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第9章 旅 -6-

-6-


その夜、明来あきの容態がおかしくなった。


うすぼんやりとした意識の中で、明来君、明来君と何度も名前を呼ばれたような気がした。

目が覚めた時、良子の真剣な顔が目の前にあった。どうしたんですか、そんな顔をして、と明来は思った。


「遅いお目覚めね」


良子はほっとしたような顔をして、明来に笑いかけた。


良子さん、と言ったつもりだった。

酸素吸入器が口元にセットされていて、実際声も出なかったのだが、吸入器のせいにした。口をパクパクしている様子に、良子は


「喋らないでいいわ」と言った。


目をしばたかせて、うなずいた。きっと数日こん睡状態だったのだろう。高宮さんの病院でもそうだった。身体はだれか他人のモノのようで、全く力が入らない。手足は冷えて、枯れた老木のようだ。若木のようなしなりも水分もなく、力を入れれば簡単に折れてしまう。感覚も鈍っていて、指先をぴくりとさせて、ようやく自分の身体なんだと思い知った。


良子はアイパッドを取り出して、容態のチェックをしているようだ。そっと手を伸ばして、明来の指先にセットされた酸素濃度計に目をやった。


「喉が乾いたでしょう。吸入器はもう外すわね」


良子は腰を浮かして、吸入器を外した。そばにあったドリンクを明来の口元まで運んだ。それを一口飲むと、水が喉から胃へダイレクトに流れていくのがわかった。はあと息を吐きだして、明来は目を閉じた。


「本当のところ、しばらく入院して欲しいの。貧血もひどいし、このまま外に出ても、気を失って倒れて、またどこかの病院に搬送されると思うわ」


明来は顔を横に振った。


「治ることは、ないんです。だから、ご迷惑は」


かけられない、と途切れ途切れに懸命に言った。

良子がじっと見つめている。


「迷惑とか、そんなことは関係ないの。私は医者で、病を治したい。たとえそれが難しい病気でも、最後の一瞬まで患者さんと一緒に戦いたい、そう思っているのよ」


「良子さん」


「あなたの力になりたい」


明来は目を閉じた。荒くなった呼吸を整えようと、ゆっくりと息をはいた。繰り返し繰り返し、静かに吸ってははいて、数秒か一分か、少し間をおいて、言った。


「良子さん。弟さんの話、聞かせてくれませんか?」


良子は大きく目を見開いた。思いもしなかったのだろう。しばらく固まったまま明来を見つめると、ふっと表情を緩ませた。


たいした話しじゃないのよ、と前置きして、良子は話し出した。


「弟は私の九つ下で、歳も離れていたせいか、小さい頃からそれほど仲の良い姉弟という感じはなかったの。生きていれば三十五歳になるわ。二十歳になった年に、友人らと海に行って、離岸流に巻き込まれて戻ってこなかった。私は駆け出しの医者で、ようやくインターンも終わって現場に出るようになって、急患センターにいたから毎日が慌ただしくて、家のことなど忘れていたわ。神奈川にいたから、連絡をもらって帰ってきたけど、何もできなかった。正直、遺体も上がらなかったから、母も私も実感が沸いてこなかったの。ただ、弟がいないというだけで、何も変わらなかった」


明来は目を離さず、良子を見ていた。


「今でも弟が、ただいまって帰ってくるんじゃないかって、私ですら思うわ。母はなおさらね。今は認知症が進んで、弟の死を無かったものにしている。弟が生きているという世界、いつか帰ってくるという」


「良子さん」


「母は綿菓子のような世界を作って、そこに住んでしまった」


「綿菓子の世界?」


「苦しみも悲しみもないのかもしれない。弟が帰ってくる。何も心配しないで待っていれば幸せでいられる。ゆりかごのような世界ね」


明来は思い出した。自分もその世界で生きていた。痛みも悲しみもない世界だ。そこから連れだしてくれたのは東辞とうじだ。痛みも悲しみも、ようやく胸に突き刺さって、東辞に抱きついて泣いて叫んだ。

母が死んだということを、

二度と会えないという現実を、

思い知った。


「でも、人は生きて、人と関わることで、喜びも悲しみが生まれるものだと思うの。私は綿菓子の世界ではなく、ここで生きたい。そう気づかせてくれたのは、明来君なの」


「え?」


「最初、明来君に出会って、私はすごく居心地が悪かったの」


「す、すみません」


良子は笑った。そうじゃないのよ、と言う。


「あなたから、目をそらしてしまった。この違和感の意味が分からなかった。でも女の子を助けて、病院に搬送されてきた時、一体この子は何がしたいんだろうって思った。それから血液検査の結果を見て、唖然となったわ」


良子は手持ち無沙汰気に、短い髪を撫でて指を毛先に絡ませた。綺麗に手入れされた髪だ。つやつやとした毛先を何度もすいている。それからふっと表情を緩めて、毛先に残った指を下した。頬は幾分赤みをおびて、微笑んでいた。


「逃げていたのは、私のほう。弟の死を、見て見ぬふりをしていた。泣いたこともなかったと気づいたの。私こそが綿菓子の世界にいたのよ」


「良子さん」


「今でも、弟の死に実感はないわ。理屈じゃないのね。私は医者だから、人の生き死にを見ている。患者の死は冷静に見れても、肉親の死には冷静になれなかったという、そんな自分がとても嫌だったと気づいたわ。同じ命を差別しているみたいで、医者として失格よね。いつか弟の死をわかる時がくると思うの。その時は泣き叫ぶのかもしれない。命には終わりがある。それは生きている以上みな平等におとずれる。だったら、その一瞬まで懸命に生きるしかない。何も考えず、今日一日出来うることを懸命にやる。出会った人を大切にする。だから、私は明来君と一緒に、笑ったり泣いたりしたいの」


「オレはそんな立派なものじゃないんです。ここへだって、逃げてきたんです」


「それでも、咄嗟に動いた明来君の力は、揺るぎない明来君の本当じゃないの?」


「オレの本当?」


「そう。あなたは生きたがっているのよ。諦めたりしていない」


「でも」


(オレは、お母さんを殺した)

明来はぐっと奥歯を噛み締めた。


「オレが生きていることで、大好きな人たちを苦しめたんです。謝ることもできずに、逃げてきたんです。オレは、どうすればいいんですか。どうすれば正解なんですか」


その瞬間、身体中に激痛が走った。


『この呪いは、愛が引き金になるんよ。愛を知った瞬間、発動するんよ』


里美の言葉が、脳裏によみがえる。


「オレは」


「過去は変わらないわ。変えられるのは、未来よ。明来君と出会った人たちは、心に何かが生まれた。変われたのよ」


「良子さん」


明来はそれでも首を横に振る。


「今度は明来君の番よ。未来を見て。明来君は関わった人たちから何かを得ているはず、変わったはずよ。ここで終わりじゃないのよ」


「オレは、オレが許せないんです」


「今はそれでいい。今は道の途中なの。ここで結論をだす必要はないわ」


「良子さん」


「明来君が自分を許せなくても、私はあなたの笑顔を見ていたい。人なんて勝手よね。自分の見たいものしか見ない。その反対側もちゃんと存在しているのにね」


ふふっと良子は笑った。


「反対側?」


「苦しみも喜びも、もとは同じものから出ていると思うの」


「同じもの?」


「明来君が病気になったからこそ、気付いた気持ちや、出会えた人たちがいたはず。人は絶えず考えて前に進んでいる。あなたは止まったままの感情で、人の気持ちを想像しているの。もしあなたが誰かを苦しめたとしたのなら、今の気持ちは話してみないとわからないのよ。許す許さないは次の話し。会うことができる、話すことができる相手なら、あなたの気持ちを伝えなければ。怒られてもいいじゃない。その気持ちを受けとめて。そこから始まると思うの」


「良子さん」


怖いだろうけど、と良子は付け加えた。


「出会った時、私は明来君に違和感を覚えたわ。でも今は、明来君の笑顔が大好きになっている。明来君はどう? 私に出会って、あの小さな女の子を助けて、どんな気持ちになった?」


明来はじっと考えた。


「出会わないほうがよかった?」


優し気に覗き込む良子の顔があった。


それでも、それでも、オレは。


「とにかく、身体を整えましょう。身体が落ち着けば、気持ちも整うわ。あなたの病気は確かに症例がない。でもきっとどこかにヒントがあるはず。世界屈指の医療サーバーがあるの。そこでずっと検索していたら、私と同じようなことを探している人を見つけたわ。連絡を取ったら、色々教えてくれたの。東京の大学で教鞭をとっている人で、高宮医師とおっしゃる方よ」


明来はぎょっとなって目を見開いた。あまりのことに言葉が出てこない。


「すぐにでも患者を診たいと言ってくれたの。心強い味方ができたのよ」


良子は喜んでいた。

明来は何も言えず、ただ笑っていた。自分を懸命に元気づけようとする良子を傷つけたくなかった。


深夜、明来は身支度を整えると、病院をあとにした。良子宛に感謝の気持ちをつづったメモを残して。


(つづく)


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