第2章 遷移 -2-
-2-
6月の爽やかな風が吹いていた。智加は目を閉じ、深い呼吸をした。しんと静まり返って、街の喧騒も聞こえない。
「準備はよろしいですか?」
脇につく高宮が声をかけた。
進水式の開始、10分前だ。式典の場は、高宮が整えた。何もかも万全を期している。天候も悪くない。真っ暗な闇の中、穏やかな汐の満ち引きの音だけが、耳に聞こえてきた。
高宮に頷くと、神官の衣装に身を包んだ智加は、式の会場へと歩き始めた。
式典は、横浜港の船上で行われる。爽やかで穏やかな一日の終わり、深夜零時に行われる神事は、ひっそりと関係者だけが招かれ、報道陣は一切なかった。神社本庁の撮影があるのみだ。
貴賓席には、東京都庁から都知事並びに関係者、横浜市長、海上自衛隊の高官らも来ていた。
突然、智加は息を飲んだ。
その後ろに、久我山要三の顔があったからだ。
まさかこの場に姿を現すとは。その横には、神社本庁の研修会で会った統理代理の守部の顔もあった。
守部は神社本庁の人間だから判るが、神社本庁には所属しない光輪協会の久我山がなぜ?
確かに相談役をやっていると言っていたが。
咄嗟に視線を戻した。
式典の開始だ。今から、海の神を呼ばなくてはならない。
--
無事に式典は終わり、ホテルの控え室に戻った。
何事もなく、終わった。神事は成功した。神は降りた。自分にとっては当たり前のことだが、貴賓席ではどよめきが上がった。実際、東辞智加の祝詞を聞いたのは、これが初めてだろう。
神社本庁の人間にとって、如何に慣れた神事であろうと、智加の祝詞の威力は普通ではないことが判ったはずだ。
ソファに座り、真っ白な衣装のまま、智加は目を瞑った。
少し疲れたな。
時計を見ると、明け方の三時になろうとしていた。
上着の紐を外して、前を開けると、ふうと息を吐いた。
高宮はさっさと着替えたらしく、紅茶を持って部屋に入ってきた。
「ルームサービスですが、どうぞ」
爽やかな紅茶の、ぎとぎとしない香りが鼻をついた。少し深呼吸をすると、智加はカップに手を伸ばした。白磁の柄も何もないカップに、透き通るような黄金色が目に入った。
一口、口に含むと、それは温かだった。自分の身体が冷えているのが、今頃判った。
東辞家は、神社ではない。神職としての位階も授かっていない。装束は位階によって袴の色や柄が決まっているが、東辞家は全身真っ白の装束だ。
本来、白は特級神職の袴の色で、「八藤丸文大文白」という白紋が入っているが、東辞家は、家紋すら刻印をしていなかった。第一、家紋なんて見たことがない。
久我山の言葉を信じるなら、都を追われ『東に辞した一族』で、ついた名前が「東辞」と。
「久我山要三がいましたね。まさか堂々と姿を現すとは、神社本庁との癒着は深いと思ったほうがいいですね」
高宮が言った。
智加は視線を動かさなかった。
「その横にいたのは、神社本庁統理代理の守部。まさかこんな大舞台に顔を出すとは、呆れましたが」
高宮も守部の顔はチェックしたようだ。
「アメリカ国籍で、茶髪で長髪で、よく神社本庁に入れましたね。一体、どんなコネを使ったのやら」
「東辞亘と、因縁があるんだろ?」
高宮の顔が、一瞬にして強張った。
見ていて面白い。急に眉を寄せると、渋い顔になって俯いた。
「あの男が喋ったのですか? 貴方が、気することは何もありませんよ」
「そうだな」
ほんと、どうでもいい。俺たちに手を出してこなければ、だ。
ふいに、明来の顔が現れて、身体から力が抜けた。
大学には、ちゃんと行ってるのだろうか? 進水式の準備で、ここ2週間ほど、会えていない。最後に会ったのは、5月の半ばか、卵焼きを作ってきたが、やはりひどい味だった。砂糖の入れ過ぎで、焼け焦げた卵焼き。
自然と、口の端が緩んだ。
もう、随分昔のことのように思える。
「神社本庁から、連絡が来ました。明日、総代は出向くつもりです」
ふんと言って、智加は無視をした。
「智加さんはお気づきにならなかったかもしれませんが、神事が終わったあと、神社本庁の関係者一同、顔色を失っていました。東辞家の実力を目の当たりにして、どたまをかち割られた気分、だったと推察されます」
「すごい言い方だな」
「小気味いいでしょう? 彼らは目の前で、神を見たのですから」
高宮がにやりと笑った。いつも人を食ったような、本心を出すことのない高宮が、珍しく感情を露にしていた。
確かに茫然自失の体だったのは、見て判った。鼻をあかしてやった、とはこのことだろうが、自分には何の利もない。
小気味いいのは、父だろう。さてどう出るか。
高宮がすっと立ち上がった。
「しばらく仮眠を取られてはいかがでしょう。装束を脱がれて下さい」
と言って、智加のほうに手を差し伸べた。
智加は立ち上がると、上着を脱いだ。袴もばさりと脱ぎ捨てると、高宮が床に落ちた衣装を拾い、たたみ始めた。
装束をまとめて持つと、高宮は立ち上がった。
「成長されましたね」
振り返ると、高宮がすぐ傍にいた。
自分より背が高い。
顎を上げ、高宮に目線を合わせた。
薄茶色で、色素が薄い。前髪がぱさりと落ちて、細めた目が柔らかく、微笑をたたえていた。
「貴方の人生は、これから大きく変わるでしょう。どうか迷わず、前に進んで下さい。貴方の後ろには、必ず私がついております」
気色悪いことを言う。じろりと睨み上げると、無視して浴室へ歩いていった。
その翌日、父の亘と高宮は帰ってきた。智加は大学もあり、一足先に帰っていた。
帰宅した途端、亘は本館の書斎に、智加を呼びつけた。
「神社建立?」
思わず声に出してしまい、智加は咄嗟に口をつぐんだ。
「神社本庁から、直々に傘下に入って欲しいと言われた。階級も特級で迎えるそうだ。神社を建てて、地域一帯の平癒を委託された」
亘は胸を隆起させて話した。目は輝き、神社建立の設計書まで、取り交わしてきたらしい。
高宮は無言で、ただ微笑んでいた。
智加は薄ら寒くなった。たった一度の進水式で、いくら本物の神を呼んだのを目の当たりしたからと言って、この計らいは一体何なのだろう。
「建立は、来週から行われる。屋敷から離して、ふもと辺りがよいだろう。参拝客も足を運びやすい。鳥居までの道路も整備させる。何もかも神社本庁が用意してくれるそうだ。当然だ。我ら白山神道の脅威を目の当たりにしたからな。横浜でのあやつらの顔、胸がすく思いがしたぞ。実力の差だ。我らを貶めた罪、これから存分に償わせてやろうぞ」
亘の高笑いが鳴り響いた。
智加はきびすを返して、部屋を出ようと歩き出した。その背後から、亘が言った。
「3ヶ月もあれば、神社は建つ。神官はお前だ。大学なんぞ辞めてしまえ」
思わず、足が立ち止まった。振り返りたくはなかった。
「来月には、小早川章子を呼んで暮らせ。とっとと孕ませろ。10月には結婚式だ。いいな」
指先をぐっと内に握りこんだ。込み上げる吐き気を、智加は抑えることができなかった。
(続く)