第8章 夜明け前 -4-
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「ここは? どこやっ?」
里美が叫んだ。
ここは真っ暗で欝蒼とした緑の中、人気のない山奥だ。
先ほどまで、人で混雑したJR駅前の大通りだったのだ。行き交う人の多さ、町の喧騒、走る車の騒音に辟易する場所だった。
それが今は一瞬で、奥深い雑木林の中にいるのだ。緑深く、欝蒼とした場所だ。陽の光もほんのわずかしか通ってこない。時折、甲高い野鳥の声が方々から響き、耳をつんざいた。
一瞬で辿り着いた場所に、理解を超えたのだろう、里美は慌てふためいた。
こんな芸当、流石に光輪協会でもやってのける人間はいないだろう。
「なにをしたんやっ。あんた!」
声を荒げて、里美は智加をぎっと睨みつけた。いつものへらへらした顔はどこへやら、いっそ小気味いい。
里美は慌ててジャケットの内側を探ると、携帯電話を取り出した。震える手であれやこれやボタンを押している。
「こんなことして、僕を怖がらせても、無駄やからな。会長に言うてやる。お前なんか、会長の前に行ったら赤子も同然や」
ぎっと目を吊り上げたかと思うと、里美は苛立だしげに携帯電話を投げ捨てた。カンと音を立てて樹木に当たると、それは勢いを失って泥土の上に落ちた。忌々しげに携帯電話を睨みつけて、くそっと大声を放った。
こんな山奥で、電波が通じるわけがない。
里美は後ろを見ると、じりじりと後ずさって智加を見据えた。
「会長はあんたを日本の神さんにするつもりや。でも、のうのうと生きていけると思うたら大間違いや。あんたは殺される。会長はあんたが欲しいわけやない。あんたの空洞が欲しいだけやっ」
智加は顔色一つ変えかった。端から判っていたことだ。じっと里美を見つめたまま、じりじりと距離を詰めていった。泥土のぬかるみを靴底に感じるが、それさえも心地よかった。
秋の深い新緑が、清々しい空気を放っていた。それを胸いっぱいに吸い込む。
「高天原に、事始め賜ひし大神等よ
眼前に凶事の根元を知ろしめし
荒び来たらむ悪事
世を震わせ 善き人を苦しめ」
ろうろうと、智加の低い声が響き始めた。
山がざわざわと騒ぎ出した。あれほど鳴いていた鳥の声が、刹那ぴたりと止まった。
樹木は枝を伸ばし、両手を広げ長い影を落とした。幾重にも伸びた枝で、里美を暗い闇へと覆い隠していく。
「なんや、なにするんや。やめっ」
里美の悲痛な叫びが響いた。智加は目をつむると、腕を前に突き出した。屑金が呼応するようにぞわぞわと広がり、智加の指の先まで黒い痣が広がっていった。
暗闇の中、突き出した指先も真っ黒で、今となってはどこまでが自分の指先か判別できない。神経はどんどん前へ伸びていき、空中に、里美の肉体を掴んだ。
目を開けた。里美は首を掻きむしり、呻いている。その姿が透明に透けて、腹の底のほうに、何もないものが見えた。
それが何か?
知るか。
智加は、むんずっと掴むと、ずるずると引きづり出した。
里美が口を大きく開け、痴れたような顔をして、白目を剥いた。
「無限へ退け賜ふ事を 今より始め賜ひき
この者
加々呑ません
死より深き死を
生より深き生を
汚らへ過まてらむを由々しみ
天津御法の随に
国津御法の随に」
殺すつもりはない。
そんなものた易い。楽にさせるつもりなど、毛頭ない。
生きて、生きて。生き腐れっ。
「彼方の野辺に
枯れ臥さむ燃草刈り集めて炫彦の御荒びに
加々呑ません 加々呑ません」
引きづり出したものを握り潰し、塵芥の野辺に葬送する。海の藻屑へ、存在することもない彼方へ葬り去った。
その瞬間、ガクリと里美の頭が垂れた。
どさりと泥土に座り込むと、空中をぼうと見つめている。口は大きく「あ」の字に開けたまま、首をかしげ、口の端からは透明の液体が流れつたった。
呆けている。
何にも反応することなく、ただ呆けて座っていた。
里美の空洞はもうない。人として、この先どういうことになるか、それすら知らない。
智加はその姿を睨みつけた。胸に蠢くものは、後悔でも満足でもない。
くっと唇を引き結ぶと、里美に近寄りその腕を掴んだ。そして消えた。
ーー
「智加様?」
いきなり現れた智加に、ほんの少し男は表情を歪めた。目の前には、光輪協会会長、久我山要三の姿だ。
ちらりと辺りを見ると、ここは先日久我山に会ったホテルの一室ではない。自分でも一体どこへ飛んだのか、よく判らなかった。相変わらず調度品は立派で、趣味の良い部屋にいる。
智加は無言で久我山に視線を送ると、手にした里美をどさりと放り投げた。
「ほう、これはこれは。お流石でございますな」
空洞を抜いたのが判っているらしい。慌てる様子もなく、久我山はゆったりと微笑んだ。
里美は泥だらけになって、まるでどぶ鼠のようにびくびく怯えた姿だ。
「かいちょ。会長ー」
久我山の足もとにうずくまり、抱きついて泣きじゃくっている。
久我山が一別すると、里美はひっと小さな悲鳴を上げて、抱きついた腕を放して丸くなった。びくびくと時折痙攣のように引きつけを起こし、頭を抱えてひゅうひゅうと息をはいた。
意識は戻ったのか、空洞を抜き取られた里美がどうなっているのか見当もつかない。
「それでこそ、我々が神となられるお方だ。ここまでお出来になるとは、私も誇らしい限りです」
智加は久我山を真っすぐに見た。
よろしければこちらへ、と久我山が部屋のドアを開けた。智加は言われるがままついて行くと、そこはだだっぴろい大広間だ。真っ白な壁に、深みのある骨董品のような長椅子がずらっと並び、全て正面を向くように設置されていた。まるで礼拝堂のような場所だ。正面に、2メートルはあろうかという真っ白い像が建っていた。青年のような、聖母のような慈悲に満ちた微笑みだ。思わずほうっと見惚れてしまう美しい彫刻だ。両側の壁には大きな窓がしつらえてあり、そこから入る陽の光が、さんさんと像を照らし光輝いていた。
「素晴らしいでしょう。これは真珠の箔を貼り付けて作った立像です。穏やかな頬笑みとすべてを許し包み込もうとする愛を表現しています」
真珠の箔が虹色に光り、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
うっとりとした目で、久我山が言う。
「明来を戻す方法を言え」
智加は声を出した。ぎっと久我山を睨みつける。
久我山は表情を変えなかった。
「方法はありません。里美からもお聞きになったでしょう?」
「明来を利用して、俺を引っ張りだして、どうするつもりだ?」
「お声は、どうか控えていただけませんか」
智加は構わず喋りだした。
「空洞を触ることが精いっぱいのはず。この俺をどうこうできるとでも? 退路をふさぎ、捕らえることができたとして、俺を日本の唯一神に祀りあげて、日本を一神道にできるとでも思ったのか? 八百万の神のこの国を」
「もちろん、できます。今やらなければ、日本は滅びるのです。あなた様も判っておいでのはず。日本は腐っています。憎しみ、遊み、裏切り、犯罪が大衆化しています。理由がなくても人を殺す、今の日本のどこに正義がありますか?」
「正義?」
「このまま日本は滅びるでしょう。国土を言っているのではありません。心が、と言っているのです。あなたが言う八百万の神の時代は葬り去られたのです。だからこそ、日本人は心に神を失ってしまった。神というのが抽象的なら、言い換えてもいい。信じる心をと」
むんと智加は唸った。
「人は人を信じる力を失いました。人が信じられない。それは自分自身すら信じられないから、人も信じられないのです。では何故、人は自分を信じられなくなったのでしょうか?」
久我山は興奮気味に手を広げて、智加に突き出した。
「何があっても、決して揺るぎない愛。裏切られることのない愛。それに包まれていないからです」
智加は目を見開いた。
久我山は息をはくように、ゆっくり喋った。
「人は自分が愛されていると知って、初めて自分は居てもいのだ、存在していいのだと知るのです」
智加はくっと奥歯を噛みしめた。
それを久我山が言うのか?
「ならばどうすればいいか。愛など簡単に手に入るものではありません。憎しみはたやすい。ですが愛は簡単ではない。だから我々は人々の空洞に、強制的に愛を注ぎ込むのです。人々は満たされ、信頼しあい、日本は清浄な地へと変貌を遂げるでしょう。そのために、東辞智加様が必要なのです」
智加はすたすたと歩き出した。里美のそばまでくると、里美の頭をむんずと掴み、ずるずる引っ張ってきた。久我山のほうに向かせる。にやりと笑うと、里美から手を放した。里美はぎゃあぎゃあと叫んでまた蹲った。
そのために何を踏み台にして、何を作ってきのたか。
その上にある正義とは、何なのか。
土地の産土神をないがしろして、首をすげかえて、明治政府の愚行をまた繰り返すのか。
所詮、どれも綺麗事だ。
「できるなら、どうぞ。俺の空洞を引きづり出して、試せばいい」
智加は一歩、久我山に近づいた。今となっては屑金の痣は上半身を覆い、顔の半分まで痣に塗れていた。白眼がぎょろりと動いて、屑金が智加の視線を掌握したのが判った。四つ目となって、久我山の身体が透けて見える。
「ならばっ」
久我山がむんと唸って手を伸ばした。智加の胸倉をむんずと掴むと、ぶつぶつと祝詞を唱え始めた。
反対の手を礼拝堂の銅像へと向けた。
薬師如来のような穏やかな仏像ではない。西洋の神の像とでも言うのか、彫刻の青年のような美しい顔立ちに、荘厳な雰囲気を醸し出した立像だ。
「あなた様の神を取りだすのです。そしてこの中に入れます。これほどの幸せない。その中にいることは判っている。取り出してみせましょう。肉体は衰えれば無用の長物。あなた様は神として永遠に生き続け、人々に愛を注ぎ込むのです」
智加の肉体に、久我山が手を突っ込んだ。まさぐり掻きわける。
久我山は狂っている。俺の空洞はもうないことが判らないのか。そこにあるのは、明来だけなのだ。
明来を利用し、俺を手に入れたと思ったのなら、大きな誤算だ。
智加は、ポケットの中に手を入れると、そこに入っていた小さな瓶を掴んだ。
「やめんかー」
ばっと出された腕に、智加は抱きとめられた。咄嗟に振り返ると、そこに居たのは父の亘だった。
驚いてその顔を仰ぎ見た。なぜここに。だが、もう遅い。
智加は小さな瓶を取り出しぐっと蓋を開けると、一気にそれをあおった。
がっと呻いて、智加は床に突っ伏した。
炎が喉を焼いていく。
「智加っ。何を飲んだ。ばかな。吐けっ」
ぐはっと血を吐いて、智加は気絶した。薄れていく意識の中で、父が何かをわめいている。
明来。あき。
遠くで明来の声がしている。
笑っているのか。
目覚めたのか。良かった。
あき。
(つづく)




