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第9章 旅 -3-

-3-


外は、まだ夕方にもなっていなかった。朝の始発で移動したのだから、一日は長いなと明来あきは思った。駅までの道はうろ覚えだが、なんとか判った。徐々に住宅街から大きな道路へ出て、喧騒の音を頼りに騒がしい場所へ出た。


思った通りのバス通りだ。車や大型のトラックが行きかい、大きな歩道で足を止めた。チカチカと左折してくるトラックのランプが目の前だ。ぶわっと巻き込んでいる砂塵に、明来はけほけほと咳をした。

地方は大きな道路も多いが、その分輸送トラックも多い。JRの大きな駅が近くだと、貨物の荷下ろしも多いのだろう。


JRには戻れないな。先ほどの駅員さんが居たら気まずい。

第一、行先も決めずに、目の前の電車に飛び乗って、ただぶらぶらと、失笑に口元が緩んだ。

バスターミナルの方に、歩き出した。

JRの乗り換え地点なのか、意外と大きなターミナルで、行先掲示板がたくさんあった。地名はどれも見たことがない。ただ、海という文字の行先を見つけて、明来はその前に立ち尽くした。今いるターミナルからだと、随分バス停の数が多い。高速道路に入っていくようだ。よほど遠いのかもしれない。料金表を見つけて、リュックの中のお財布の中身を確認した。お金は十分入っていた。自動販売機で、ドリンクを2本買うと、リュックに押し込んだ。


海行きのバスを、明来はベンチに座りぼんやり待った。

意外とバスはすぐに来て、オレンジ色のライナーの入ったバスだ。リゾートっぽい雰囲気を醸し出しているのだろうか、波しぶきのイラストにイカと鯛が飛び跳ねていた。人が結構乗っていた。明来はなんだか気おくれして、乗るのをやめてしまった。


次のに乗ろう。


ぶわっと排気ガスを出して、バスは発車した。

バスターミナルの中は、行先案内のアナウンスでうるさいくらいひっきりなしだ。リュックからペットボトルを一本出して、ごくりと一口飲んだ。


次のに乗ろう。次だ。その次。


明来はそう思って、もう何本もバスを目の前で素通りさせていた。少しだけ、日暮れが近づいてきていた。ターミナルのガラス窓に夕陽があたって、ギラギラと反射している。眩しさに明来は手をかざして、まぶたを閉じた。


まぶたを閉じても、ネーブルのようなオレンジ色が、まぶたの裏に焼き付いている。しゅわしゅわと音を立てるように、泡のようなものがちかちかと弾けた。


ソーダ水のようだ。


思い出したくない。何も思い出したくないのに、東辞のことばかりが頭に浮かぶ。


どうして、どうして?

なんで喉をつぶしたりしたんだ?


明来はふらふらと立ち上がった。ターミナルから出ると、歩道のほうへ歩き出した。目の前に母親の手につながれた幼稚園くらいの女の子がいた。何か叫んでいて、ばっと母親の手をほどくと、だっと走り出した。


危ないっ。


左折してきた車が目の前だった。

明来は刹那、道路に飛び出した。ガンと鈍い感触が肩に走った。わっと泣き出した女の子が、自分の胸の中に石のように固まっていた。母親が真っ青な顔で走ってきた。明来は、女の子を放すと、ゆっくりと目を閉じた。明来は道路の上に横たわった。遠くから、救急車のサイレンの音が近づいてきた。

ここにいたらダメだ、早く起きて、動かないと、外へ出ないと。奥歯をぎゅっと噛み締めるが、明来の身体はまったく動かなかった。



ピッピッと規則正しい音が聞こえてきた。身体がまるで棒きれのように硬くて、動かなかった。指先を動かせば、まるで枯れた木の枝のように、パキンと音を立てた。


息ができない。

口元にある何かがうっとうしくて、明来は指先に掴んで捨てた。ピッピッという音はずっと鳴っていた。

はっと肺の中の空気を押し出して、口をつぐんだ。


またも自分は気絶していたらしい。確か女の子をかばって、車道に突っ込んだような気がする。あの子は無事だったんだろうか。

他人事じゃないのに、身体が咄嗟に動いてしまった。


カーテンレールが半分閉められていて、視界は半分くらいしか見えない。どうもここは病院の救護室のようで、細いベッドがずらりと並んでいた。チクチクする腕を見ると、点滴が繋がっていた。頭の上に点滴パックがぶら下がり、そこから一滴一滴と液体が落ちていた。透明な液体のパックに、何かがマジックで書いてあった。寝ているこの体制からでは、よく見えなかった。


高宮さんが以前に点滴してくれたことを思い出した。神社の社務所で、自分が貧血で倒れた時だった。目を覚ますと、高宮さんがじっと見ていてくれたっけ。


ごめんなさい。高宮さん。


どうすればいいのか、自分がどうしたいのか。何もわからない。もやもやと、ぐるぐると、まるで岩石のように固まったものが胸につかえて、喉から何も出てこない。上も下も、右も左も固まっている。どこまでもどこまでも硬くなって沈んでいく。苦しい、苦しい。


『死ぬなんて、許しませんよ』


大学で倒れてこん睡状態だった自分に、高宮はそう言った。


ごめんなさい。


明来は目を閉じた。一筋の涙が頬を伝って、耳元へ流れていった。手で顔を覆うと、明来は唇を噛み締めた。


コンコンというノックの音がして、明来は振り返った。スライドドアがゆっくり開いて、白衣姿の人が入ってきた。病院の先生だろう。明来はゆっくり起き上がろうとして、静止した手に動きを止めた。


「良子さん?」


明来はびっくりした。


「また会えたわね」


目の前でにっこりとほほ笑むのは、永沼良子ながぬまりょうこだ。ほんの数時間前まで一緒にいて、昼食をご馳走になっている。白衣を着た姿は医師そのものだった。


「お医者さんだったんですか?」


「ええ。今日は夜勤で、偶然ね。小さな女の子をかばったんだって?」


「あ、そうだ。女の子は大丈夫だったんですか?」


「ええ。大丈夫よ。ひじをこすっただけで、消毒して大袈裟に包帯巻いてあげたら、喜んでいたわ。怖い怖い病院を好きになってくれたみたい。看護婦さんを見て、私も将来看護婦さんになるって言ってたわ」


ふうと明来は胸をなでおろした。


「よかった」


「明来君のおかげで、事故にならずに済んだわ。女の子のお母さんもとてもあなたに感謝していた。なかなか明来君が目を覚まさないから、もう帰ってもらったけど。私からちゃんとお礼を言っておきますね、と安心して帰ってもらったから」


「ありがとうございます」


「こちらこそ、お礼を言わないとね。あなたには、母の面倒もみてもらって、女の子も助けてもらって。ありがとう」


良子は微笑んだ。少し手を伸ばして、横になっている明来の点滴の注射針のところをさすった。


「痛いの痛いの飛んでいけ」


眼鏡をかけて白衣を着た良子は、なんだか頼もしくてそれでいて、とても優しい。まるで小さな子供に向かって言うようだ。安心感を与えてくれるお医者さんなんだろう。専門は小児科なんだろうか。

明来もつられて笑った。


「痛いの、飛んでいってしまいました」


それでも、良子は明来の腕に触れるか触れないかあたりを、ずっとさすっていた。救護室はしんとして、空調のファンが回る音しか聞こえなかった。明来も無言になり、ただされるがままにしている。気恥ずかしくて、なんだかくすぐったい。


「あなたの血液、見たわ」


明来はぎくりとなった。

良子はそれ以上何も言わなかった。


明来はすっと視線を外して、どこを見るわけでもなく泳がせている。綿のシーツは糊が効いて、消毒薬の匂いがツンと鼻をついた。倒れて気を失った時に採血されたのだろう。自分の血液検査の数値を見たなら、医者としてあれが普通でないことくらいは一目瞭然だ。


「それで、どこへ行こうとしているの?」


それで? 

それで、とは、こんないつ死ぬかわからないような状態の身体で? ということだろうか。


明来は、口をつぐんだ。


「何かをかかえているのは、なんとなくわかったわ。普通の旅行者には見えなかったから。それでも母のことを疎ましがらずに付き添ってくれて。今も、見ず知らずの女の子をかばったりして」


明来はふっと笑った。


「なんか咄嗟に。結構動くものですね。こんな身体でも」


「明来君?」


良子がじっと見つめてきた。


「医学的に見ても、有り得ないそうです」


「そうね。私も見たことのない症例だったわ」


「ずっと入院していたんですけど、一人で考えたくなって…」


と言って、明来は口をつぐんだ。

いや、違う。考えたくなかったから、一人になりたかったんだ。


喉の奥に硬いものが詰まったように、明来は何も言えなくなった。白く細い腕に目をやると、皮膚は粉を吹いたように荒れて、青い内出血のあとが目についた。点滴のあとだ。高宮さんの病院でも、ずっと点滴が繋がっていた。単なる栄養剤だ。治療法なんてない。


「まるで今にも死にそうな顔をしているわ。話してみない? 私は医者だから、予想はできても未来のことなんて判らないわ。助かるときは助かる。助からない時は、助からないわ」


私は運命論者じゃないけど、と言って、良子は立ち上がった。いつの間に空になった点滴のパックを、ゆっくりと外し始めた。


(つづく)


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