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第8章 夜明け前 -6-


-6-


「あなたを守ると、俺は……」

高宮たかみやこうべを垂れたまま、両手を組んだ。まるで祈るかのような姿勢で、その手を額に押し当てた。押し殺したような、口から微かな声が漏れていた。


「誓った。枯れ木のように細くなった腕を握って、俺は、必ず守りますと、水桧みずえさんに、あれほどに。それを俺はっ」


叱責するような、それでいて後悔のような独白をして、高宮はそれきり黙り込んだ。


明来あきは動けず、息を止め耳を澄ましていた。


ぎりりと何かのきしむ音がした。それが、奥歯を噛みしめる音だと気づいた瞬間、明来は身が縮んだ。


鉄の塊のように、高宮は動かない。唇から漏れる声さえしない。

明来の病室は個室で、誰もいない部屋に空調の音が微かにしていた。腕につけられた計器の音がせわしない。小さな電子音が耳障りに、心拍数を刻んでいた。


明来は動けなかった。息をすることすら、怖かった。


高宮に気づかれたくない。高宮のこんな弱い姿を見たことがなかったからだ。いつも自信に満ち溢れて、先の先まで予想して、何事も満ち足りて間違うことなどない。明来などは彼の手のひらの上で、ぬくぬく過ごしていたばかりだった。

それを、自分なんかに見られたと知ったら、どんなに高宮は傷つくだろうか。


智加はるかの母親を九州の山奥に隠して、ずっと守っていた。想像でしかないが、そこにどれほどの思いがあったのか。

幼い智加を母親から引き離し、ずっと智加のそばで、どんな思いだったのか。


どれくらい時間が経ったのだろう。

ぎりしと椅子が鳴る音がした。高宮が身じろぎでもしたのか、生きていると感じてほっとする。


「明来さん、すみません。少しだけここを離れますね。あなたのことは、医師によく頼んでおきますから、頑張って下さい。……なんて、許しませんからね」


最後のほうは、小さな声で、聞き取れなかった。

何て言ったんだろう。明来はなんだかよく判らず、ただじっとしていた。


ばたんと部屋を出て行く音がして、明来は目を開けた。しんとして無音だ、人の気配もない。仰向けに寝たままの姿で、見えるものは白いベールだ。天井の明りはついてなくて、ベッドサイドにあるブラウン管が、赤々と灯っていた。


少し身体を動かした。今のところ痛みはない。どこかで事故って頭でも打ったのか、怪我をした様子はないようだが。

身体をひねると、チクリとした痛みは手の甲にあって、布団の上に出ていた手の血管に、点滴の管が刺さっていた。そこを手でさすると、まるで棒きれか何かのように冷えてがちがちだ。肩から下が凝り固まっていてうまく動かない。痛む腕を何度かさすると、摩擦で少しづつ温もりが戻ってきた。気にするほどのことはないらしい。


どれくらい眠っていたのか、今日が何日なのか、見まわしても判るものはなかった。


取りあえず、整理しよう。


明来はふうと大きた息をついた。


高宮さんが居るということは、オレは大丈夫なんだろう。意識も戻ったし、点滴の管がついているだけで、これといって酷い状態ではない。


それよりも、東辞だ。


硝酸をあおって、喉を潰した。


確かにそうと聞こえてきた。


なんでだ?

そんな馬鹿な。

東辞が、そんなことするわけがない。


(ぐぅっ)


刹那、明来の身体を、閃光のような激痛が走った。

左肩から脇腹へと一直線に走った痛みだ。一瞬で息が止まった。くっと噛みしめた奥歯から、悲痛な声が漏れ出る。

息を止めて、痛みが引くのをじっと待った。ほんの数秒か数分か、薄闇の中判らない。少し和らいで、ようやく目を開けた。


(はぁはぁ)


手のひらで胸を押さえ、荒い息を何度も繰り返した。


なんだ、これ。

オレ、どうなって。


血の気が、一気に下がった。ぞくりと粟立った。冷汗が、背中をじっとり濡らしていた。


病気?

今までそんなことは、一度も……。


明来ははっとなって、口を開いた。


そうだ、オレ、意識がなくなる前、大学で、田中たなか里美さとみに何か聞かされた。


『恋人になったんやろ? その男の』


コロサレタ


殺された


『ごめんなー』


君のお母さん。


会長が仕組んだことなんやけどな。2人を出逢わせて、東辞とうじ智加はるかに、自分の命よりも重い荷物を持たせるための



お母さんを殺した。

オレと東辞が出逢うため。

そのために、殺した。


明来は走馬灯のように、記憶が蘇ってきた。


遅刻すれすれで校門に飛び込んだ自分に、東辞が目の前に立っていた。

転んで、ありを踏まなくてよかったと東辞の足を引っ掴んだ自分に、東辞は変な顔をした。

あんな何気ない出逢いが、全て周到に計画されたものだった?


馬鹿なっ。


オレは中3の時に火事で母を亡くしたんだ。それから3年も経ってたんだぞ。そんな出逢いなんて。


違う。違うっ。


『硝酸をあおって、喉を潰した』


東辞ー。


嗚咽にも似た呻きを、明来は必死に飲み込んだ。





点滴の管は、引っこ抜けば簡単に取れた。

指先の計器も外した。看護婦が慌ててやってくるのかと思ったが、誰もやってこなかった。


細長いロッカーの扉をカチャリと開けた。

そこには見覚えのある自分の服が掛かっていた。明来はそれにさっと着替えると、棚に置かれていた自分のリュックを取り出した。ざっと中身を確認すると、財布や教科書は以前と同じように入っていた。ただ、携帯電話が無くなっていた。ベッドサイドにあるかと思ったが、辺りを見回してもどこにも無かった。

誰かに連絡したいわけでもない。

無いなら無くてもいい。


明来はリュックを背負うと、出入口のドアへと向かった。

カタカタと何かを運んでいる人の気配がした。すりガラスの人影が消えて、明来はドアをそっと開けた。電灯がついて明るい廊下だ。非常口と書いてある看板を見た。矢印は向こうだ。明来は足音を立てずに、ゆっくり歩き出した。


里美はこうも言っていた。



『貧血? 始まったみたいやね。僕の針が』


「は、り?」


『サッカーの時、刺したんよ。ごめんなー』


その後、オレは意識を失った。


高宮さんはなんて言ってた?


『医師によく頼んでおきますから、頑張って下さい。……なんて、許しませんからね』


……なんて、とは?


死ぬなんて、だ。


明来はふらりと揺れて、階段の手すりを掴んだ。

力の入らない足は、自分のものとは思えない。今日が何日でどのくらい寝ていたのか、思うように身体が動かない。病棟は6階だった。ようやく一階に辿り着いて、上がった息を整えた。階段の壁に手をついて体重を預け、廊下を奥まで見渡した。人気はなかった。検査室やレントゲン室など、行き先指示板が天井からぶら下がっていた。足元には非常出口へ誘導するのライトが、ずらっと並んでいる。反対側の方を見ると、どうやら受付と待合室のようだ。

明来は非常口側に向かって、壁に手をついて歩き出した。


非常口を見ると、誰もいない。ドアノブにそっと手を触れて、外へ出た。


思ったほど、暗くはない。それでも冷たい風が、明来の体温を容赦なく奪っていった。体重が落ちたのだろう、身体がしゃんとしない。喉がやたら乾いて、駐車場の自販機を見つけて、水を買った。


ペットボトルのプルタブを回そうとして、指に力が入らない。何度も何度も回して、ようやくパキと言う音が聞こえた。

口をつけると、冷たい水が、明来の喉を潤していった。


ぶるっと一回震えて、空を見上げた。明け方の空なのか、青白い雲がまだ残った月明かりに照らされている。少しだけ腕を上げて、ペットボトルを空にかざした。目元にあてるとひんやりとして気持ちがいい。月明かりが、透明の水を通過して、明来の目の中へ入ってきた。水が揺れると、月の光も揺れて、まるで水の中を泳いでいる魚ようだ。ぐるぐる回って、気持ち良さそうに笑っている。

明来は口元を緩めた。これと似たようなことが思い出される。


あの時も、学校の屋上で、サイダー水の入ったペットボトルを太陽の光にあてた。炭酸がかき回されて、ビー玉みたいにきらきらして、とても綺麗だった。ぶすりとして笑わない。オレの作った弁当には文句をたれる。

甘い卵焼きがいいと言っていた。


その瞬間、ペットボトルがぼとりと落ちた。

指先に力が入ってなくて、手がすべったのだ。


道路の上に、ぼとぼとと水が溢れていった。それが、じわじわと水たまりを作っていく。駐車場の舗装は綺麗で、白い枠線がはっきりと規則正しく引かれていた。まるで、新しい布にお茶をこぼして、にじんで汚れていくようだ。子どもの頃は、よくお茶をこぼして、テーブルを水びだしにしていた。


ごめんなさい


そうぽつりと言って、明来はただぼんやりと水の染みを見つめていた。




----


明来はJRの大きな駅に着いた。病院からはちょうどタクシーが動いていて、車に乗れてよかったと思った。駅に着くと、まだ朝の5時で、車や人通りもまばらだ。駅の待合室は無人で、ゆったりとした長椅子にひとり座ると、明来は時刻表に目をやった。


始発は5:20だ。何処行きなのか、よく判らない。携帯電話があれば、簡単に調べられるだろうが、今は必要だとも思わない。行くあてがあるわけでもない。とりあえず、それに乗ろう。


今は何も考えたくない。考えられない。

頭の中がぐちゃぐちゃで、この気持ちが何なのか、なんて言って説明していいのか、判らない。

白いもやのようなものが、ぐるぐると渦巻いて、胸の中がぱんぱんではち切れそうだ。ビニールの風船にめいっぱい空気を入れて、それが胸の中にぎゅうぎゅうに押し込められて、どこへもいけない。


苦しい。


目をぎゅっとつむって、ぱっと開けた。目の前に自販機が見えた。それは最近よく見かけるようになった食品の入った自販機だ。


そうか、何かお腹に入れよう。


お母さんも、いつもちゃんと食べなさいって言ってた。白いエプロンが大好きで、いつも。


じわりと目尻に涙が溢れてきた。ぐっと奥歯を噛みしめると、明来は立ち上がった。自分はおかしい。部分的な記憶がパッと出ては消えていく。取りとめのないものばかりだ。思い出すこともなかったのに、いきなり現れては、無意味に消えて、また現れて。とめどない。過去に苛まれて、思いだして、苦しいだけだ。


リュックから財布を取り出すと、自販機にコインを数枚入れた。

上から、菓子パン、サンドウィッチ、カロリーメート、チョコバー、ドーナツ。

色んなものがあった。


明来は、ドーナツを選んだ。がたんという音とともに、下の取り出し口にドーナツが落ちてきた。


食べようかと迷ったが、食欲はない。一緒に買ったホットの紅茶を一口飲んで、ドーナツと一緒にリュックに押しこんだ。


奥歯を噛みしめると、明来は努めて周りを見回した。目に飛び込んでくるものを考えよう。気がそぞろになって全然ダメだ。

かちかちと、いかにも古めかしい大きな時計が、時刻表の横に飾ってあった。学校の教室にあるような、ただの真白い文字盤の時計だ。長くて大きな秒針が一秒づつ刻んでいる。その秒針を目で追った。


57

58

59


何にも邪魔されず、ただかちかちと動いている。時計は何か考えているんだろうか。遅れたら大変、怒られる、なんて馬鹿なことを思って、明来はかぶりをふった。


5:08


そろそろ、切符を買いにいこう。

席を立って、自動発券機のほうに向かった。ここに来て、ようやく人に出逢う。

かなり年配の人から、サラリーマンのような人まで、さまざまだ。お互い、こんな早くから大変だね、と言わんばかりにちらっと見やると、視線を戻して足早に去っていった。


5:20の始発の特急列車だ。とりあえず、終点までの乗車券と特急券を買う。お財布にお金が入っていて良かった。そう言えば、一ヶ月の生活費を通帳からおろしていたんだった。


明来は、切符を手に、自動改札口を抜けて、指定された乗り場へとエスカレーターで登った。ホームに立つと、右を見て、それから左を見た。だたっぴろい乗り場に、待っている人は数人だ。

場内アナウンスは、女性の声で、間もなくホームに列車が来ることを伝えていた。一直線に伸びた線路に、列車が入ってくる。明来は吸い込まれるように、まっ白な列車へ乗り込んだ。




(続く)

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