしい。
これだけの生徒が、よくもまあプールサイドに終結したものだ。ジャージの学年色を示すラインを確認すると、大多数は一年生。中には二年生や三年生までまぎれている。学校単位の大騒ぎ、ということになってしまったのか。
プールサイドを埋め尽くした観衆から、割れんばかりの歓声が上がった。どよめきでプールが波立つ。マイクアナウンス。続けて、好き勝手に騒ぐ野次馬たち。そんなノイズに負けないように、ヒナはありったけの大声で叫んだ。
「ハルー!」
聞こえているかな。聞こえていてほしい。ヒナのいる場所から五十メートル先、スタート位置でハルは待機している。ヒナの言葉、そこまで届いているよね。しっかりしてよ、ハル。
どうしてこんなことになっちゃったのかな。もう、訳が判らない。確かにヒナにも責任はあるかもしれないけど。でも、普通こんな騒ぎにまでなる?ホント、しっちゃかめっちゃかだ。
優勝賞品。ヒナはこの椅子に座って、じっと成り行きを見守ることしか出来ないのかな。ううん、そんなことは無いよね。今だって、出来ることがある。
「負けたら許さないー!」
力いっぱい、ハルを応援する。応援して、祈る。ハル、負けたら承知しないんだから。
もしハルが負けてしまうようなことがあれば。ヒナが、ハルのためにって思っているものが、知らない誰かの手に渡ってしまう。見たことも無い誰か。ヒナの想いが汚されちゃうよ。そんなの嫌だよ。
ハルだって嫌でしょう?ヒナだって嫌なんだよ。全部ハルのものなんだよ?
だから、お願い。
ハル、必ず勝って!
校内放送は、今日と明日はDJ仕様だ。スピーカーからはポップな音楽と、楽しそうな放送委員の掛け合いが聞こえてくる。「みんな準備は良いかい?そろそろパーリィが始まるぜ」イェーイ。
楽しく相槌を打ちたいところだけど、ヒナは今サユリにめちゃめちゃ睨まれながら絶賛作業中です。プールサイドに持ち込まれたホワイトボードに、本日のタイムスケジュールを書き込み中。ヒナの隣で、色マーカーを使って可愛いイラストを描きこんでるチサトが不思議そうに見つめてくる。ゴメン、ナンデモナイ、キニシナイデ。
曙川ヒナ、十五才。高校一年生の学園祭は波乱の幕開けです。
学園祭では、ヒナのクラスは学校の屋内プールにペットボトルボートを浮かべることになった。全長2メートルは超える、なかなか本格的な奴だ。ヒナはメガネ星人サユリの陰謀によって企画の発案者にされてしまった。更には途中入部のぺーぺーなのに、水泳部ってだけでプールの安全管理責任者にまでされてしまった。
こんなに頑張ってるんだから、ちょっとぐらいご褒美があっても良いよね?昨日は前夜祭と銘打たれた前日徹夜作業で、実際にはウチのクラスではほとんどやることは残っていなかった。ヒナはまあ、細かい雑用があったので、ばたばたと暗くなるまでお仕事をしていた。うん、仕事をしてたんだって、ホントに。
学園祭のために特別営業してた学食で晩ご飯を食べて、もう他に誰もクラスメイトが残っていないことを確認して。そこでヒナは、ヒナと一緒に残ってくれていたハルと、その、ちょっと良くないことをしちゃった。
朝倉ハル、十五才。ヒナの幼馴染で、恋人。優しくて素敵な、ヒナの大切な人。
ハルとは小さい頃からの幼馴染で、家族ぐるみでのお付き合いがある。昔、家出して怪我をしてしまったヒナを、ハルは見つけてくれた。助けてくれた。あの日から、ハルはヒナにとってかけがえのない存在になった。大切な、大好きな人になった。同じ高校に入って、同じクラスになって、それだけでもとても幸せだったのに、ハルは、ヒナに告白してくれた。へへへ。二人は心の通じあった両想い。彼氏彼女。恋人関係。
さて、プールの鍵はヒナが持ってるし、前夜祭参加届は出してあるから、一晩中校内にいても怒られない。準備があらかた終わった屋内プールには、ヒナとハルの二人しかいない。ヒナとハルは、えっと、両想いで恋人同士。どっちにも弟がいて、家だと何かしようにもいつもがちゃがちゃしている。学校でも、夫婦だなんだと、ことあるごとに囃し立てられる。そんな二人が、誰にも邪魔されないで夜を過ごせるってなったら、そりゃあ、ねえ。
ヒナは、ハルならいいよって思ってた。もう完全にそのつもりだったんだけど、ハルはそこをぐっと我慢して、ヒナとお泊りするだけにしてくれた。えへへ、ヘタレとか根性無しとか言われるかもしれないけど、ヒナはハルに大切にされてるって感じて、とっても幸せだった。いつかは我慢出来なくなっちゃうんだって。ヒナ、ハルに予約されちゃったかな、どうしよう。
ハルと手をつないで、一夜を共にした。そう言うとすごいね。特別な関係全開だね。大人の階段ツーステップで駆け上がってるね。ふわふわして来ちゃう。ハル、とっても優しかった。ヒナはあんな風に抱き締められたの、初めて。
まあ、実際そこまでだったんですけどね。ああ、キスはしたかな。甘くて良いキスだったなぁ。
だから、それしかしてないんですよ。ですってば。朝、ヒナが目を覚ますと、ハルはまだ眠ってた。疲れてるだろうし、起こさないようにと思ってそっとプールから出ようとしたら、開かないハズのプールの出入り口が開いちゃった。そこには鬼の形相のサユリが立っていた。ひえー。
水泳部の部長のメイコさんが、プールのマスターキーを持ってたんだよね。メイコさんは正門ゲートのディスプレイ作業でやっぱり徹夜してて、校門のところで仮眠をとっていた。で、同じ水泳部のサユリが、クラスの方にあまり協力出来なかったからって、早朝からそのマスターキーを借りてプールまでやって来てしまったわけだ。
いやぁ、怒られた怒られた。「やってなきゃいいってもんじゃない」は名言だったね。ごもっとも。学校にバレたら学園祭どころの騒ぎじゃない。ヒナもハルも生活指導に直行。前夜祭がそんなただれた場になってるとか判断されちゃったら、今年どころか来年から学園祭の実施自体がどうなってしまうのか見当もつかない。
はい、軽率でした。すいません。
とにかく証拠隠滅しよう、ってことでハルを起こしたら、寝ぼけたハルがヒナのことをぎゅうって抱き締めてきた。新婚生活みたいな、甘い目覚めを期待していたんですね、ハルさん。ごめんね、モーニングキスの代わりがモーニングビンタで。サユリ、加減無さすぎ。別にヒナは嫌じゃなかったのに。
「くそばかっぷる」
素晴らしい称号を頂いて、ヒナとハルはそれから現在に至るまで馬車馬のように働かされております。ヒナは今、タイムテーブル書きとか、会場のデコレーション関係の仕上げ作業。ハルはプールに入って、コースロープの除去とガイドロープの設置作業。監督業はサユリに引き継がさせていただきました。はい、ヒナが監督だとハメを外し過ぎるって言われまして。プールの鍵もサユリの手に。はあ、もうやらないってば。でも、鍵の管理に関しては、正直サユリにやってもらえる方が有難い。
本当は学食辺りで朝ご飯を食べてから、正門ゲートの様子を見に行きたかった。でも、そんなことを言いだせる空気ではなかった。自業自得です。時間が経つにつれて、クラスメイトたちもどんどん登校して来る。サユリは不機嫌にしているだけで、このことは他の人には一切話さないでおいてくれた。「いや、話してどうなるのよ、こんなこと」ソウデスネ。
そんなこんなでずっと何かしらの作業をしているので、シャワーもロクに浴びていない。一回ざぶってプールに入っただけ。綺麗に塩素落として髪を乾かさないと、ヒナの場合ぼわぼわになっちゃうんだよ。このふわふわヘアー保つの、結構大変なんだよ?肩までの長さの、ふんわりとしたウェーブ。ハルだって、高校に入って髪をほどいたヒナに惚れ直しちゃったくらいなんだから。チャームポイントと誇っても良いくらいでしょう。
自分で美人とか超可愛いとか言うつもりは無いけど、ヒナはハルの彼女として恥ずかしく無いくらいには可愛くしているつもり。目元もパッチリ、緩やかな鼻筋、薄紅色の唇。まあ、現在鋭意作業中ってところなので、ジャージ姿なのは勘弁して欲しい
もうすぐ学園祭が開始される。クラスの出し物としては、最初のうちはやることがない。ペットボトルボートは、プールサイドに鎮座している。進水式は開始から一時間後だ。その後は、予約しているお客さんを順番に乗船させることになっている。まあ、それだけで結構大変なことになりそうだよ。今もタイムテーブル書いてるだけで頭痛くなってきている。みんな、好きだねぇ。
「ヒナ」
サユリがこちらにやって来た。まだちょっと怒ってるな。全身から不機嫌オーラがじわじわと漏れ出している。プールでの作業は、みんな基本的に水着にジャージ。ワンレン黒髪眼鏡のサユリがジャージ姿だと、なんだろう、ザーマス教師って感じか。きょーいくによろしくないザマス、みたいな。いやまあ、正にそうやって怒られてるんだけどさ。
チサトが二人の間の空気を察して不安そうな表情を浮かべた。チサトはちっちゃくて、ふんわりロングで、思わずお持ち帰りしちゃいたくなるような、ビスクドールみたいな子。ジャージでも良い、それはそれで良い。そう言えばチサトはこういう人間関係の軋轢に敏感なんだっけ?ごめん、チサト。今回はヒナが悪いんだ。その、なんというか、若気の至りって奴だ。
「少しは反省した?」
はい、いっぱい反省しました。ハルもプールの中で頭とか色々冷やしていると思います。顔の手形、消えてると良いけど。サユリも人の彼氏に対して手加減なさすぎだよ。
「信じられない。学校で、プールで、普通おっぱじめる?」
えーっと、おっぱじめてはいません。いやまあ、おっぱじめてもいいかなぁ、なんて考えちゃってたのは確かです。しかし、おっぱじめるって言い方、卑猥だな。サユリの口から出ると尚更。特に「おっぱ」って辺りが。
「え、ヒナちゃん何してたの?」
うわあぁ、チサト、何でもないよ?ホントに、ナンデモナイ。キニシナイデ。
「朝早くから朝倉といちゃついてたのよ。ほんとバカップル」
チサトが顔を赤くした。ああ、そういうことにするんですね。何も無かったと言うと逆に隠すのが厄介になりますからね。冴えてるなぁ、サユリ。ハルの方にもそういうことになってると伝えておきます。
えーっと、ヒナたち、朝からお盛んカップル。
・・・うわぁ、何だろう、死にたくなってきたよ。スンマセン、ガチで反省しました。
「朝倉にはもう注意しておいたから、ヒナもお祭りだからってはしゃぎ過ぎないのよ?」
もうハルとは口裏は合わせてあるんですね。ありがたいです。
プールの中の方にちらっと目を向ける。ハルがこっちを見ていた。はい、ヒナも警告受けました。もし何かツッコまれたらその方向で。ハルには悪いことしちゃった。すっかり怒られ損だし、後で絶対「やっとけばよかった」って言われるな。ははは。
ハルの姿をじっと見る。寝癖みたいにぐしゃってなった髪は、最近もう少し短めにカットした。完全にスポーツマンだね。相変わらず日焼けしにくいから、やや白さが目立つ。でもぶよぶよじゃないから、水着姿は十分素敵。むしろ陰影がはっきりしてて良いんじゃないかな。細くてちょっと垂れた目。ふふ、なんかこうやって見てると可愛いよね。
人数が少ない遊び部活とはいえ、ハルはハンドボール部。中学では熱心にバスケットボール部で活動していた。細いようで、しっかりと筋肉質だ。男の子なんだよなぁ。昨日の夜を思い出してちょっとどきどきする。力、強かったな。胸板、厚かったな。痛いくらいしっかりと抱き締められて、ヒナ、何も抵抗出来そうに無かった。そのまま、でも良かったのに。
「オッケイそろそろ時間だ、みんな、一緒にカウントダウンよろしく」
放送の声に熱がこもってきた。プールサイドにいるクラスメイトたちが、一斉に指を上に向ける。スリー、ツー、ワン。
「第二十四回、流星祭スタートだ!」
わぁ、という歓声が学校のそこかしこで上がった。おおう、すごい熱気。滅茶苦茶激しいな。想像以上の盛り上がりで、ヒナはわくわくしてきた。
サユリがじろり、と睨んでくる。あ、大丈夫ですよ。ちゃんと、節度ある行動を心掛けてます。はい。