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第3章 母 -1-

-1-


すっかり夏めいてきた6月の終わりだ。


今日は智加はるかと約束した九州行きの日だ。空港に9時に待ち合わせをしていた。


明来あきは半袖に身を包み、山登りを覚悟でスニーカーを履いてきた。寒さ避けのジャンバーは丸めて、バッグに突っ込んできた。


ロビーで待っていると、遠くからすらりとした男が歩いてきた。智加だ。一ヶ月ぶりに会うのだが、少し身長が伸びたように思えた。


明来は手を上げた。


智加は気付くと、少し早歩きでやってきた。


近くにくると、やはり背が伸びている。明来は少し顔を上げて、目線を合わせた。


「久しぶり」


明来は言った。


智加は、うんと頷いた。公共の人が多くいる場所では、智加は喋らない。顔を見て、目を見た。ただ傍にいるのがほっとした。明来は笑うと、搭乗口へ歩きだした。


2時間ほどで、福岡空港に着いた。そこからは、智加がレンタカーを借りるというので、空港のレンタカー受付へ行った。車種はよく判らないが、ランドクルーザーというものではなかった。英彦山といっても、そこまで山登りじゃなかったのだと、明来は自分のスニーカーを見て恥ずかしくなった。


車に乗り込むと、智加が明来の荷物を取り、後の座席に置いた。


「ようやく、喋れる」


智加がふうと息をはいた。


「うん」


「なんだ、じっと見て?」


明来は思わず見つめていたのかと、ぱっと顔を伏せた。なんだか気持ちがうわついている。久しぶりに会ったせいなのか。今から大事なことをしなくてはならないのに、智加の母親を探し、屑金を英彦山に連れていくのだ。


「そんなんじゃないよ」


「ふふん」


智加が笑った。前髪がなびいて、その下に切れ長の黒い瞳が見えた。唇は薄く、口の端がにっと上がっている。ただそれだけで、嬉しかった。知らずと唇が緩んだ。

そんな気恥ずかしさを隠すように、言葉が勝手に口をついて出た。


屑金くずかねはおとなしいね。この間泣いていたから、今日はどんなに騒がしくなるかって、思ってたんだけど」


「そうだな。あれから、ずっと大人しいままだ。福岡に着いても、動かないし。この間は、一体なんだったのか」


「ああいうのって、よくあるのか?」


「いや。ああ、そう言えば、お前がサッカーで怪我した時、あの時もちょっと変だったな」


「え、オレが。変って?」


「急に、痛くなった」


「なんでだろう。偶然?」


「判らないな。なにせ、人語を解さないから」


智加が俯き加減に自分の胸元を覗いた。光ったりするのは、明来も見たことがあるが、痛いのはつらそうで、そういうのは困る。


「屑金?」


明来は呼びかけた。


「福岡に着いたよ」


しばらく、智加の襟元を見つめた。光の点滅もない。無反応だ。この間は話せたような気がしたのに、少ししょぼんとすると、智加がぽんと頭を小突いた。


「いた」


もうーと言いながら視線を向けると、智加が自分をじっと見つめていた。びくりとなって、思わず身体が引けた。


「気にするな」


その声が優しくて、なぜか急に不安になった。智加の目を見つめる。少し瞼を緩めて、口の端を上げていた。手はハンドルを握ったまま、顔をこちらに向けていた。細く長い指で、男にしてはとても綺麗なほうだと思う。自分は丸っこくて、爪だってどんぐりのようだ。


何かが、ちらちらと明来の心の隅で動いていた。


『とうじ』


唇が小さく動いた。智加には聞こえないほど、小さな声だ。


あの時、屑金が泣いていた時、本当は智加が泣いていたんじゃないのかと思った。何かあったんじゃないかと、明来は思った。

ずっと母親と会うつもりはないと拒んでいた。今この瞬間を、智加はどう思っているんだろう。


「行くか」


智加が言った。細い指が伸びてきて、カーナビに目的地を入れた。ぴっと検索を押して、英彦山がずらりと出てきた。


福岡県と大分県の県境にある標高1200メートルの山だ。山形県の羽黒山、奈良県の熊野大峰山とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など当時の史跡が残っていた。


山の中腹に英彦山神宮奉幣殿があり、山頂には上宮がある。スロープカーで、彦山神宮奉幣殿まで行けるようだ。


ここからは所要時間3時間というくらいか。中腹あたりに、病院と介護施設があった。その二つとも訪問するつもりだ。手がかりが掴めれば、おんの字だろう。


車は動き出した。湿度の少ない、爽やかな風が、開けた窓から入ってきていた。


---


道路は空いていて、思いのほか早く着いた。一つ目の目的地、病院には、母の手がかりはなかった。あとの一つは高齢者の入居施設だ。手がかかりでも何んでもいい、何か見つかってくれ、と祈る思いだった。


二つ目の目的地、日田介護施設はがらんとしたところだった。駐車場は広いのに、数台の車が停まっているだけだ。あとは施設のワゴン車が一台停まっていた。


土曜の午後だが、人もほとんどいない。高齢者の施設に、見舞いに来ることも少ないのだろうか。


建物は古く、上から何度もペンキを塗ったのだろう、ところどころ剥げて下から汚れたピンク色の塗料が見えていた。


玄関も自動ドアではなく、手で開くガラス戸だ。先に歩く智加に、明来は声をかけた。


「高宮さんには、言ってきたの?」


智加が振り返った。


「言ってない。言わなくても、俺の居場所はすぐに判る」


ふいに風が智加の髪を揺らめかせた。ピアスがきらりと光った。それはGPSだ。東辞家が、智加に無理やりつけさせているものだ。智加がどこに居ようと簡単に連れ戻される。


明来は、聞かなきゃ良かったと俯いた。


先に行って黒い取っ手を握ると、重たいドアを押し開けた。


待合室のロビーの先に、受付のカウンターがあった。紺色のベストを着た中年の女性が、カウンターの向こうに座っていた。


やたらと観葉植物が置いてあって、受付のテーブルの上には、枯れかけたトポスが三つも置いてあった。明来は近付いて、カウンター越しに声をかけた。


「あの、済みません」


はーいと間延びした返事が来て、職員の女性がゆっくりと現れた。介護施設に患者が緊急で来ることはないのか、ゆったりした動作だ。少々太り気味の女性は、ブラウスの第一ボタンが外れていて、口紅だけが赤々と光っていた。


「面会の方ですか?」


と言われて、明来は戸惑った。持っているのは、写真一枚だ。それも10年前の写真で、情報は氏名と生年月日があるだけだ。ぐっと下唇を噛むと、女性の目を見つめた。


「あの。10年前に、この方が入院していなかったでしょうか?」


写真を出した。


10年前と言われて、女性は苦笑いが出たようで、開いた口から何も出なかった。


「調べて頂きたいんです」


「10年前ですか。カルテの保存期間は5年なんですよ。それに、ここは病院ではないですから、若い人はほとんど来ませんよ」


「お願いします。名前と生年月日は、裏に書いてありますから」


「でも個人情報ですからねえ。むやみに教えられないんですよ。私もここに来て3年ですし」


面倒くさくなったのか、女性はぶちぶちと言いだした。


お願いします、と明来は頭を下げた。少し後ろに立っていた智加が、ついと明来の腕を引いた。振り返ると、表情も変えずに、智加が首を横に振っている。


帰ろうというのか? 、明来は顔にぐっと力を込めた。睨むような顔になったかもしれない。反対に智加の腕を掴むと、ぐいと前に突き出した。


「こいつの母親なんです。10年前に行方が判らなくなって。こちらに入院したかもしれないんです」


女性はぴくりと顔をゆがめた。智加の容姿に目を奪われたのか、無言で口が開いている。


「お願いします。カルテとか調べてもらって頂けますか? 身分証明書なら、これを」


明来は、自分の学生証を出した。それを受け取って、女性はまじまじと見た。書いてある住所を見て、遠くから来たのが判ったらしい。


「ちょっとデータを見てみるけど。待っててもらえるかしら」


「はい。済みません。よろしくお願いします」


明来はまた頭を下げた。女性は明来を見るより、智加のほうをちらちらと見ていた。


女性はデスクに戻ると、なにやらパソコンでカタカタと打ち始めた。しばらくして戻ってきた。


「データはやっぱりないですよ。済みませんね」


「名前が別の名前になっているとか、ありませんか?」


「え? どういうことですか?」


まさか追手をかわすために、偽名を使ったとは言えなかった。


「す、済みません。いえ、入力間違いとかないかなって思って」


「生年月日でIDとってますからね、名前は関係ないでしょう。データ化してない時代なら、もう紙のカルテなんて残ってないですよ。どちらにしろ見つかりませんよ」


もし、その生年月日も偽証していたら?


「だったら、10年前のデータを見せてもらえせんか? 入院していた人、全員のっ」


女性は呆れた顔をして、明来を見つめた。何言ってるの、この子。馬鹿じゃないとでも言わんばかりの顔だ。


「できるわけないでしょ。そんなこと」


「済みません」


がっくりと肩を落として、明来は俯いた。帰ろうと腕を引く智加に、足が動かない。ここを逃したら、もう手がかりがないことになる。


「あのっ」


と言った瞬間、女性の背後の事務所から、男の人が現れた。白衣を着て、歳の頃は四十代後半くらいか、医者にしては体格がいい。白衣の上からでも、筋肉質なのが判った。


なぜか、ぎょっとした顔をして、こちらを凝視している。


明来は顔をかしげた。何をそんなに驚いているのだろう。


片手に持った携帯電話がするりと落ちて、医者の足もとに大きな音を立てた。


その音にびくっと肩を揺らせて、医者は一歩を踏み出した。落ちた携帯電話はそのままで、女性が怪訝な顔をして拾った。


「本当に、来たのか」


医師はぽつりと言った。


(続く)

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