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第10章 愛しいあなたへ

第10章 「愛しいあなたへ」


自分のそばから、静かに離れていく温もりに目が覚めた。

もうそんな時間なのか。

智加はるかは腕を伸ばすと、その身体を引きめた。


「ごめん。起こした? まだ早いから寝てろよ」


ちゅっという軽いリップ音を響かせて、智加の額にあった温かい唇が離れていった。

毎朝のことだが、なんでパン屋なんてところでバイトをしてるんだ?

少し拗ねて、自分の腕の中に引き入れた。


「わー、もうダメだって。遅刻するー」


構わず、智加はくだんの相手の首筋に舌先を這わせて口付けた。


「なにすんだよ、ばか」


ぐいっと顔を押し上げられて、片方の目をしぶしぶと開けた。


「だーめ。今日は新作のパンを焼く日だから、遅刻できないんだ。それに、今日は高宮たかみやさんが来るんだからあ」


らあってなんだよ、最後は嬉々とした声だ。


「ふふふ、すごい楽しみ。3ヶ月ぶりなんだよ。オレの焼いたパン、食べてもらうんだー」


にこにこと笑っている明来あきに、智加はむっとなった。


「そんな顔をしてもダーメ。リビングの掃除、ちゃんとしといてよ」


智加の腕からするりと抜けて、明来は寝室を出て行った。


明来のいなくなったベッドに長居する気にならず、身体を起こすと枕もとのスマホを触った。

高宮からラインが10件ほど入っている。ったく、ストーカーだ。

ざっと読むが、返信はしない。

身支度を整えて階下に降りると、明来がキッチンで紅茶を淹れていた。琺瑯ほうろうのケトルからは湯気がたって、ふわふわとした蒸気が明来の顔の前で揺れている。キッチンの流しの前は出窓になっていて、朝日がきらきらと明来の顔を照らしていた。湯気は小さな蒸気の水滴で、鱗粉のように光っては舞っている。顔色も良い。朝早く起きるリズムも、明来にはあっていたらしい。


『おはよう』


「おはよう」


ケトルを置いた明来のそばにいき、その頭を引き寄せた。柔らかな髪を何度もすいて、口付けた。明来はくたりと力を緩め、体重を預けてくる。その背中に腕を回し、壊さないように優しく抱きしめた。明来は大きな目をやんわりと細めて、微笑んだ。

毎日の日課だが、こうして明来の笑顔が見れるのは何より嬉しい。


「スープ、作ったよ。あと冷蔵庫にクロテッドクリームあるから、スコーンにつけて」


『ありがとう』


「じゃあ行ってくる」


モッズコートをはおって玄関へと向かう明来のあとをついていった。観葉植物のセラムの葉は伸びすぎていて、切ってやらないといけなかった。セラムは人の心が判るそうだから、少しは遠慮してもらいたいものだ。

ここは、賃貸で借りている2階建ての一軒家で、二人で住むには十分な広さだ。特に一階のリビングダイニングはとても広い。設計ミスなのか玄関は狭くて、それに明来が集めてくる流木や観葉植物で、人ひとりが通れるくらいだ。セラムは高宮たかみやに貰ったもので、明来がせっせと世話をした。世話だけでなく、よく喋りかけている。おかげで答えるかのように、葉をどんどん伸ばしていった。自分が切ろうと言うと、ダメと言う。


『忘れものはないか?』


「オッケー、ばっちり」


コートの襟もとをとめて、スニーカーを履くと、顔を上げた。玄関の棚に置いている自転車のカギを取る。


「じゃ」


智加はドアに手をついてかがむと、明来の頬に手をかけ、唇に軽くキスをした。

明来は赤い顔をして、智加の手をぎゅっと握った。


「ちゃんと帰るから」


『待っている』


「待ってて。オレを」


セラムの葉がさわさわと揺れた。

明来の瞳をじっと見つめて、髪を撫でる。指に毛先を絡ませた。柔らかなくせ毛は高校生の頃から変わらない姿で、紅潮した頬にふっくらとした唇。温かい。俺の手は冷たかっただろうか。済まない。触れた指先を少し引いて、智加は唇を引き結んだ。その手に明来が手をかけた。


「大丈夫だよ」


口元から息が漏れている。髪の色と同じ薄茶色の瞳が濡れて、自分をじっと見ていた。少し開いた唇。たまに噛み跡が残っていて、俺を心配させる。

温かい。温かい。俺の指先を掴んで微笑んだ。

まつ毛に水滴が宿る。瞳の光彩が大きい、二重のくっきりした目だ。少し閉じてまつ毛が重なって瞳の光彩を隠している。明来はこんなに綺麗だったろうか。肌も頬も通った鼻筋もふっくらとした下唇も。花のような匂いに胸が締め付けられた。


少し俯いて、髪に顔をうずめ、口付けた。



明来は自転車に乗ると、颯爽と走っていった。白い砂が自転車のタイヤから巻き上がっていた。

早朝のパン屋のバイトは、午前中には終わる。それまでの時間、智加も自宅で仕事をしていた。


ここは海に近く、舗装してない道は海の砂が混じっていた。今は10月の初旬だ。暑さも一旦落ち着き、ようやく気持ちのよい季節になってきた。ここは太平洋側なので、冬になっても雪が積もることは滅多にないが、海風は強かった。


少し小高い丘の上に家は建ってた。近くに住宅街もなく、国道も離れているので静かだ。多分別荘として建てられたのだろう。あまりに便利が悪いのか、誰も借り手がなく空き家だったようだ。

玄関の階段を下りて、リビングから連なる外庭のウッドデッキのほうへ歩いていった。そこから先は植物が生い茂り、白い砂浜が見えてくる。そして海だ。耳を澄ますと、ざざーっという波の音が聞こえてきた。

智加は両手を頭上に伸ばして、大きく伸びをした。ふうと息をはくと、鼻孔をくすぐるのは、潮の匂いだ。天気の良い日は潮の匂いが届いてくる。


静かだな。


しばらく、智加は景色を眺めた。



その日の夕方、高宮がやってきた。両手に抱えきれないほどの手土産を持って、元気な顔を見せた。ここには車で来て、一晩泊まって帰るのが日課になっていた。


食事も終わり、リビングのソファでくつろいだ。三人掛けの大きなソファに、高宮と明来が座っている。目の前に明来の入れた紅茶が、ゆったりと湯気を上げていた。


「あーお腹いっぱいです。明来さんのパン、とても美味しかった。中に何が入っているのですか? ドライフルーツは、いちじくとオレンジですか?」


「わー当たりです。みかんは伊予柑ですよ。すごい。流石は高宮さん」


「いえいえ。伊予柑ですか、名産ですよね。確か小さな黒い粒も入っていましたが、あれは何だったのでしょう?」


「ブラックシードです。亜麻仁というやつで。地中海沿岸原産のキンポウゲ科の種なんですけど、すごい栄養素が高くて抗酸化物質もあって、スーパーフードらしいです。免疫力がアップするんですよ」


「私にはぴったりですね。食感がぷちぷちして美味しかったです。肉料理の煮込みにとてもあっていました。お肉も柔らかくて美味しかったです。腕を上げましたね」


「よかった。久しぶりに煮込みを作ったので、上手くできるか心配だったんです。東辞も野菜を切って、手伝ってくれたんですよ」


「え、智加さんが料理を? あの智加さんが?」


驚いた顔をして、高宮がこちらを見た。その顔をじろりと見返した。これくらいはできる。というか、やれば何でもできる。料理はいっそ明来よりは上手だ。


途端、明来が抗議の声を上げた。


「えー。オレの方がうまいもん」


『卵焼き、また焦がしただろ?』


「東辞が卵焼きは甘いほうがいいって、言うからだろ?」


『普通だ。レシピの写真だって焦がれてない』


「むー」


明来がじいいと睨みつけてきた。智加は素知らぬふりをして、ふいと視線を外す。明来はぷっと唇を尖らせた。

高宮がそのやり取りを見ながら、くすくすと笑った。

実際のところ、高宮には明来が喋ったところしか聞こえていない。俺の声は失われたままだ。


「もう、高宮さんまでー」


「はは、なんとく想像できて」


「あ、すみません。東辞がなんて言ってるのか、説明してないのに、オレって」


「いいんです。なんとなく判りますから、笑ってしまってすみません」


まだ面白いのか、高宮は口元を押さえてくくっと笑った。


「なんだかお二人を見ていると、昔を思い出して。明来さんの手料理、とても美味しかったですよ。パンまで焼けるようになってるなんて、3ヶ月会わない間にすっかりパン職人さんですね」


「いえ、まだまだです。ブラックシードも店長が沢山入荷させちゃって、使っていいよーて言われて、作ってみたんです。これ、塩味タイプと甘いおやつ系のカスタードクリームを練りこんだのがあるんですよ。今日は肉料理だったので、塩味にしました。明日の朝食は甘いのにしますね」


『俺はカスタードが好きだ』


明来がふふと微笑んだ。


「東辞は意外と甘党だよね」


しーと言って、指を口元に当てた。


「高宮さんのお土産、東辞がすぐ食べちゃうんですよ」


高宮が驚いてこちらを見た。智加はばつが悪くふいと横を向いた。


「それは嬉しい。何がいいかなといつも迷ってしまって」


「いつもありがとうございます。この間は僕にまでダウンコートを、あれすっごく暖かそうで、冬がくるのが待ち遠しいです」


高宮が早々に送ってきたものだ。明来にカナダグースのダウンコート、ラビットファーの襟がとても暖かそうだった。自分には極上のカシミヤのコートだ。本当にいやらしいくらい、相手の望むものをどんぴしゃで贈ってくる。ほんとに次から次へと。先月は帽子に手袋にモッズコートだ。その前は食器乾燥機だったか、数えたらきりがない。ここも長くは居れないから、あまり物を増やしたくないのだが。


「使って頂けると嬉しいです。ここは海風が強いですし、明来さんが風邪をひかれたら、私は心配で夜も眠れないですよ」


「高宮さん」


「離れて暮らしていますから、これくらいはさせて下さい。私は、明来さんのことが大事なんです」


感動したのか、じわじわと目元を緩めていく明来に、高宮はソファに座ったまま両手を広げた。さあとでも言わんばかりだ。


明来も明来で、その腕に飛び込んでいく。ぎゅうと抱きしめる高宮は満面にっこり顔だ。相変わらずのひとタラシ。呆れてものも言えないが、5秒たったら引きはがしてやる。


「なぜ、明来さんには智加さんの言っていることが伝わるんでしょうね」


「不思議ですよね。東辞に確認とってるわけじゃないので、実際はどうなのか判らないんですけど。物理的に東辞の声が耳に聞こえてくるわけじゃないんですよね。なんかもし心っていうのがあるとしたら、そこに響いてくるって感じで」


「愛なんですかね。それなら私にもできます。智加さん、筆談は不要です。あなたと私なら身も心も一つのはず。さあ、おっしゃって下さい、心の声で」


目力めぢから強めに向かってくる高宮に、むっとなって明来に顔を向けた。そのまま言ってやれと伝える。


「あのー、うざいそうです」


「ええ?」


高宮は目を見開いて固まった。

明来が申し訳なさそうな顔だ。ぐったりとうなだれた高宮。結構笑える。明来もだんだん笑いだした。高宮に遠慮はいらない。くすくすと明来の笑い声が響いた。


食事の後片付けも終わり、あたりはすっかり夜のとばりに覆われた。時間は22時を過ぎたあたりだ。

リビングの全面のガラス戸を開けると、そこはウッドデッキに繋がっていた。中庭から景色を楽しむようにソファとテーブルが置いてあった。智加はそこにあるソファに座っていた。夜の空気はひんやりとして、食事で熱を持った身体を心地よく冷やしてくれた。

明来の淹れた紅茶を飲んでいる。夜空の星が見えるから、ついここに来てしまう。

高宮がきいと音を立てて、そばに座った。暗い夜空を見上げて、


「あたなは小さい頃から、星が好きでしたね」


ぽつりと言った。夜空を見上げたまま、微笑んでいる。その横顔を、智加は返事もせずに見ていた。

ここは街中から離れ商業施設も遠いため、辺りはしんとして真っ暗だが、その分、星が沢山見えた。時折、遠くで灯台の明かりが回り、光が見えた。ざーという波の音が、今はよく聞こえてくる。


「あの時、明来さんから電話をもらった時、正直」


言葉を区切って、高宮は言った。「信じられませんでした」と。

それから俯いて、両手を組んだ。こちらを見ることなく、淡々と喋り出した。


「この私が、どれほど探しても、見つからなかった。日本全国、何年も調査して、それらしい人を見たと聞けば、東奔西走しました。それでも見つからなかった。なのに、今度は本人からの電話だなんて、夢でも見ているのかと震えました。流石の俺も、気が動転するとはこういうことなのかと。でも、確かに明来さんの声だったんです。今思い出しても、あの時のことは忘れられません」


その様子は、想像だにつく。常に冷静沈着な男が慌てふためいただろう。その姿を思い描いて、なんとも言えない気持ちになった。


煙草いいですか? と聞いて、高宮はジャケットの内ポケットから一本出して、火をつけた。今時、電子でなく紙煙草を愛飲しているあたり、高宮らしい。

暗闇に点いたライターの明かりが、その端正な横顔を照らし出した。


「磯の上の 都萬麻つままを見れば 根をえて 年深からし 神さびにけり」


高宮が歌う。それは大伴家持の歌だ。

海辺の都萬麻つままの老木を見ると、根を大きく張って年月をかなり経ているらしい。その姿は神々しく、まるで目の前に神が現れたかのようだ、という歌だ。



「感謝しています。あなたに。明来さんに」


そう言って、高宮は目を閉じた。

智加は驚いて何も言えず、ただ横に座っていた。

高宮は、感謝を歌に寄せたのか。ここにこうして、また3人で語り合える奇跡を。

いつもと同じ種類のタバコは、年月を経ても変わっていなかった。


「あなたは、神を見たのですか?」


急に高宮が聞いた。前置きもなく、真面目な面持ちだ。いきなり切り出した言葉は、もしかしたらずっと心の中にあったのかもしれない。智加の返事をじっと待つように、静かに、それでいて強い視線で見つめてきた。智加は持っていたカップをテーブルに戻すと、その視線をやんわり外した。あれがそうだったのか、正直よくわからない。


あの時の自分は、どう考えていたのだろう。

明来を両腕に抱いて、しゃがみ込んでいた。

もう、どうにもならない。指の間からすりぬけていくものを、自分にはとどめるすべはなかった。悔しいとか恐ろしいとか、ぐちゃぐちゃの感情が渦巻いて、立っていられなかった。


大切な、唯一何よりも大切だった存在が、智加の腕の中から消えていく。己を罵倒し呪っても、叫び声をあげて神に祈っても、もうどうにもならないのだ。


東辞智加には、斉藤明来は救えない。

それは出会った頃に知ったことだ。智加の母親と同様、明来は智加の言霊の影響を受けない人間だったからだ。全世界の人間は救えても、明来だけは救えなかった。

だから、離れた。

自分のそばにいて狙われたら、どうにもできないと考えたからだ。

それを言い訳にした。

本当は、自分が傷つかないように、離れていったに過ぎなかった。


なのに、

まだ温もりのある顔に、何度も口付けた。

もっと早くこうしていれば、

どちらにしろ、失うなら。

白山神道がどうなろうと、親父が激高しようと、明来さえいれば。

くぐもった嗚咽が、智加の喉の奥から込み上がってきた。


あの時、俺はすべてをにしようと思った。


逃げて、逃げて。こんなところまで一人で来て。

どれほどの苦しみだっただろうか。

お前を苦しめたのは、この俺なのだ。


自分を許さないという感情はずっと己を縛る。自由になれない。そんな苦しみを、死んでまでなお、明来に持ち続けて欲しくなかった。


すまない、明来。

俺にできることは、これしかない。


手放そう。すべてを。苦しみも悲しみも、愛も。もう何も必要ない。

俺たちは何も残らない。


だから、眠れ。

もうお前は苦しくない。


そう思った。



「あなたは神を見たのですか?」


答えは否だ。ただあれはなんだったのだろうという、一瞬の記憶は残っていた。


俺たちは海堺うなさかにいた。そこですべてを無に帰するはずだった。無音でまっ白な闇の中、俺は膝の上に明来を抱いていた。その身体を放さないよう、握りしめていた。


意識が薄れていく中、下から何かしら大きな力が、俺たちをすくい上げた。まるで水の中の魚でもすくうかのように、簡単に気まぐれに。

その一瞬しか覚えていない。

あれが神だったのかと言われたら、判らないとしか言えない。俺は何も見ていないのだから。


そして気が付くと、浜辺に明来と二人で座っていた。


メモ帳を取り出すと、まっさらなページをめくり、ペンで書いた。


『見ていない』と。


高宮は少し目を見開いて、それから寂し気に笑った。タバコから灰がぽとりと落ちた。そしてそれ以上、何も聞かなかった。


「誰かを幸せにするのは難しいですね。あなたは一体どうやって、明来さんの笑顔を取り戻したんですか?」


智加は、書いた。『取り戻せてなんていない』と。


明来のコップは割れてしまった。それでも、俺は注ぎ続けるだけだ。


パタパタとスリッパの音を立てて、近づいてきた明来を見た。ただじっと見つめて、見つめ続けて、心を込めて送る。

途端、明来は真っ赤になって下を向いた。


大切にしたい

この先、何があろうと

今、この一瞬を、二人で生きている


「あれから10年ですか。お二人は、変わりませんね」


高宮はしみじみと言った。優しげな目だ。

智加は横に座った明来に振り返った。明来もこちらを見て手を伸ばしてきた。


あれから10年が経っていた。

俺たちはあの海で消失した19歳の姿のままだった。高宮に連絡して、こうして暮らしていけるようになって10年が経った今も、年をとることなく、19歳のままなのだ。


高宮は白髪の混じった前髪を掻き上げた。笑うと目じりのしわが目立つようになっていた。


まるで時間という世界から放り出されたように、俺たちは年を取らなくなっていた。時間の進み方が違うのか、まったく違う次元に存在しているのか、判らない。

この先どうなるのかも、俺には判らなかった。


俺たちの時間は止まったのかもしれない。

それとも終わったのかもしれない。

今、この一瞬で、消えてなくなる泡なのかもしれない。

もともと高宮と同じ時間にいるとは考えにくい。それに、永遠に続くものなど何一つない。俺たちは判っている。だから明来も「ちゃんと帰るから。オレを待ってて」と言う。


俺たちは世界の時間軸と外れたところで存在している不確かなもの。

あの海で死んだのだから。


いつ終わるのか。

だからこそ、今この一瞬を切にたたえよう。


智加は明来の手を握りしめた。明来はじっと見つめると、こくりと頷いた。

高宮に振り返ると、真っ直ぐに見た。握りしめたメモ帳の、随分前のページをめくった。以前、メモ帳に書いておきながら、なかなか出せなかったページだ。それを今ようやく高宮に見せた。


『母を守ってくれたこと、ありがとう』


『幼いころからそばにいてくれて、感謝している』


高宮が目を見開いた。口が開いて、前髪がはらりと落ちた。唖然となって、動くことができないでいる。

どんなことがあっても慌てない、冷静沈着な男の、そんな顔を見たことはなかった。


「は、あなたという人は」


『これからも、明来と俺を頼む』


そう言って、智加は目を閉じた。頭を下げて、高宮に感謝の意を伝えた。明来もそばで頭を下げていた。

何気に恥ずかしくなって、智加は立ち上がった。冷えてきたな、もう戻ろうと明来に伝えた。

刹那、高宮がばっと手を広げて、自分を抱きしめた。俺よりも背は高いので、おのずと高宮の肩あたりに顔がすっぽり埋まった。ぎゅうと力が強くて、息ができない。


うわ、おい、ちょっと?

やめろ、はなせ


『助けろ、明来』


一瞬、固まった表情を見せた明来は、とたん満面の笑みに変わった。さーと血の気が引きそうだ。


「わー。オレもオレもー」


明来が突っ込んできた。

何の図だ? 拷問か?


高宮と明来に羽交い絞めにされて、俺は笑っていた。


夜風がふわりと香りを乗せてきた。鼻孔の奥をくすぐるのは、そう昔とても懐かしい。甘い、萩の香りだった。


(了)



※長い間ここまで読んで下さり、誠にありがとうございました。

智加と明来シリーズはこれで一旦終わりとなります。

今後は甘い生活を書いていきたいと思っております。その時は、ムーンライトノベルのサイトで書くつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。

ムーンライトノベルでは、中井小衣なかいこころという名前で、がっつりなBLやホラーBLなど書いております。もしご興味ありましたら、お越し下さい。お待ちしております。

ありがとうございました。


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