第1章 大学生活 -4-
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「明来さん、私でよろしかったら、お送りいたしましょうか? 智加さんは、長くなりそうですね」
食事が終って、歓談していたところを、智加は父親からお呼びがかかった。もともと無表情な智加だが、さらに仏頂面になって、本館へと歩いていった。
明来はちらりと時計を見て、
「そうですね。済みません。お願いします」と言った。
智加に送ってもらうつもりだったのだが、もう22時を回っている。このまま待っていても、迷惑だろう。
「では、玄関に車を回してきます。少ししたら降りてきて下さい」
「はい。ありがとうございます」
高宮はすっと立ち上がると、階下へ降りていった。
相変わらずすらりとした長身で、切れながの目は優しげで、穏やかな物腰だ。自分なんかにもすごく丁寧で、今日もなんやかでご馳走になり、入学祝いまで頂いてしまった。
先日の福岡の調査では、諏訪氏から有益な情報はなにも得られてないというのに、随分ねぎらってもらった。空いたところにすっと入ってくるような、ついつい甘えてしまう。そんな雰囲気を、高宮は持っていた。
階下で、車の止まる音がして、明来は席を立った。
智加は戻ってこないままだったので、グラスの下にメモを置いた。感謝の気持ちと「じゃあまた」と書いた。
屑金のことが気になった。痣は広がってないだろうか。智加の様子は、変わらないように見えた。
玄関を出ると、車の脇に、高宮が立っていた。
「さあ、どうぞ」
助手席のドアを開けて、明来に手を差し伸べていた。
「お荷物は後ろに置きましょう」
高宮が、両手に抱えた明来の荷物を受け取った。今日智加と一緒に買い物したものや、高宮から頂いたお祝いが入っていた。
「済みません。沢山頂いてしまって」
「喜んでいただけて、嬉しいですよ。何がいいか、とても迷ってしまって」
ふと顔をほころばせて、高宮が視線を外した。なにやら恥ずかしいような嬉しいような、滅多に見ない表情だ。明来はなんだか嬉しくなって、その視線を追った。
「すごく嬉しかったです。高宮さんがいろいろ考えて下さったなんて、もう勿体無いやら、嬉しいやらで」
「明来さんがどんなものを喜ばれるか、智加さんに聞いても『知らん』って言うだけで。なので年頃の男の子が好きそうなものを、デパートの店員さんとあれこれ探したんです」
「そうだったんですか? 済みません」
「いえいえ。楽しかったです。それに、開けた瞬間の明来さんのお顔、とても可愛かったです」
可愛いと言われて、よけい赤くなった。女性でもないのに、高宮はこういう言い方をよく明来にした。
「あはは。でも本当に嬉しくって」
ふいに視線を戻した高宮が、じっと明来を見つめてきた。優しげな瞳に、少し口角を上げて微笑んでいる。明来は急に恥ずかしくなって、視線を外した。
これから使えそうなバッグやジャケット、シャツにパスケース、万年筆と、本当に沢山入っていた。
「あの、あの」
「はい?」
「本当に、ありがとうございます」
「いいえ。受け取って頂けて、こちらこそありがとうございました。大学生活、楽しんで下さいね」
「はいっ」
明来は元気いっぱいに答えた。
車は、シルバーのレクサスだ。乗り込むと空間はすごく広かった。ソファも硬めで座り心地がいい。視界も広くて、智加が使っているプジョーは、若干狭く感じた。
この車は初めてだ。だいたい何台車があるのか、敷地内の端がどこなのかも、よく判らないくらいの豪邸だ。
エンジンをかけてすっと流れるように発進した高宮に、やはり技術の高さを感じた。智加の運転を思い出して、明来は思わずくすっと笑った。
「なにか?」
「あ、いえ。やはり高宮さんの運転はすごいなって。それに比べて、東辞はまだまだだなーって」
「そうですか? 免許取り立てですものね。でも智加さんもすぐに上達しますよ。教習所にも通わず、一発合格なんですから」
「えーそうだったんですか? どうりで免許取るの早かったなーって思ったんです。流石ですね」
「ええ。まあ一般人と一緒に教習は無理でしたし。明来さんも免許取られるのですか?」
「はい。大学生のうちに取ろうかなって思います」
「きっと楽しいですよ。ドライブしたり、遠出したり、行動範囲が広がりますから」
カチカチと左折のウィンカーを上げながら、高宮がスムーズに道路を左折していく。揺れもほとんどない。
少し無言になって、明来は窓の外の風景を見ていた。真っ暗な闇がどこまでも続いていた。まだ山道を降り切っていない。公道に出るには、もう少しかかりそうだ。
つと、以前から気になっていたことが、頭をもたげてきた。
(どうしよう。聞いてもいいのかな? でも)
智加の結婚の話だ。明来は結局のところ、智加に聞けずじまいとなっていた。何度となく話題を振ってみようか、と思ってチャンスをうかがっていたのだが、いざ聞こうとすると、咽に重しでもあるかのように、詰まって聞けなくなった。
高宮を見た。前を向いて、ただ眼前の道を見ていた。ハンドルにかけた手は細く綺麗だ。思わずじっと見て、自分の手に視線を戻した。指先をもじもじして、ぎゅっと内に握りこんだ。
「あの」
「はい?」
「聞いてもいいですか?」
「はい。どうぞ」
「東辞は、その、結婚するんですか?」
「ええ」
何の躊躇もなく、答えはすぐに返ってきた。高宮は表情を変えることなく、まるで普通のことのようだ。
明来は思いつめていたものを、なんだか肩すかしをくらったように思えて、視線を自分の手に戻した。
「そうですか」
「東辞では、二十歳で結婚することが習わしですから。智加さんもようやく決めて下さって、ほっとしています」
「東辞が決めたんですか?」
「はい」
「そうですか。あの、」
「はい?」
「どんな、方なんですか?」
「お相手の方ですか? 智加さんより二つ年上で、綺麗でおしとやかな女性です。奥様が気に入られていて、本当に素晴らしい方です」
「良かったですね。オレはてっきり、無理矢理かと思って、心配してしまって。東辞が、決めたのなら良かった」
「ご心配をおかけしました」
「いえ。オレは少しも。なんか、全然。あはは。ほんと良かったです」
なんだか支離滅裂になってきた。
明来はふいに唇を噛むと、言葉を切った。
目の前のフロントウィンドウに、光が走った。対向車のライトだ。いつの間にか公道に出ていたのだろう、反対側の路線には、自動車が何台も走っていた。
夜間の走行で、スピードはかなり出ているようだ。ひゅんひゅんと通り過ぎていく車が目についた。
「おめでとうございます」
明来は言った。
高宮が少し首をかしげて、明来を見た。
「ありがとうございます。智加さんに伝えておきますね」
「はい」
明来はそのまま顔を上げると、ぼんやりと対向車線を走る車を見ていた。
自宅に着いて、明来は玄関まで行くと鍵を開けた。
高宮が荷物を持ってついてきていた。大丈夫ですと言うのに、玄関に入るのを見届けないと安心できないので、と言ってついてきたのだ。
「ありがとうございました。帰り、気を付けて下さいね」
高宮の顔を見て、明来は微笑んだ。
途端、ふわりとしたものが、明来の頭に触れた。高宮の手だ。一瞬、身体が固まって、なのに、目頭がぎゅっと熱くなった。明来は慌てて、作り笑いをすると、目の前の男を見上げた。
自分より、頭一つは背が高い。切れ長の目は細まり、色素の薄い目が穏やかに見ていた。細い指がぽんぽんと、自分の頭を撫でた。
「困ったことがあったら、いつでも私に言って下さい。くれぐれも、気を付けて下さいね。今、明来さんの周りは新しい環境になって、様々な人が現れたでしょう。中には、あなたを傷つける人がいるかもしれない。心配なのです」
「え? 大丈夫ですよ。大学で友達もできたし、すごくいいやつです」
「そうですか? でも、私がいることを、忘れないようにして下さいね」
「はい。高宮さん」
「さあ、中に入って下さい」
高宮が表情で家の中に入るように促した。
「はい」
「では、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
明来が玄関のドアを締めるまで、高宮は立っていた。
なんだか申し訳ない気持ちになったが、明来は仕方なく玄関の鍵を締めた。しばらくドアの前にいると、車のエンジン音がして、高宮は帰ったようだ。
明来は家に入ると、真っ暗なリビングに灯りをつけた。
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「朝からかなわんわー」
ぼやきながら近寄ってきたのは、大学で最初に友達になった田中里美だ。同じクラスだが、2つ年上の関西人だ。体操服の袖を伸ばして、両手を引っ込めぷらぷらと揺らしていた。
「おはよう。でも大学の体育って選べていいよね。前期はサッカーかゴルフって、すごいけど」
「そうやねー。ゴルフなんて行かれへんし。だいたい最後は自費でコースまで回るって、どんなおぼっちゃん大学やん?」
「ほんと、びっくり。やっぱりサッカー選択している人多いものね。朝から2コマはきついけど」
「ほんま。もう眠むうて」
里美は大きなあくびをして見せた。
「バイト、行ってるの?」
「うん。昨日は遅番やったから、帰ったの朝の4時やん。ほとんど寝てへんもの」
「うわー。それでサッカーはきついね」
「ああー。ちょうどええわ。肩貸して」
里美は、明来の肩にごとんと頭を乗っけると、ふうと大きなため息をついた。
身長差があるので、ちょうど寝やすい加減なのだろうか。
「あはは。里美くん?」
「このまんま寝てええ?」
「だめだよ。ほら、サッカーの先生が笛吹いている。試合形式の授業だし」
「は。そや、僕ら敵同士やったね?」
「そうそう。ボールくるよ。ほら」
びくっとなって里美は明来から離れた。その途端、サッカーボールが里美の頭上を飛んでいった。
「わー。ほな」
と言って、里美は走り出した。
明来も笑いながら、走りだした。
サッカーなんて、見よう見まねだ。高校生のころ、体育の授業で何回かやっただけで、あとはテレビで試合を見たくらいに過ぎない。
とにかくフィールドが広すぎる。大学の敷地内の運動場なので、90mもないだろうが、ボールが頭上を飛びかうだけで、走ってついていくので精いっぱいだ。
途端、明来のほうにボールが飛んできた。
「斉藤ーっ。ヘディングだーっ」
というチームの声にびくっとなって空を見上げると、ボールがぷかりと浮いていた。
「わ、わっ」
明来は右に流れるか、左に流れるのか、ボールから目が離せずに、右往左往だ。
そんな中、敵チームのメンバーが怒涛のように突進してきた。
その中に、里美もいた。
さっきまで、へろへろと走っていた里美が、超真顔で突進してくるではないか。
「わー、里美くん」
「明来くん。みっけ!」
里美と敵チームが二、三人、団子になって向ってきた。もう明来はヘディングどころではない。この集団を避けるべく身構えていると、ぽとんとボールが目の前に落ちてきた。
途端、わーーという罵声とともに、男ども突進してきた。
明来は目をつむった瞬間、どすんと何かにぶつかって、地面に倒れ込んだ。
頭を打ったのか、目の前がくらくらだ。視界に青い空が飛びんこで、明来は倒れた。その瞬間、里美の声がした。
「明来君ーっ」
むんずと腕を掴まれた。電気のような痛みが走ったのを、ぼんやりと感じた。
(続く)