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第9章 旅 -1-

-1-


耳に、遠くから押し寄せる波の音が響いた。ざぶんと飲み込んで、ざーと引いていく。何度も押し寄せは引いていく。耳に心地よくて、明来はただ繰り返す波の音を聞いていた。

ゆったりと、水の音だけを聞いていると、だんだん自分の呼吸のタイミングと合わさっていくようだ。深く息を吐いて、すうと空気を取り入れる。波が打ち寄せて、引いていく。身体中の血液が全身をめぐり、あらゆる細胞へと酸素を運んでいく。身体が静かに、ゆったりと解放されていくようだ。


足元の砂浜は、白いのかと思ったら茶色で、粒も大きく、掘ると海水がじわじわと浮き上がってきた。砂粒の間にじわっと滲んで、たぷんと小さな水たまりを作っていく。さらさらと靴底の砂が逃げて、徐々に足が沈んでいく。じっと立っているだけで、足元が揺れているような浮遊感だ。

砂にいぼり出して、明来は一歩歩き出した。ざくざくと音がして、砂に足が取られそうだ。


波打ち際のぎりぎりへと歩きだした。濡れた砂は固くなっていて、それほど足を取られない。

寄せる波は、白い泡を作って引いていった。少し先は急に深くなっているのか、随分と暗い灰色のような色だ。今は夕方なのか、徐々に陽が陰ってきて、海の色が深い緑色になった。


ここには明来しかいない。

一人、砂浜に立っている。陽はさらに陰ってきて、足元の自分の影は墨汁で描いたように真っ暗だ。



視線を上げると、遥か向こうには水平線だ。船の一つも浮かんでいない。ただ、大きな海原が広がっていた。

明来は大きく息を吸い込んだ。漁港で嗅ぐような潮の匂いがべったりと貼りついて、爽やかにはほど遠い。じっとりとした湿度を孕んだ独特な匂いだ。身体や髪にまとわりついて、


こんな海は、あまり好きではない。



『じゃあ、どんな海が好きなんだ?』



ふいに、声がして、明来は振り返った。




ガタンガタン、ガタンガタン。


線路を走る列車の揺れに、目を覚ました。うっすらと覚めていく眠りに焦燥感を感じて、目はつむったままだ。

起きたくない、目が覚めると、考えなくてはいけない。このままでいたい。何も考えたくない。


目頭につと濡れる滴を感じて、否応なく明来はゆっくりと目を開けた。


外はすっかり明るくなって、列車の窓の景色はどこかの林の中を抜けていた。深い山麓が遠く広がっていた。

少し首を伸ばして前を見ると、この車両には明来以外に何人もの人が乗っていた。どこかの駅で乗ってきたのだろう。流石にこんな時間に子供はいないので、各自ひっそりと座って静かだ。朝が早かったからか、明来と同じように眠り込んでいる人が多かった。


車内アナウンスとともに、前方の掲示板に次の停車駅名が流れていた。


窓ガラスにこつんと頭を当てると、そこから空を見上げた。硝子越しの空はすっかり晴れ渡り、薄い雲が点々としている。こういうのをイワシ雲というのだろうか。澄み切った明るい空色の背景に、魚のうろこのような白い雲がまばらに浮かんでいた。

今ぐらいに一番良い季節だ。爽やかで空気が澄んでいて、湿気がほとんどない。旅行するには最適の季節だろう。あっという間に冬になって、日暮れが早くなって暗いし、物悲しいし、あー寒いのはいやだな、と明来はぶるっと首を引っ込めた。


もう少し寝ようか。

何も考えないで済むし。


胃がからからだ。お腹を触る。凹んできゅうきゅうだ。


明来はリュックから紅茶とドーナツを取り出した。ペットボトルのプルタブを開けて、ゆっくりと飲んだ。乾いた喉が潤っていく。ドーナツの袋を開けると、一口かじった。

もそもそとした小麦粉は、何も味がしなかった。飲み込むのも一苦労で、紅茶を飲んで押し流した。うっぷと上がりそうになって、何度も胸を撫でさすった。入院中は意識がなくて、何も食べてないはずだ。いきなりドーナツなんて無理だったか。なんだか我ながら呆れて、明来はくすりと笑った。


お腹が空いていたわけでもない。

ドーナツを手の平でもてあそびながら、ぽつりと呟いた。


「ドーナツは嫌いだ、なんて」


言ったのは、東辞だ。出会って間もない高校生の頃、まだ自分が心療内科に通っていた頃だ。偶然会った公園で、粉砂糖たっぷりの揚げたてのドーナツを貰った。表面はかりっとして、中はふわっとして、バニラが香る優しい味だった。手作りの温かいドーナツ、作ってくれた人のことを思って、無理矢理東辞に食べさせた。苦い顔をして、甘くて胸やけするとぼやいていた。


東辞は、8歳で母親の元から連れ去られた。

その日、母親は手作りのドーナツを揚げて、学校帰りの息子を待っていたらしい。


どんな思いで、俺が押しつけたドーナツを東辞は食べたのだろうか。



明来は急に下を向いて、手のひらを見つめた。くっと下唇を噛みしめて、目頭に力を込めた。自然と涙がこぼれていく。


明来は両手で耳を抑えると、頭を左右に振った。


考えない。考えない。


そう思えば思うほど、思いだすのは東辞のことばかりだ。何も考えず、楽しく笑っていた頃のことばかり。



明来


明来


言挙ことあげしてみろ。


受験勉強、頑張れ。


コップが割れてても、お前は注ぐんだろ? 水があふれてこぼれても、笑いあえる未来を信じて。




『俺を、一人にするな』



ずぶ濡れの池のほとりで、絞り出すように言った。


どうして?

考えたくないと思うのに、頭の中、こんなに東辞のことでいっぱいなんだ?


何を見ても、東辞が浮かぶ。一気にぶわっと現れて、オレの心を一瞬で縛る。


列車

飛行機

紅茶

アップルパイ


福岡の太宰府まで来てくれた。季節はずれの桜を、東辞が満開に降らせて、梅ケ枝餅、沢山買って、二人で飛行機に乗った。


あの時、初めてスーツ姿の東辞を見た。


明来となら話せる。

俺の言葉で。


この馬鹿。なんでお前はそうなんだ? 辞めろ、だめだ。諦めろ。




どうして、どうして?


出会わなければ、よかったのか? 


お母さん




雑念ばかりが沸いては消えていく。目をつむり耳を塞いでも、一瞬一瞬の画像が現れ消えていく。

大学生になった東辞。大人になっていた。

神官になって、結婚して、どんどん離れていく。

最後に会ったのは、東辞の母親の死を知らせた暗い海辺だった。


いやだ、いやだ。


遠のいていく意識の中、明来は気を失うかのように、また眠りに落ちた。




どのくらい時間が経ったのか、肩を揺らされて、明来は目を覚ました。


「お客さん、終点ですよ」


顔を上げると、駅員さんが立っていた。JRの制服に身を包んだ、自分の父親よりもだいぶ年配の男性の駅員さんだ。かぶっているJRの帽子から、白髪の髪がちらちらと見えた。


「あ、済みません。眠ってました」


「お一人ですか? 顔色があまりよくないみたいですが、大丈夫ですか?」


「あ、はい。大丈夫です」


と言って立ち上がった途端、ぐらりと揺れて席にどすんと座り込んだ。


「お客さん?」


貧血か、急に気分が悪くなって、明来はぎゅっと目を閉じた。冷汗が額に滲んで、はぁはぁと荒い息が出てくる。


「ああ、いけません。少しお休みいたしましょう。この列車は折り返し運転になりますから、駅長室に休憩所があります。どうぞ、そこで休んで下さい」


「いえ、そんな」


明来は言葉を詰まらせながら、迷惑はかけられないと断った。


「大丈夫です。倒れてしまってからでは大変ですから。どうぞ無理されず、さあ」


明来は腕を取られて、ゆっくりと立ち上がった。そろそろと歩きながら、何度もすみませんと言うと、駅員はいえと首を振って微笑んだ。


駅長室に行くと、救護室という部屋に通された。職員の仮眠室も兼ねているとのことで、ベッドが5つほど並んでいる。カーテンは閉められていて、窓から明るい日差しが透けて入ってきていた。


「さあ、少し休んで下さい。荷物はここに置いておきますね。ひどくなるようでしたら、遠慮なく言ってくださいね。私は事務所におりますので」


明来は笑顔を作ると、ご厚意に甘えてベッドに入った。


かつかつと駅員さんの足音が遠のいていく。


目をつむって、明来は丸まってベッドに横たわった。血の気が引いているようで、指先が氷のように冷たい。指先を握り込むと、明来は唇に押しあてた。


自分の身体は、どうなってしまったんだろう。


里美が針を刺した。

始まったんだね、と言っていた。


光輪協会の会長の下で、里美が行った術なのだろうか。


自分の身体をむしばんでいるのは、病魔なのか?


里美は何も言わなかった。



目を開けると、しんとして誰もいない部屋に一人だ。白いシーツは洗いたての清潔なもので、洗濯糊がついてピンと貼った綿の匂いがしていた。

硬いシーツに顔をうずめると、なぜだろう、小学生のような心持ちがしてくる。

そうか、保健室の匂いだ。明来は身体から力を抜くと、ふうと大きく息をついた。緊張して凝り固まった身体から、力が抜けていく。少しづつ、悪心も治っているようだ。


大学で倒れてから、2週間くらいが経っていた。

高宮が看護してくれていたんだろう。それでも、『死ぬなんて、許しませんよ』と彼は言った。


高宮がそう言うからには、自分の病気は治せていない。自分は死ぬのか。


そして、東辞は喉を潰した。もう声が出ない。言霊も使えない。自分のせいなのか?


東辞とオレの出会いを画策的に作ったというなら、

そのために、オレの母親を殺したというなら、


命を奪ったのは誰だ?



母から離れたくなくて、焼けた母の爪をずっと大切にお守り袋に入れて持っていた。

苦しいなんて、悲しいなんて、言葉にできるほど単純な感情じゃない。

夜、眠る時も、朝、起きた時も、

お茶を入れて飲む時も、

風邪をひいて寝込んだ時も、


どんな時も、どうして、あの時死ななければならなかったのか? ずっとずっと考えて、後悔して、どうにもならなくて、自分になんの力もなくて、馬鹿で悔しくて。でも、お母さんはどこにいなくて。


ずっとずっと、どうにもならない思いで、胸がぱんぱんで苦しかった。塊のようなこのにがい思いが、出て行くところがどこにもなかった。


東辞に『俺を、一人にするな』と言われて、オレはここに居ていいんだ。ここに、東辞のそばにいなきゃいけないんだ。ここがオレの場所なんだって、心から、オレは生きていてもいいんだって、胸の中にぽっかり温かいものが灯った。


でも、でも。


東辞とオレが出逢うためだったのなら、

母を殺したのは。



明来は起き上がると、ベッドから降りた。枕元に置いてあったリュックを手に取った。ぼさぼさになった髪をすいて、救護室を出た。

事務所のほうに行って、助けてくれた駅員さんに声をかけた。


「もう、大丈夫ですか?」


「はい。休ませて頂いて、本当にありがとうございました。助かりました」


「あまり顔色は変わってないように見えますが。駅をでたところに内科がありますから、行ってみませんか?」


「いえ、ありがとうございます。大丈夫です。退院したばかりなので、ちょっと調子が出なくて。でも大丈夫です」


明来はにっこり笑って頭を下げた。


「そうなんですか。何かあったら、遠慮なく言って下さい。これから、どちらに行かれるのですか? お一人なのですか?」


ええと、と言って、明来は迷った。取りあえず、終点まで行って、そこからまた乗り換えて終点へと思っていただけで、どこへという行先はない。


「実家に帰省するところなので、大丈夫です。ありがとうございました」


適当に言った。


「そうですか」


と駅員も納得したようだ。親切がとても有難かった。


明来は会釈すると、駅の待合室のほうに向かって歩き出した。背後から、見守っているような気がして、明来は待合室の椅子には座らず、そのまま駅をあとにした。


振り返ると、駅名が書いてあるが、聞いたこともない。大きな駅で、バスターミナルと連結していて、人通りも多かった。ここからどういう方向へ行こうか。

街の喧騒に、明来はぼんやりと立ちつくした。


(つづく)



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