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第2章 遷移 -3-

-3-


智加はるかはカツカツと音を立てて歩くと、自室のドアを乱暴に開けた。

どうせ一人しか住んでいない新館だ。遠慮をする必要もない。バタンと閉めた音が、辺りに響き渡った。


父親の下品な物言いに、心底腹が立った。


どすっとソファに身体を預けると、天井を仰いで、瞼をぎゅっと閉じた。


手で額を押さえると、暗闇なのか、瞼の裏側の皮膚が見えているのか、よく判らない。ただ苛立って、胸の中にどす黒いものが渦巻いて、溜まっていくように思えた。


あの男の息子なのか?


母はどうして。


そんな言葉が、何度も消えては浮かんできた。



しばらくすると、敷地の外で鳴いている鳥の声が、微かに聞こえてきた。


しんとした部屋の中で、他に聞こえてくるものはない。


だが耳が慣れると、何か小さな声が近くでしているのに気がついた。


智加は訝しげに、耳を研ぎ澄ませた。


何かが、一滴一滴、落ちて積もっていくような、それが声なのか、感情なのか。胸がしんとしてきた。


屑金くずかねか?」


智加は一人ごちした。


おいっと呼びかけても、返事はない。元々、会話など成立したことはなく、勝手に痛みや感情を光で発散させているだけだ。


先日は、明来がサッカーで怪我をした日、急に痛み出して、明来の怪我と関係があるのかどうかもはっきり判らない。


そういう一方向だけの表し方なので、智加も理解し難い存在だ。


だが何かある度に、屑金の反応はあった。結果的にそういうことになるのだが、前触れ、前兆、そのようなものかもしれない。



智加は、ソファに腰掛け直すと、肘載せに肘をつけ、手のひらに顎を乗せた。


「何かあるなら、教えてくれないか?」


問いてみたが、もちろん返事はない。かちかちと、壁掛け時計の秒針が、規則正しく動いているだけだ。

屑金の住む胸辺りに、意識を集中させ、じっと待った。


ただしんしんと、屑金の涙が溜まっていく。


少々、可哀想になってきた。


「なんで、泣くんだ?」


明来あきもしょっちゅう泣いていた。


明来なら、よしよしと頭を撫でたり、肩を貸してやったり、今思うと女性を慰めるのとさほど変わらない。少々自分に呆れて、甘やかし過ぎたかと、智加は破顔した。


屑金の泣く理由が判らない。先日、故郷に近い山の写真を見せたから、里心が出てきただけに過ぎないのか。このタイミングで泣くのは、いまいちピンとこないが。


「どうして欲しい?」


痛みも伝えてない、光りも発しない。こんなことは今まで無かった。

ただ、しんしんと雪が降り積もるように、屑金の悲しみが溜まっていった。


(これは結構きついな)


困った挙句、智加は携帯電話を取り出して、明来に電話をした。


明来はすぐに出た。


東辞とうじ? え、泣いているのか?』


「俺じゃない」


明来にも聞こえるのか、意外なことに驚いた。なぜだか、すっと肩の力が抜けた。自分は怒りでかっとなっていたはず。


『もしかして、屑金?』


「そう。なぜか意味が判らない」


『きっと何かあるはずだよ。苛めたんだろ?』


「するわけないだろ。そんなこと」


電話の向こうで、明来が思案している。


『屑金、どうしたの? 何が悲しいの?』


途端、屑金がまるでひくっと堪えるような声を出した。智加は、え? と思った。自分が言っても無反応だったのだが、明来だと答えるのか。屑金はうぐうぐと、泣き声を堪える子供ようだ。


『屑金、大丈夫だよ。来週は九州へ行くから。必ず、連れていってあげるからね』


明来も屑金の郷愁のことかと思ったようで、話をそっちへ振った。


確かに来週の週末、明来と九州の英彦山行きの約束はしていた。それらしい病院もあったからだ。

今もそこに母の手がかりがあるかどうか微妙だか、取りあえず一泊の予定で行くつもりだ。


ふいに静かになって、智加は胸元を見た。


途端、鉱物の石英のような半透明の輝石が、脳裏をかすめた。薄らと白い光を放ち、ゆっくりと回転している。

これが、今の屑金の姿なのだろうか。黒い墨のようなものだと思っていたのが、なぜ美しい輝石で見えたのか。

胸元には相変わらず、墨で汚したような斑点がところどころあるだけだ。


結局、何だったのか判らないが、静かになった屑金に、明来も安心したようだ。


『大丈夫、かな?』


「らしいな。いきなり電話して、悪かった」


『そんなことないよ。有難う。思い出してくれて』


なんのことだ、と智加はちらりと思った。明来を忘れていたわけではない。横浜の進水式のため、1ヶ月ほど連絡も取れていなかったのは事実だ。


「大学は変わりないのか?」


『うん。ちゃんと行ってるよ。料理クラブにも入ったし、皆優しいし。明日、新歓コンパがあるんだ』


「コンパ? 酒は飲むなよ」


『うん。判ってる。里美君は二十歳過ぎてるから、飲むぞ~って言ってたけど』


「二つ上だったな。先輩に飲まされそうで怖いな。ついていこうか?」


『え? あはは。そんな心配症だったけ? 東辞なんて来たら、女の子が卒倒しちゃうからダメだ』


電話の向こうで、明来が笑っていた。


「なんだそれ?」


『だってこの間、正門で待ってたじゃん? あのあと大変だったんだからー。知らない女の人に呼び止められて、この間の彼、誰? 芸能人? 紹介してっていきなり言ってきたんだから、もうー』


口を尖らせているのが見えそうだ。


「知らん」


『高校の時もさ、東辞狙いの女子を宥めるの、苦労したんだからな。さぞやモテモテなんでしょうね、今も』


「遊ぶ暇もないな。明来にも、会えてない」


『え? あ、……うん』


なぜか急におとなしくなって、明来は無言になった。電話では顔が見えない。智加も少し黙りこんだ。電話で、こうして繋がっているのに、不安なのか、不安でないのか、自分の気持ちすら判らない。


「明来……」


『え?』


そう言って黙りこんで、今度は「明来」、と心の中で呟いた。静かで、明来の呼吸の音すら、聞こえてきそうだ。胸元に手を置くと、すっかりおとなしくなった屑金がいた。

いつもなら、ひりひりとする痛みも、今は全くなかった。


しばらくして、明来が言った。


『東辞、泣いているのか?』


はぁ? と呆れて、智加は返した。


「なんでそうなる?」


『いや、ごめん。なんかそんな気がして』


その時、部屋をノックする音がした。顔を向けると、ドアを開けて入ってきたのは、やはり高宮たかみやだ。


「悪い。高宮だ。また電話する」


『うん。じゃあ』


そう言うと、智加は電話を切った。なんだか尻切れトンボのようで、すっきりしない。


携帯をテーブルの上に置くと、顔を上げた。途端、


「泣いてらっしゃるのですか?」


高宮がそう言った。


ぎろりと睨みつけた。

ばかなことを言う、と頬をぬぐうと、涙が指先についてきた。


眉間に皺が寄った。これは、自分の涙ではない。くそっと舌打ちして視線をずらすと、高宮がいきなり目の前に立った。


「総代を、」


その言葉に火がついた。


ぶわっといきなり自分から風が湧きおこった。小さな円を描いて渦巻くそれを、思い切り壁に叩きつけた。書棚からバサバサと、本が崩れ落ちた。

吐き出した感情に、肩があがり呼吸が乱れていく。


ぎっと睨みつけた目を、高宮は外さなかった。


「総代は、智加さんの幸せを考えていらっしゃいます」


「出て行け」


智加は怒鳴った。


高宮は、まるで聞こえなかったかのように床にひざまずくと、散らばった本を集めだした。一通り拾うと、とんとんと揃えて本棚に直していく。手を伸ばした、高宮の大きな背中が見えた。


「これでいいんです」


なにが?と言わんばかりに、高宮を睨みつけた。


「あなたは、ここでしか生きていけません。いい加減、被害者面をするのはやめて頂けませんか?」


その言葉に、智加はぎっと奥歯を噛みしめた。握りしめた拳がぶるぶると震えていた。被害者面? あの日、自分を拉致して、いいように利用しているは、お前らじゃないのか?


「あなたは、東辞の人間です。蚊帳の外の人ではない。どうか大人になって下さい。ただの宗教団体では、いつか潰されます。久我山くがやまを監視したとしても、あなたを狙う存在は必ず次から次へとでてきますよ。ここで、神社本庁の後ろ楯を得られれば、合法的にあなたは護られたことになります。むやみに手を出せば、神社本庁に敵するものとみなされます。この東辞が、神社として再建できるのですよ。このことは、過去において虐げられたことが間違いだったと、彼らは謝罪したことになるのです」


「それが復讐なのか?」


「一滴の血も流さず。我々は勝ったのです。先代たちがどんな思いだったか? あなたのご兄弟が、マガツ神に憑かれて死んでいくのを、我々は見てきたんです。全ては、東辞のため。人として、幸せに生きるために」


「幸せ? これが?」


「あなたは、ここでしか生きていけない」


智加は顔を両手で押さえた。


「ここから出て、どこで生きていけるのですか? あなたが手をかけた人間を、お忘れですか?」


「わすっ」


母と引き離された日、母に乱暴した男に、呪いをかけた。あの瞬間を、忘れたことなどない。


智加は蹲った。耳を塞ぎ、ぎゅっと目を瞑った。口を引き結び、ぐっと奥歯に力をかける。こうすれば、こうすれば何も自分は言えないはず。


「神社が完成すれば、色々な方が参拝に訪れます。脅かされる不安もなくなり、充実した日々が送れるでしょう。家庭を持って、家族を作って、あなたの土台を作るのです。そうすれば、ただの普通の生活が幸せだと気付くはずです」


婚約者の小早川章子の顔が目の前をよぎった。ただ一度会っただけだ。自分より二つ上で、長い黒髪で、清楚な女性だった。口数も少なく、ただ微笑んで相槌をうつ程度だ。無言で、ただ座っていた自分に、微笑みかけた。何も感じない。そんな女と家庭を作れというのか。


「新館のほうに、お二人のお部屋を作ります。一緒に住めば、情もわくでしょう。穏やかで、優しい方ですよ」


智加は顔を上げなかった。


高宮はしばらく無言でいたが、ドアの閉まる音とともに出て行った。



(続く)

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