第9章 旅 -2-
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明来は、右を向いてしばらく眺めたあと、左を向いた。
車の喧騒、クラクションの耳をつんざく音、ぎらぎらと商業ビルの電光掲示板。どこにでもある町並みが広がっていた。東京の複雑怪奇な交差点というにはほど遠いが、駅前はほどほど賑わっていて、今の時間帯は中高生の帰宅ラッシュらしい。サラリーマン姿の人はまばらで、塾へ通うのかランドセル姿ではない小学生や、制服姿の子供らが多い。野球着に身を包んだ少年は、スポーツバッグを抱えたまま急ぎ足に走っていった。
明来はそれらの後ろ姿をただぼんやり見つめた。なんだか今の自分にとっては、遠い昔のように思えてしまう。ほんの1年くらい前のことなのに。なんだか自分だけが取り残されて、人と違う時間に生きているような気がした。
交差点の前には、バスの停留所があり、ふらふらと足がそちらへ向かう。時刻表や行き先案内板を見るが、ここがどこだか判らない。ただ乗り継いで来ただけだ。行く当てなどない。ただ、ふと海が見たいなと思った。
先ほど降りてきた駅を振り返る。あの駅から、海岸方面への電車は乗り継ぎがあるんだろうか。
「かずちゃん」
ん?となって、明来は声のするほうを振り返った。そこには、七十歳くらいだろうか初老の女性が立っていた。表情はなんとなく怒った顔で、明来は何か自分がしてしまったのかと、どぎまぎしてしまった。
「あ、あの?」
「あー帰ってきたんね。よかった。ほんとよう帰ってきた」
いきなり、おばあさんは明来の手を掴むとすたすたと歩き出した。
あの、という明来の声には一切耳をかさず、足早にぐいぐいと進み続ける。その腕を無理矢理引きほどいて、おばあさんを転倒させてはいけないと、明来は引っ張られながらも、何度も声をかけた。
「あの、おばあさん、違いますから。ちょっと待ってください」
「はよう、はよう」
おばあさんはただ急げというだけで、明来を見ようとはしない。まっすぐ前を向いて、ただひたすら小走りだ。その年齢で、力もあり、足腰も強そうだ。病気で弱っている明来には、到底太刀打ちできそうにない。はあはあと息を上げながら、必死についていった。
大通りを二、三本入っただけで、あたりはすっかり住宅街だ。昔ながらの瓦屋根の古い木造の家が並んでいた。その通りを急ぎ歩いていると、四十歳くらいの女性が立っていた。
「お母さんっ」
女性が叫んだ。
「良子。かずちゃん帰ってきたで」
明来はどきりとなって、女性を見た。違いますというように、首を横に振った。ただ息が上がって、喉もからからで声が出ない。ようやく立ち止まったおばあさんの横でしゃがみこむと、明来はごほごほと咳き込んだ。
顔を上げると、なんとも申し訳なさそうな表情で女性が見下ろしていた。その横には、全く正反対ににこやかに笑みを浮かべるおばあさんだ。
ふいに、明来は意識が遠のいていった。
「やっぱり男の子ね。あなたを背負って車に乗せるのは、骨が折れたわ」
笑って言う女性が目の前にいた。明来ははっとなって目を覚ますと、布団の中だった。
「済みません。どうしてこんな?」
「気を失ったのよ。覚えてない?」
「え?」
「一過性のものでしょうね。血管迷走神経反射性失神。大丈夫? 病院へ行く? それともご両親に連絡する?」
「いえ、大丈夫です」
明来は目をぱちくりした。聞きなれない言葉が頭に残らず、素通りしていった。なんとか起きれる、まだ大丈夫だ。
「ほんと? あまり顔色は良くないけど。もう少し休んだほうがいいわ。母がいきなりごめんなさいね。あなたに迷惑をかけてしまって」
「いえ、ちょっとびっくりしただけです。お母様は大丈夫ですか?」
「ええ。いつものことなの。息子が帰ってきたと思って、喜んでいるわ」
「息子さん?」
ふふと女性は笑った。乾いたようなさみし気な表情だ。肩あたりで短く切った髪を片方の耳にかけている。目鼻立ちのはっきりした綺麗な人だ。
明来はそれ以上何も言わずに、視線をそらした。通りすがりの自分が簡単に聞く話でもない。ましてや人の家庭のことだ。色々あるだろう。
「もう少し休んで。気にしなくていいから」
「いえ、本当にもう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「そう? だったら、温かいスープを食べていかない?」
「いえ、そんなご迷惑な」
「いいのよ。迷惑とかじゃないし、あなたが良ければね。母は寝てるし、私も一人で食べるより良いわ。落ち着いたら、キッチンに来て。私は用意しているから」
そう言うと女性は出て行った。気さくな感じの人だ。押し付けるふうでもなく、自然ともう少し居てもいいかと思わせてしまう。
明来はふうと息をはくと、胸を撫でおろした。朝からなんだか目まぐるしかった。一人になろうと電車に乗ったのに、なかなかうまくいかないものだ。明来は布団から出ると、身支度を整えた。布団も綺麗にたたみ、リュックを取ると、キッチンへ向かった。
昔ながらのモビールのようなビーズの仕切りをくぐると、シャラシャラと懐かしい音があふれた。耳に気持ちいい。キッチンでは良子が立って給仕をしていた。さあどうぞ、と言われて明来は椅子に座った。
「私は、永沼良子というの。あなたは?」
少し悩んだが、明来は答えた。
「斉藤明来です。大学生で、今はちょっと、あ、一人旅で」
実家に帰省中と言ったら、地元の人間でないことは一目瞭然だ。土地勘もないし、地名すら知らない。実家はどこ?なんて尋ねられたらそれこそアウトだ。
「お母様の具合は、大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう。今は落ち着いていて、ぐっすり寝ているわ。認知症が進んでね、もう十年。こんな生活もすっかり慣れたわ」
良子はくすりと笑った。
「さあ、冷めないうちに、どうぞ」
ふわりと湯気のたった、優しい匂いがした。
大きめのスープカップに、具沢山の野菜が見え隠れしている。スープはコンソメなのか、透明な色だ。ざく切りにしたトマト、細く切ったセロリ、しめじにエリンギ、ピーマン、キャベツ、かぼちゃとごろごろした野菜が沢山入っていた。
薄く切ったバゲットが添えられ、木のスプーンが置いてあった。
いただきます、と明来は言うと、カップを両手に挟んで口元に持っていった。暖かい湯気を胸いっぱいに吸い込んだ。セロリの青い匂い、トマトの酸っぱい匂い、少しだけ浮いた油はベーコンからか、そっと唇をつけると、一口スープを飲んだ。
口中に広がるコンソメの優しい味、ベーコンのこく、どの野菜もそれぞれの味が出ている。
「とても、美味しいです」
明来は顔を上げて、良子を見つめた。唇がなぜかきゅっとなって、奥歯に力が入った。目は細くなっていくのに、胸がじーんとしていく。
「良かった。自己流なんだけど。母がセロリ好きだから沢山入っているでしょう。セロリは大丈夫?」
「はい。大好きです。小さい頃は、苦手だったんですけど」
うふふと笑って、良子もスープを食べている。
木のスプーンは器にあたっても音を立てない。金属はカチャカチャと鳴るが、居間はテレビもついてなければ、しーんとして、良子と明来の話し声しかしなかった。
明来は角の取れて煮崩れたジャガイモをほおばった。歯で噛む前にほろりと崩れて、コンソメの味が染み込んでとても美味しい。
「良かった。少しは元気になったようね。母があなたに無理させたんじゃないかと心配したわ。認知症が進んでわがままになって、力も強かったでしょう?」
「いえ、大丈夫です」
「明来君って呼んでもいいかしら?」
「はい」
ありがとう、と言って良子は微笑むと俯いた。湯呑のお茶を一口飲んだ。
「明来君は、優しいのね」
「そんなことないですよ」
明来は何を言われるのか、驚いた。
「母があんな風に、よく息子と同じ年ごろの人を引っ張ってくるの。ほとんどその場で振りほどかれたり、怒鳴られたり。普通の人はそうだわ。気持ち悪い話よね」
「そんな」
「明来君は、振りほどこうと思えばできたのに、そうしなかったから。きっと母のことを先に考えてくれたんだろうと思ったの。ありがとう」
良子はにっこり笑うと明来をじっと見つめた。
「でも、自分のことを一番に考えてね」
「え?」
「自分ファーストってよく言うじゃない? 私は本当にそう思うわ」
そう言うと、良子は急に黙って、スープを食べ始めた。明来はどう返事していいか判らず、少し動きが止まる。想像でしかないが、母親の看護に疲れて、自分の時間がなくて辛いと言ってるのだろうか。
自分を大事にする、それは明来にはよくわからなかった。
明来は、唇を噛み締めた。自分は、周りの人みんなを苦しめた。誰一人幸せにしてやれなかった。割れたコップに、それでも水を注ぎ続ける、なんて言ってた自分が恥ずかしい。そんな資格も力も、自分にはない。もう何も元には戻らないのだ。
「ご馳走さまでした」
明来は食べ終わると、両手を合わせ頭を下げた。
「あら、もういいの?」
「はい。僕こそお礼を言わないといけません。気を失ったところを助けていただき、ありがとうございました。こんな美味しいスープまでいただいて、落ち着きました」
「それならよかったわ。なんだか引き留めてごめんなさい」
いえ、と言ったまま明来は顔が上げられなかった。俯いたまま、それじゃ、と言って立ち上がった。良子が何か言う前に、ここを辞したかった。リュックを手に、もう一度頭を下げた。
「車で送っていくわ」
「いえ。大丈夫です。お母様がいらっしゃいますし。僕は駅まで道は判りますから」
そう言って、そそくさと玄関へ向かうと、スニーカーに足を入れた。ぱたぱたと追ってくる足音にもう一度頭を下げると、明来は玄関を逃げるように出て行った。
(つづく)




