第8章 夜明け前 -5-
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「どうなんだ、これの喉は?」
せっついた声で、東辞亘は目の前の男に聞いた。
男はただ首を横に振って、何も言わなかった。
ここは東京にある救急病棟の一室だ。最新の細胞再生医療に特化した外科の専門医が揃っている。目の前の男は、神社本庁の統理代理という席にある守部だった。アメリカ国籍を持ち、癌医療の最先端の医療チームにいた、将来を嘱望されていた男だ。
それが今は、神社本庁に席を置いている。その守部が、医師らしく白衣に身を包み、意識のない智加の様子をじっと見ていた。少し長めでウェーブのある髪は、グラデーションに染まっていた。英国紳士のような優雅な出で立ちで、うっすらと生えた不精鬚ですら、気品を感じさせた。
神社本庁では、さぞ異端だったろう。
広い個室のベッドに横たわり、東辞智加はこんこんと眠っていた。その横で、守部は点滴の管を少し触り、バイタルメーターの機器の数値と智加の顔を見比べていた。
患者用の病衣は、前合わせで、首元が大きく空いていた。守部はその首元から胸へと広がる大きな痣をじっと見た。黒い痣が急に赤く腫れて、息がしずらいのか、酸素吸入器がしゅうしゅうと音を立てていた。
青い顔で、生気のないその顔は、まるで死んだようだった。
それを美しいとさえ思う。守部は自嘲したように振り返ると、口の端をくっと引き上げた。
「胃洗浄は済みました。薬物の影響はありません。ですが、声帯が重度の火傷をおっています。手を尽くしましたが、二度と声が出ることはないでしょう。声帯を再生する技術は、今のアメリカでもありません」
亘はがっくりとうなだれて、手で顔を覆った。
「馬鹿なっ」
ぎりりと奥歯の噛みしめる音が聞こえてきた。亘の声は掠れていて、重苦しい。神官として言霊の力を失っていても、まるで部屋を押しつぶすような圧力だ。
「馬鹿なこと、ですか?」
守部は聞いた。亘は顔を上げずに俯いたままだ。
「それ以外の何だと言うのだ? 智加に、不可能はなかった。声一つで、何もかも自在に操れた。意のままだ。その声を潰すなど、馬鹿以外の何者でもない。久我山なぞ、ほうっておけばよかったのだ。智加にかかれば造作もない。我々を脅かしても、智加の言霊さえあれば、」
亘は言う。
なんとでもできた、と。
ぐったりうなだれたままの亘に、守部は、
「あなたは、久我山を殺さなかった智加さんの意図が判っていない」
「は?」
「殺すことなどたやすかったでしょう。ですがそれをしなかった。智加さんの真意が何なのか、考えたことがありますか?」
「真意? これにそんな判断はさせていない。東辞の人間だぞ」
「それでは、あまりにも智加さんが可哀想だ。智加さんが本当に逃れたかったのは何なのか、考えたことはないのですか?」
「誰に向かって」
「どうとでも言ってください。智加さんとて人の子です。それを考えて下さい」
「智加は人ではない」
「なら、神とでもいうんですか?」
鋭い声だった。こんな自分にも言霊がのるのなら、まるで刃物の切っ先だったろう。ふっと力を抜いて、守部は自分を笑った。
嘲笑、滑稽と言ってもいい。
伸ばし始めたひげをさらりと触ると、肩の力を抜いた。
亘がきっと目を吊り上げて、守部を見ていた。白髪に覆われた老齢の男は、目の奥にギラっとした光を放っていた。ただの年寄りかと思えば、プライドだけは一人前にあるらしい。
「笑止」
ばんと膝を叩くと、亘は大声を出した。ぶんという音がして、智加につけたバイタル計器が不具合を起こす。亘の言霊の力か。まるで蝋燭の灯の、最後の燃えカスのようだ。
「まだ答えを聞いていません。それが交換条件だったはずです。智加さんの容態を診ました。出来うることは全て尽くしました。もう手の施しようはありません。私にできることはもうないのです。だったら、今度はあなたの番だ。二十年前、アメリカで人種差別の民権運動のリーダーだった男に、あなたは何をしたんですか?」
亘がむんと口を噤んだ。
「神は存在するのか?」
守部はまっすぐに亘を見ると、視線を外さなかった。
『神は在らせられるのか?』
それが守部をここまで突き動かしてきた原動力だ。原動力というには、あまりにも言葉が乏しい。ただの執着に過ぎない。自分が転落した人生のつけを、それが正しかったことなのか間違いなのか、証明してほしいのだ。
この男は、その問答にさほど興味を示してないらしい。ただ守部を見上げると、亘はどうでもいいと言いたげに、軽い口調になった。
「神が本当にいるのか? 素人はすぐに是非を聞きたがる。やれ神が現れて我々を救ってくれるだの、聖痕だ、神の御業だのと。誰もが、奇跡を見たと口々にはやし立てる。まるで宇宙人は存在するのか、UMAはいるのか、三文記事と一緒だ。君はそれを知ってどうするのだ?」
「答えが欲しいのです。当たり前じゃないですか。私は科学を信じてきた人間だ。それが目の前であんなことをされたら、神としか言いようがないじゃないですか。神はいるのか? だったら、なぜ全てを救わない? なぜ人を選ぶ? それが神のすることか?」
守部は思わずかっとなって声を張り上げた。まるで、神の存在など、どうでもいいかのように言う。それを否定されたら、自分の全てを否定されるも同然だった。
「私は、世界最高峰と言っても過言ではない医療チームいたのです。アメリカでも一、二を争う最先端の機関で、将来を嘱望された医師だった。妻も子もいて、順風満帆の人生だった。何百人と手術をしてその命を救って、人々に『神の右腕』と言われて称賛されてきたのです。信じるものは科学と自分の腕だけだった。その私がだ」
守部は声がうわずった。
「ただ一言二言、言葉を放った日本の男に、負けたのだ」
守部は目の前の男を睨みつけた。力も失って、最後の手段も失って、ただ呆けるだけ男を。
面倒くさそうに大きなため息をつくと、亘は口を開いた。
「日本と外国とでは神の定義が違う。一神教があれば多数の神もいる、日本では八百万の神がそうだ。外国人が言う神と、我々の神が違うことは理解できているだろう」
「私は、日本の神社本庁に所属する人間です。それは熟知しています。現実世界に、神は存在するか否か、ということです」
「ならば、私が話すことができるのは、これしかない。それを聞いて、君がどう判断するか、それはもう私の範疇ではない。それでよいのなら、私の知る全てを話そう」
守部はごくりと唾を飲んだ。指先が微かに震えて、無意識にぎゅっと握り込む。
「神が何なのか、それは我々人間の知る由もない。何らかの存在がいるとだけ言おう。だが、それらは我々人間にはお構いなしだ。意思の疎通などない。考えてもみたまえ。ここに蟻が無数にいたとしよう。君が誤まって蟻を踏み殺したとしても、罪の意識に苛まれることはない。蟻から見れば、我々は神のような存在だろう。地面に這い回る蟻を生かすも殺すも、我々の胸一つだ。踏みつけたとしても、心が痛むこともない。神からすれば、我々は蟻同然」
「それが神なのか?」
「そういうものが存在する、と言っている。我々ですら、雨水に溺れる蟻を見たところで、救うとか殺すとか、何の感情もないはずだ。神から見れば、我々人間も蟻同然。神が人間を救うとか奇跡を起こすとか、論外だと言っているのだ」
「馬鹿な……」
「上位の階層で、のほほんと存在しているだけよ、それをどうこう言うのは馬鹿馬鹿しい。どう足掻いたところで、我々は蟻と同等」
守部は眉間に眉を寄せた。なにか違う、私が欲しかったものはそうではない。
「では、白山神道の存在は? 人の命を自由自在に扱い、総代も民権リーダーを言霊で救ったではないですか? 膵臓癌で余命半年の男を。死ぬしかなかった男を。あれが神の御業でなくて、何だと言うのです? 普通の人間にできることではない。これを神とは呼ばないのか?」
亘はふんと鼻を鳴らした。
「我々は神ではない。彼らから見れば、所詮私も智加も蟻と同等の存在。一般人より、ほんの少し階層を上がったに過ぎない。だが決して神などと言う高層の存在ではない。それがどんなタイミングで現れ、誰に発動されるのか、我々も知らん。白山神道の血族だったとしても、できない人間のほうが多い」
「そんな、馬鹿な。偶然の産物だと? たまたま出来たと?」
守部はがくりと肩を落とした。もがき苦しんできた答えがこれなのか? では自分は一体何を信じてきたのか? 奇跡を……。
「君は救われたかったのか?」
ぼんやりと顔を上げると、亘がこちらをじっと見ていた。
「それとも、救いたかったのか?」
亘の声がしている。
違う、そうではない。
私は、
あの民権運動のリーダーを
どうして、生きたり死んだり、
誰が決めるのか?
「是でもない。この世界に神などいない。あるがまま」
「では、総代は何を? 智加さんに何をさせるつもりだったですか? 潰された一族の復讐ではないのですか?」
ちらりと智加に視線を移すと、亘は何も言わなかった。その時、亘の胸元で、携帯電話が鳴り響いた。すっと背広の内側に手を入れると、亘は携帯を取りだし話し始めた。
「総代。高宮です。お忙しいところを申し訳ありません。智加さんの行方が判りません」
『ああ、判っている。ここにいる』
「こことおっしゃると、東京ですか? なぜ? どうやって」
高宮は愕然となった。ほんの数時間前に、エレベーターから忽然と消えたのだ。それがなぜ、東京へ。新幹線に乗ったのか、いや、そんなはずはない。東辞の監視をくぐりぬけて、移動できるはずがない。一体どうやって。
「智加さんは無事なんですね? 久賀山が狙っていたはずです」
『久我山のことなら、もう問題はない。二度と我々の前には現れない』
「総代。それはどういう?」
高宮はそこではっとなった。一気に体温が下がり始める。電話を持つ手がじとりと汗ばんできた。目の前にはこんこんと眠り続ける斉藤明来がいる。ここは、明来の病室だ。
そう言いきれるのはつまり。
『智加は硝酸をあおって、喉を潰したからだ』
「はっ?」
『二度と声は出ない。祝詞も言えない。東辞も終わりだ』
ぐらりと身体が揺れた。遠いところで声がしているようだ。鼓膜がぶんと膨れて、くぐもった声がよく聞こえない。
「硝酸を、あおった。智加さんが?」
刹那、明来は一瞬にして目を覚ました。
耳が「智加」という言葉に反応して、スイッチが入った。そんな感じだった。他の器官はまだ眠ったままだで、何がなんだか判らない。ぼんやりとする頭に届いた言葉は、
「硝酸をあおった」だ。
明来は動けなかった。ここがどこなのか、自分が何をしているのかさえ判らなかった。硬直して、身体が動かない。指の一本も動かせない。まるで身体が固い棒きれにでもなったかのように、動かせばぎしぎしと音を立てそうだ
なんだよ、これ。
動け、オレの身体。動けって。
こんなことしている場合じゃない。東辞が、東辞がっ。
硝酸をあおった? なんで?
嘘だっ。
ぎっと奥歯に力を入れた。ようやく瞼が開いた。
目の前は霧がかかっているか、視界がぼんやりとして見えない。夜なのか、昼なのか、自分は仰向けに寝ているようだ。
そこで喋っているのは、高宮さん?
ぐぐと顔を動かして、足元の方を見た。
白く透けたベールの向こうで、大きな人の姿が立っていた。申し訳ありません、と何度も言っている声がしていた。その姿がぐらりと崩れると、床の上に物が落ちるような音がした。
「智加さん、なぜそんなことを? どうして」
小さな声、か細い、力のない、聞いたこともない高宮の声だ。
「あなたを守ると、俺は……」
悲痛な声だ。苦しい、苦しい。
いやだ、こんなことは嫌だ。
明来は、これがまごうことなく現実なのだと、奥歯を噛みしめた。
そして目を閉じた。
耳を塞ぎ、唇を噛みしめて、今は。
(つづく)




