第9章 旅 -9-
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明来は、息を引き取った。
智加はその身体を抱いたまま、動けなかった。
どのくらい時間がたったのだろう。辺りは真っ暗で、波の音だけが静かに聞こえてきた。弦楽器のつまぶいた旋律ように、波の余韻が響いていく。寄せては引いて、何度も何度も繰り返して、だがそれは決して元には戻らなかった。
空気は冷えて、潮の匂いとはらんだ湿気の匂い。水平線との境も判らず、ただ波の音だけが耳に響いた。頭上に顔を上げると、月もない。新月なのだろう。
ふうっと息を一つはいた。
笛の音のような声が、微かにした。明来とその名を呼ぶ。智加の発する声は、もう言葉にはならない。ひゅうひゅうと壊れた笛のようだ。それでも瞳を閉じ、喉の奥から絞り出した。
高天原に神留まり坐す
皇が親神漏岐神漏美の命以て
八百万神等を
神集へに集へ給ひ
神議りに議り給ひて
天の益人等が過ち犯しけむ
種種の罪事は
天津罪国津罪
許許太久の罪出む 此く出ば
天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切りて
末打ち断ちて
千座の置座に置足はして
天津菅麻を本刈り断ち 末刈り切りて
八針に取裂きて
天津祝詞の太祝詞事を宣れ
宣れ
宣れ
何度も叫んだ。
喉が切れて、口内に血がにじんだ。唇を引き結び、目がしらに力を入れた。明来の身体を自分の胸に押し込める。
この祝詞は、一度たりとも使ったことはなかった。
全てを薙ぎ払う、取り払う、存在すら、微塵も残さず。
智加にとって、それほど大事にしていた祝詞だ。
罪と言ふ罪は在らじと
科戸の風の天の八重雲を
吹き放つ事の如く
朝の御霧
夕の御霧を
朝風夕風の吹き掃ふ事の如く
大津辺に居る大船を
舳解き放ち
艪解き放ちて
大海原に押し放つ事の如く
彼方の繁木が本を
焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く
遺る罪は在らじと
祓へ給ひ清め給ふ事を
高山の末
低山の末より
佐久那太理に落ち多岐つ
早川の瀬に坐す
瀬織津比売と伝ふ神
大海原に持出でなむ
此く持ち出で往なば
荒潮の潮の八百道の八潮道の
潮の八百曾に坐す
速開都比売と伝ふ神
持ち加加呑みてむ
此く加加呑みては気吹戸に坐す
気吹戸主と伝ふ神
根国底国に気吹放ちてむ
此く気吹放ちては根国底国に坐す
速佐須良比売と伝ふ神
持ち佐須良比失ひてむ
此く佐須良比失ひては
今日より始めて
罪と伝ふ罪は在らじと
今日の夕日の降の
大祓へに祓へ給ひ清め給ふ事を
諸諸聞食せと宣る
呑みほせ
何もかも
俺たちは消える
ただ一つの思いもない、悔いもない、悲しみもない。
俺たちを隔てるものは何もない。
ただ一つの細胞。
苦しみは去った。
こうやって、ずっと抱いている。そばにいる。
今は眠れ。
智加は明来の身体を抱き上げ、波打ち際に向かって歩き出した。しっとりと霧雨のような雨が降り出した。
波の力は強く、智加は明来を放さないようにしっかり抱きしめると、さらに深い海の中へ進んでいった。海水は膝を越え、明来を越え、智加の肩を越えて、ついに頭上を越えた。とぷんと波音が一つして二人の姿は消えた。あたりは何事もなかったかのように、静寂に覆われた。
(つづく)




