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第9章 旅 -8-

-8-


バスから降りると、一気に潮の匂いが明来あきを包み込んだ。鼻孔をすり抜け、全身にまとわりつくような潮の匂いだ。胸いっぱいに吸い込み、ふうとはきだして、顔を上げた。

空は雲一つなく、太陽は輝いて、秋晴れの良い天気だ。眩しくて思わず手で顔を覆う。指の間から幾筋にも抜けてくる光が、とても暖かった。自然と頬が緩んでいく。歩道にあった案内板の通りに行くと、一気に視界が開け、海が広がっていた。


なんて贅沢なのだろう。


平日のこんな時間に人なんていない。目の前は明来だけの海だ。

秋が深まって、少し肌寒い風が吹いていたが、嬉しくてはしゃぎだしそうだ。足の痛みも忘れて、心がどんどん大きくなっていく。すうーと胸いっぱいに深呼吸をして、目を閉じた。


海風が明来へと吹いてきた。潮の匂いと砂の匂い、湿度をはらんだ土の匂い。ここにしかない匂いだ。砂粒の一つ一つが真っ白で、明来のスニーカーは既に砂まみれだ。気にせず波打ちぎわまでいくと、すっと立ち止まった。


小さな砂が泡にはじけてくるくると飲み込まれていく。ざぶんと打ち寄せる波。さーと引いていく波。繰り返し聞こえてくる波の音が、耳に心地よかった。しばらく耳を傾けながら、今度は水平線のほうに目を向けた。穏やかに一直線に引かれた水平線に、あれは漁船だろうか、小さな船が見えた。ここからだとまるで止まっているように見えた。


気持ちいい。


ただじっと見ているだけだ。それだけで、なにか心が整っていくようだ。人はやはり自然の中にいると、気持ちが落ち着いてくるものなんだな。


バス通りから海へと続く敷地の一部は石畳で覆われ、ずっと続いていた。明来は一旦そこへ戻ると、石段に腰をおろした。喉がカラカラだ。樹木が茂って日陰をつくっていた。ペットボトルのお茶を飲みながら、ゆったりと前方を眺めた。目に飛び込んでくるものは、カモメの遠い空を飛ぶ姿、水平線に浮かぶ小さな船、青く淡い海の色、打ち寄せる波。広く開けた空間、さえぎるものは何もない。


目を閉じ、真夏の人で賑わいだ様子を想像してみた。海の家が何軒も並び、サメのビーチボードや食事処のノボリがはためき、子供らが浮き輪を背負って海に走りこんでいく。ざぶんと波にもまれて頭からずぶ濡れで、嬉々とした甲高い声が溢れている。


明来はふふと笑うと、自分の海水浴の記憶をたどった。明来の住む地域は内陸にあり、あまり海に行った記憶がない。母に連れられプールにはよく行った。としまえんとか大きなところじゃなくて、市民プール的なところだ。小学生になったら友達と行って、水泳教室にも通った。プールサイドのコンクリートが熱くて、足の裏がひりひりして、塩素の匂いが嫌いで髪がぼさぼさになった。水は冷たかったな。25メートルをクロールで泳げた日は、とても嬉しかった。友達と一緒に帰りにコーラでお祝いしたっけ。テレビのCMみたいにあいつが瓶を振ったりするから、道端でどばーっと噴き出して、転げるように笑った。シュワシュワして、これが大人の味なのかって、飲むたびに喉の奥がひりひりした。オレは駄菓子屋で何を買ったろう? あの頃、集めていたカードは何だった?


明来は目を開けた。手のひらを見ると、ぱさぱさになって粉をふいて血の気もない。ピクリと指先が動いた。


何も残っていない。

火事で焼けた。

お母さんの白いエプロンも。


指先を握りこんだ。ぎゅっと力を入れると、血の気が引いて白くなった。冷たく油気もない手だ。二十歳にもなっていないのに、まるで生気も赤みもない。視線をはずして、足元に目を向けた。小さな砂粒が風に吹かれてさらさらと流れていった。その砂の上に、影が動いた。


明来はぎょっとなった。

眉間がゆがむ。

なぜ、ここに、こんなところに。

目の前の光景が信じられなかった。


ばかな、オレは夢を見ているのか?


目の前に、東辞智加とうじはるかが立っていた。


すらりと伸びた身長、黒髪が風になびいて、逆光で顔はよく見えない。怒っているのか、目の前にすっと立って、指一本動かさない。本物なのか、オレは幻覚を見ているのか? 明来は恐怖で動けなかった。背中が冷や汗でじっとりと濡れていく。


その瞬間、智加がばっと腕を振り上げた。


殴られる。咄嗟とっさに力が入った。あっと思った瞬間、明来は智加の腕に包まれていた。

何が起こったのか理解できない、足がもつれて立っていられないのだ。

智加に抱きしめられ、その胸に顔をうずめている。ぎゅっと力を込めてくる腕に、明来は唖然となった。強張った身体が緩められない。


茫然としていると、智加の鼓動が伝わってきた。震えているのだ。覆いかぶさるように顔を明来の肩にうずめ、小刻みに震えているのだ。

耳元で、智加の息遣いが聞こえてきた。口の隙間から出てくる声は、ひゅうひゅうと言って、まるで壊れた笛の音のようだ。

初めて判った。智加が声を失ったということを。明来はかっとなった。


「放せっ」


明来は抗った。腕を突っ張り、懸命に抵抗して智加から逃れようとした。だが智加はそれでも放すまいと、さらに力を込めてきた。


「なんで潰したんだ? なんでっ。喋ろよ。オレのせいだって怒鳴れよ。オレになら何でも言えたじゃないか。なんか、言えよ、いつもみたいに」


智加の耳元に叫んだ。


「オレのせいだ。全部オレの。東辞、なんで? オレだけならよかったんだ。なんでお前まで。いやだ、こんなことは、いやだ」


がくがくと膝が折れて、智加の腕の中に崩れていく。自分の身体なのに、もうどこにも力が入らなかった。嗚咽が喉の奥から出てきた。


許してなんて言えない。

自分がいなければ、東辞は喉を潰さずに済んだ。

自分がいなければ、母は死なずに済んだ。


自分がいなければ。


どくんっと身体が跳ねた。

田中里美たなかさとみの呪縛が、一気に全身に駆け巡ってきたのだ。


『東辞智加が好きなんやろ? 好きになってしまったんやろ? 明来君はそれに気づいてしもうたんよ』


『俺の術の発動は、愛なんよ。気づいた瞬間、呪いは発動するんよ。気づかへんやったらよかったのになー。もう誰にも止められへんよ。あっと言う間に全身に回って、死んでしまうんよ。血が噴き出してな』


そう言って里美が笑った。


痛い、全身が痛くて気を失いそうだ。


明来は智加から離れようとした。だが智加が明来の顔を掴んで放さない。真っ直ぐに見つめてきた。切れ長で涼し気な深い瞳だ。明来の視線から離れない。

こんな目をしていたんだろうか、もうずっと見ていなかった。最後に会ったのはいつだ? 透き通るような灰色の瞳に、自分が映り込んでいる。

今にも泣きだしそうな瞳が、そこにあった。


「何が言いたいんだ? どうやって謝ればいい? どうすれば東辞にっ」


と言った瞬間、智加に唇を塞がれた。熱い唇が、明来のそれを深くう。重なりあって、深い口付けをされて、

明来は茫然となった。


「どうして?」


智加は何も言わない。ただ明来を見つめている。


途端、明来の顔が歪んだ。胸の奥から、何かが一気に溢れてくる。


「とうじ、とうじっ」


智加にしがみついた。涙が止まらなかった。



『東辞、待って。一緒に帰ろう』


『卵焼き、失敗? えー、オレ頑張ったんだよー。ちょっとこげたけどさ。甘すぎたか?』


攪拌されたソーダ水がきらきらと光った。

あの頃、オレたちは高校生だった。旧校舎の屋上で二人でお弁当を食べた。

あれから1年しか経っていない。



気が付くと、あたりは真っ暗な闇だった。また気を失っていたのか。ゆっくり顔を上げると、薄っすらと智加の顔が見えた。心配そうに覗き込んでいた。どうも自分は智加の腕に抱かれているらしい。身体が起こせない。四肢の感覚がなく、とても寒いのだ。少しでも動くと身体に激痛が走った。あまりの痛みに顔が歪む。それを気づかれないように必死に笑顔を作った。


「オレ寝てた? ごめん」


いや、と智加は顔を横にふった。優し気に顔や髪をなんども撫でてきた。そのたびにぱらぱらと落ちる砂粒に気づいて、自分は砂浜に急に倒れたのが判った。

明来は必死に身体を起こした。横に座るが自立できない。智加の肩にもたれかかると、はあはあと息をついた。智加が腕を回して、倒れないようしっかりと支えてくれていた。


「高宮さんは」


知っているのか、と聞いた。

智加は顔を横にふった。


どうしてここが? と聞くと、


智加が胸元を開けて見せた。そこには一面に広がった黒い染みが見えた。


屑金くずかねが?」


智加が小さく頷いた。


「痛くないのか?」


うっすら笑みを浮かべると、顔を横に振った。胸元に手を当てる。すると智加の指先に黒い染みがまるで煙のように動いてふわりと移った。驚いて明来は目を見張った。

目の前にかざされた指は、ゆらゆらと揺れて、智加の指先がはっきり見えない。まるで煙と一体化しているようだ。

明来の目の前までくると、まるで猫が顔を寄せて甘えてくるように明来の頬を撫でた。しばらくして、少し光って消えていった。

それがどういう状態なのか、良いのか悪いのか明来には判らなかった。

智加の胸元の屑金くずかねは、時折光のように点滅してゆらゆらと動いた。それは優しい光だった。


智加の細い指が髪の中に入ってきて、とても優しく何度もすいていく。まるで大切な宝物のようにゆっくり撫でると、顔を寄せてきた。

明来の髪に顔をうずめると、大切そうにただじっとしている。

明来は苦しくなって、唇を噛んだ。言葉が出ない。なにか言わないといけない。ちゃんと謝らないといけない。


いくら泣いても、謝っても、もう何も戻らない。

智加の喉を潰させたのも自分だ。

高宮さんを苦しめたのも自分だ。

お母さんを殺したのも。


どんなに謝っても謝りきれない。

過去は変えられないのだ。


自分はからっぽだ。一生懸命やってきたことは何だったんだ。オレは、一人では何もできなかったくせに。東辞や高宮さんがいてくれたから、できたことだった。

なのにオレは、この腕を放せない。傲慢で自分勝手で、ひどい人間だ。


明来は黙り込んだ。智加の胸にもたれかかり、その温もりを味わった。

温かいな。こんなにも。


静かにすると波の音が聞こえてきた。暗くてよく見えないが、昼間見た海の風景を思い出した。きっと今も同じだ。波はざざっと打ち寄せて、引いていく。白い泡が波打ち際にあふれている。深呼吸をすれば、潮の匂いもしてきた。明日も同じ青い空が広がっているはず。

薄暗い浜辺で、明来は目を閉じた。

手足の感覚がもうない。今が夜でよかった。きっと足から出血している。こんな姿を見られなくてよかった。


「さようなら、東辞。出会って、ごめんな」


好きになって、ごめん。



(つづく)


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