第3章 母 -2-
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医者に連れられて、事務所の奥にある会議室に入った。医者は入った途端ドアを閉め、開けっぱなしの窓も閉めた。神経質な動作に、明来は不安を隠せなかった。
小難しい顔をしたまま、智加と明来に椅子をすすめると、医者はテーブルをはさんで向かいに座った。
「私はここの医師で、平田と言うものだ。勤務して十二年になる。ここは見てのとおり介護施設で、私も医者と言ってもほとんど治療はしていない。おもに体調管理が仕事だ」
背格好はしっかりとした体格で、染めたことのないような真っ黒な髪を、短く刈っていた。目は細めで、頬に縦長い皺が入っていた。年令は四十歳くらいかと思ったが、思ったより上なのかもしれない。鬚が薄く伸びていて、宿直明けなのか、目が赤く充血していた。
平田はそう言ったきり、口をつぐんだ。なぜ明来達を見て驚いたのか、肝心の話はまだだ。明来は気持ちが抑えられずに、テーブルの上に手をついた。
「先生、さっき『本当に来たのか』っておっしゃいましたよね? どうして僕らを見て、というか、東辞を見て、驚いたんですか?」
ぎょっと目を見開いて、平田は避けるように下を向いた。口を開いて何か言おうとしたが、また噤んでしまった。
「先生?」
「東辞。やはりそうなのか」
「え?」
「君は話すことができない。だから、その、君は付添いなのか?」
明来のほうをじっとみて、平田は聞いた。
「話すことができないって、やっぱりご存知なんですね。僕は付き添いです。斉藤明来と言います」
「君らを、つけてきた人間はいないのか?」
今度は明来のほうがぎょっとした。思わず智加を見ると、「さもありなん」という涼しい顔をして、首を横に振った。つけてきた人間はいない、ということだ。この医者は関係者だ。明来は思わず身を乗り出した。
「東辞水桧 さんを、知ってるんですね?」
平田は目を細めると、唇を少し動かした。
横で、智加がひゅっと息を吸った。ちらりと見ると、硬い表情で平田を見つめていた。何か言いたげに薄く開いた唇は、じっとして動かなかった。明来は下唇を噛みしめると、平田に向きなおった。
「水桧さんは、ここに入院していたんですか? 聞かせて下さい」
「何から話していいのか。確かに、水桧さんは入院していたよ」
「今どこに?」
「今は……」
その時、平田の白衣の胸ポケットの呼び出し音が激しく鳴った。ばっと立ち上がると、機械を取り出して表示を見た。急に青ざめた顔で、平田は手を伸ばした。智加の腕をむんずと掴んだのだ。
「来てくれ」
ばっと走り出した平田に、智加は引きずられるように引っ張られていった。明来も思わず立ち上がって、二人のあとを追いかけた。
階段を駆け上がって四階まで行くと、一番奥の薬物倉庫と書かれた部屋に入っていった。段ボール箱や大きな棚の横を通り過ぎると、その奥にドアがあった。変な場所だなと思った瞬間、そのドアの脇にあるセキュリティーボックスにカードキーを差し込んだ。ピッという電子音が響いて、ドアがゆっくりスライドされていく。
そこは広い病室だった。薄いレースのカーテンの向こうに、ベッドがあった。人が寝ているようなシルエットが見える。
平田はつかつかと歩いていくと、カーテンを開けベッドの脇に立った。そこに眠っている人がいた。
「この方が水桧さんだ。脳が委縮していく病気で、筋肉の麻痺は四年前から始まった。今はもう喋ることも、自力で息をすることもできない」
一人居た看護婦が、頭を下げて出て行った。
「昨日から、昏睡状態に入っている。酷なことを言うが、もってあと数週間だろう。目を開けることはできないが、耳は聞こえているはずだ。話しかけてくれ」
明来は、足が動かなかった。こんなことは、想像もしていなかった。
智加の母親を、ようやく見つけたのに、喋ることもその目で息子を見ることもできないのか?
気道を切開して付けた人工呼吸器が、スーカタ、スーカタと規則正しい音を出していた。身体に付けた計器がピピと音をたてている。
点滴の管は天井からぶら下がり、蛍光色のような黄色い液が一滴一滴と落ちていた。注射針は、枯れ木のような細い手の甲に差し込まれて、回りは黒いあざのようにうっ血していた。
白いベッドに横たわる女性は、写真の面影のある水桧さんだ。眠ったままの顔は生気がなく、白い肌は油分が抜けて粉をふいていた。閉じられた目、鼻筋が通って綺麗な人だったのだろう。黒髪が肩の辺りで束ねられていて、まだ若いのに白髪が随分あった。
明来は智加を振り返った。
じっと固まって、ただ水桧を見つめていた。眉根が寄り、目は細められて、唇をくっと引き結んでいた。
とうじ、と言葉をかけようとして、声が詰まった。目頭が一気に緩んで、熱い涙がにじんできた。
(オレが泣いちゃだめだ。オレがっ)
明来は唇を噛んだ。噛めば噛むほど、涙が溢れてくる。喉の奥から嗚咽が出そうになって、必死に声を噛み殺した。
平田は水桧の傍に行くと、布団の上に出ている手首をそっと掴んだ。脈の強さを見ているのだろうか。静かに放すと、智加のほうに振り返った。
「私は廊下に出ているので、何かあったら呼んでくれ」
そう言うと、平田は部屋を出て行った。
智加は動かなかった。ただじっとベッドに眠る水桧を見ていた。
明来は一歩足を前に出した。耳は聞こえるからと言われても、智加が喋れるのだろうか。
十年前、母親から引き裂かれた日、智加が放った言霊に恐怖して、息子を「化け物」と叫んだのだ。こんな状態の母親を前にして、どうすればいいんだろう。
頬から流れる涙を、明来は拭えなかった。震える身体をなんとか動かして、ベッドの脇まで近付いた。しゃがんで枕元に顔を近づけると、明来は小さな声を出した。
「水桧さん。あの、遅くなって、済みませんっ」
それだけ言うのがやっとだった。ぽたぽたと溢れてきた涙が、白いシーツの上にいくつもの染みを作っていった。明来は唇を噛んで、声が出ないように耐えた。
水桧はただ眠ったままで、ぴくりとも動かなかった。消毒薬のつんとした臭いがしていた。
リノリウムの床で、すっと動く音がした。振り返ると、智加が近付いてきた。
「とう、じ……」
明来は立ち上がって身を引くと、智加に場所を開けた。
まるで、力の抜けたような足取りで、ベッドの傍に立った。上からじっと水桧の顔を見つめている。ただじっと、指も動かさずに、呼吸もしていないるかのように、全く動かなかった。
その姿に、明来は見ていられなかった。顔を伏せてただ立ちつくた。途端、智加の身体ぐらりと揺れたかと思うと、ばっと振り返って歩き出した。
「とうじっ」
明来は咄嗟に追った。
部屋を出ようとドアに手をかけた瞬間、智加の背中に抱きついた。後ろから智加の身体に腕を回すと、ぎゅっと引っ張った。
「はなせっ」
「ダメだ。東辞。逃げちゃ、だめだ」
刹那、智加の身体がぎゅっと強張った。抱きしめている腕が、まるでコンクリートにでもあたっているかのように、硬く動こうとはしない。それでも、明来は力を緩めなかった。
「話して、お母さんと。あの時のことだって、ちゃんと説明して。東辞はお母さんを守りたかっただけなんだって。東辞だって、あんなことになるなんて思わなかったんだろ? 東辞のお母さんなんだよ。生きて、ちゃんとここに居るじゃないかっ」
静かな時間が流れていった。智加は無言で、動こうとしなかった。だが時間と伴に、がちがちだった身体から硬さが抜けていった。
何分が経ったのだろうか。もう手を放しても大丈夫かもしれない、と明来は思った。すっと腕を放すと、反動か智加の身体が揺れた。明来は廻り込んで智加の顔を見上げると、微笑んだ。
「オレ、外で待ってるから」
それだけ言って、明来は部屋を出て行った。
(続く)