第9章 旅 -4-
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点滴パックを片付けながら、良子は慣れた手つきで聴診器をポケットから取り出した。両方の耳にセットすると、丸い金属の部分を手で何度もこすった。それからそっと明来の胸元に、金属を当てた。目を閉じて、じっと胸の鼓動を聞いている。おもむろに目を開けると、次は明来の手首に指先をあてて、脈を取った。
「少し、脈が飛んでいるわね」
明来は良子を見つめた。
「心配するほどのことではないわ。咄嗟に女の子を助けるくらいだから、すごく元気よ」
良子は微笑んだ。それから何も言わずに、明来のそばの椅子に腰かけると、デジタル機器を取り出して、なにやら入力しているようだった。それが終わっても、ただじっと座っている。自分が何か喋るのを待っているのだろうか。明来は何も言えずに、ただベッドに横たわっていた。
今は何時くらいだろうか、ふと思った。
処置室の部屋は広く、簡易ベッドが並んでいた。室内の壁を見渡すと、掛時計があった。時間は夜の七時を過ぎていた。結構時間が過ぎていたようだ。カーテンも開け放たれていて、窓からは繁華街の電灯の明かりがちらちら見えていた。
「良子さん」
「ん?」
優し気に小首をかしげて、良子は明来を見つめてきた。
「僕は、あとどれくらいもつでしょうか」
「それは難しい質問ね。確かにあなたは病気だわ。それも特異な症例の。だから本当のことを言うと、あとどれくらいもつなんて、判らないの」
「うん」
「この瞬間かもしれない。でも数十年先かもしれないわ」
「なんですか、それ」
「うふふ。ごめんなさい。医者なんて無力よ。人がいつ死ぬなんて、さっきまでピンピンしていた人がコロッと死んだり。癌で余命三ヶ月の人がずっと元気でいたりね。つまり……」
「つまり?」
良子はにやりと笑った。
「この一瞬一瞬を幸せに生きる。それに尽きると思うわ」
「この一瞬ですか」
「そう。明来君は今この瞬間生きて、こんな美人内科医とお喋りできているんですもの? これが幸せと言わず、なんと言いましょうか?」
良子はうふふととびきりの笑顔を見せた。さらさらと流れる髪が綺麗だ。
明来もつられて笑う。
「そうですね」
「お喋りしてて大丈夫? 苦しくない?」
「はい。平気です」
「明来君は、何をしている時が楽しい?」
「何を、ですか? そうだなー。子供と遊んでいる時かな」
「そうなの? 子供の笑い声って元気になるものね。保父さんしていたの?」
「いえ。児童養護施設みたいなところで、手伝っていました。ちっちゃい子が沢山いて、いっぱい遊んで笑わせてあげるのがとても楽しくて。みんな色んな事情があるんだけど、笑っている時は同じなんです」
「うふふ。ちっちゃい子たちに、揉みくちゃにされている明来君が目に浮かぶわ」
「あはは、そうなんです。僕なんて、権力分布の最下層で。みんなから僕扱いされてましたよ」
明来は思わず笑った。
「どんな遊びをしていたの?」
「女の子が多かったから、ビーズとかアクセサリー作りとかやってました」
「キラキラしているものが好きだよね、ちっちゃい子は」
「ええ。みんなそれぞれ個性があって、小さくても一人前の女の子なんですよ」
「そうそう。女の子は小さくても女性よね」
「あと、園では行事が色々あって、餅つき大会が楽しかったな」
「へえ。楽しそう。お餅ついてたの?」
「いえ、僕はもっぱらお餅揉みです。非力で」
「やっぱりね。杵を振り上げている明来君は想像つかないわ。つきたてのお餅は美味しいでしょうね」
「はい。あんこを付けたり、大根おろしと醤油で食べたり。みんないっぱい食べてました」
「わー。大根おろし? もう聞いたら食べたくなっちゃったわ。今夜の夜食はお餅ね。コンビニにあるかしら」
「良子さん、食いしん坊でしょう? 僕もそうですよ。昼間のスープ美味しかったな」
「ありがとう。嬉しい。あれしか作れないのよ、私」
「一品あれば十分ですよ。僕なんて、いまだ卵焼きもうまく作れないー」
明来は口を尖らせて言った。良子はその顔にぷぷっと吹き出している。
「明来君もお料理するの? 偉いね」
明来は、恥ずかしくなって目線を下げた。
料理なんて言われるものはできなかった。大学の料理倶楽部サークルは楽しかったけど。
焦げた卵焼きが目の前に浮かんだ。朝早く起きて、エプロン付けて、石鹸で手を洗った。フライパン出して、卵を割ってかき混ぜた。油の焼けたフライパンに卵液をじゅっと落とす。焼ける匂いはとても美味しそうで、お弁当箱に詰めて、黄色いハンカチで包んだっけ。使われてない体育館の屋上、秋晴れのどこまでも高い空に薄っすら筆で引いたような雲。
サイダーの泡。
明来はぎゅっと唇を噛んだ。
いやだ。思い出すな。
ばっと取り消して、目をつむった。
「料理はしません。全然だめです」
明来は黙った。
「そうなの?」
良子は不審に思ったのだろう。それ以上何も言わなかった。しずかに時間が過ぎていった。空調のファンがからからとたてる音が耳についた。静かになると、自分の鼓動の音すら聞こえてきそうだ。良子も何も言わず、じっとしているらしい。申し訳ない気持ちも相まって、明来は何も言えずにじっとしていた。刹那、良子が動く気配がした。きいと言う椅子の軋む音がして、良子がベッドの端に手を付いた。
「ここに居てくれない? 私は医者だから、あなたの最期を見届けるわ。私がそばにいる。だから我慢しないで」
明来はぎょっとなって目を開けた。
「良子さん?」
その時、カラカラとストレッチャーを押しながら看護婦が部屋に入ってきた。
「あ、良子先生、ここにいらっしゃたんですか? 院長が探してらっしゃいましたよ」
「えー、やだな。何かしら?」
良子はぶちぶちと文句を言いながら立ち上がった。
看護婦は、明来のそばに来ると、ストレッチャーをベッドにつけた。
「斉藤明来さんですね。こちらに移動できますか? ゆっくりでいいですよ」
「は、はい」
明来は意味が分からず、良子の顔を見上げた。
「今日はね、入院していただくのよ。今から病棟にお連れしますね。頭を打ってるかもしれないから、一晩は様子を見させてね」
「そうなんですか。頭はなんともないです」
「MRIも大丈夫だったから、心配はないと思うけどね」
明来は歩いて行けますと言ったが、良子はだーめと言って、ストレッチャーをぐいと押しつけた。
恥ずかしい、と言いながら、明来はおとなしくストレッチャーに横になった。不安定な乗り物だなと思った。
カラカラカラと音を立てて、ストレッチャーは動き出した。明来には天井の模様しか見えない。変な感じだ。電灯がすいすいと自分の頭の後ろへ消えていった。エレベータに乗ると、上に上がっていく。
「病棟は5階です。今日はあと一本点滴を入れますね。食事は明日の朝までお預けです。水分は取ってもいいので、のちほどお茶を持ってきますね」
看護婦が言った。
良子は、途中でエレベータを降りるようだ。明来の顔を覗き込むと、またねと手を振った。
5階で止まって、ストレッチャーはまた動きだした。病室に着いて、スライドドアが開くと、つんとした消毒薬の匂いがした。二人部屋のようだが、明来以外誰もいなかった。ピンと貼った綿のシーツのベッドに、明来は移った。
「しばらく使ってなかったから、少し窓を開けますね。寒くないかしら?」
「はい、大丈夫です」
カーテンを開けた窓からは、町の明るいネオンが見えていた。その遠くに真っ暗な山の頂が見えていた。5階ともなると眺めもいいのだろう。
看護婦が戻ってくると、点滴の用意を始めた。
布団の中から明来の左手をそっと出すと、血管を探った。ちょっとチクッとしますよ、と言いながら注射針を刺した。いち、と顔をしかめて、明来は笑った。
「はい。大丈夫。点滴流しますね。痛かったら言って下さいね」
点滴の管をくるくるとまとめて、管が詰まらないよう、明来の腕にテープで止める。液漏れしてないかチェックして、明来の顔を見た。
「痛くないですか?」
「はい。大丈夫です」
看護婦は微笑んだ。それから、明来の手首にブレスレットのようなものを取り付けた。退院時に外すらしく、名前が入っていた。頭上のライトを就寝用のライトに切り替えて、緊急時の呼び出しブザーを明来の手元に置いた。
「何かあったら、このブザーを鳴らして下さい。点滴が終わるころにまた見に来ますから、眠ってて大丈夫ですよ。お茶はのちほど持ってきますね」
「ありがとうございます」
「良子先生とはお知り合い?」
「いえ、知り合いというわけじゃないないんですが、昼間偶然出会って」
「そうなの。良子先生が親し気に患者さんと話すの、久しぶりだったから、ちょっと嬉しかったのよ」
「優しい先生ですよね」
「そうなのよ。一見クールなんだけど、姉御肌って言うのかしら、患者さん思いで。でも先生はあまり患者さんと深く関わらないように努めてらっしゃるの。亡くされた弟さんを思い出すんでしょうね。患者さんが亡くなるととても辛そうなのですもの」
「弟さんを?」
「あら、お喋りが過ぎちゃったわ。ちゃんと寝て下さいね」
看護婦はそう言って、出て行った。
そういえば、良子の母親に連れていかれた時に、弟が帰ってきたと思っているのよ、と言っていた。明来は思いだした。
先ほど言った良子の言葉が蘇る。
『ここに居てくれない? 私は医者だから、あなたの最期を見届けるわ』
ガツンと殴られたみたいだった。
どこかで、ほんのちょっと。もしかしたら違うのかもしれない、きっとこれは途中のことで、最後はなんとかなって、東辞や高宮さんと最後はみんなで笑って、と頭の隅で思っていたのだ。
それを、医者である良子の言葉に、はっとさせられた。
オレは死ぬんだ。
明来は、手で顔を覆った。今一人であったことが、明来の声をはばむものはなかった。
「お母さん……。お、かあさん」
ごめんなさい。
静かに、静かに、何も聞こえない。自分のすすり泣く声だけが、部屋に流れていた。
(つづく)




