第8章 夜明け前 -3-
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元気か?
そんなこと聞いたら、怒られそうだな。
随分会ってなかったが、放置したわけじゃないんだ。
身体がよくなったら、海に行こう。二人で。
きっと綺麗だ。白い砂浜に、波が静かに押し寄せて、秋晴れの温かい日差しがさしている。
穏やかな波を見ているだけで、気持ちが楽になる。
なんでだろう。前は海なんて、何も感じなかったのにな。
第一、海にいい思い出なんてない。
お前のせいだ。
覚えているか? お前が鼠の死骸を付けていたころ、勝手に彼岸まで行って。
俺はあんなところまで行ったことはない。あんな何もかもすべて飲み込む、最果ての浄土の場所まで。よく行けたものだ。人の迷惑も考えずに、お前は俺を怒らせてばかりだ。
今になって考えたら、よく帰ってこれたな、なんて思うよ。考えただけでぞっとする。
気付いたら、東辞の裏山の池にドボンだ。我ながら、情けなかったが。俺はあんなこと、二度とごめんだからな。
お前はだいたい、俺の言うことを聞かない。
無鉄砲で、自分の体力度外視で、人の心配ばかりする。
やれ、割れたコップに水を注ぐだ、とか。
ずっと見守るだけだ、とか。
智加さんをオレに下さい、とか。
あれはすごかったな。東辞の正門で、カメラに向かって大きな声で。
いまだ、高宮の動画フォルダに入ってるぞ。
あいつ性格悪いからな、この先もずっとネタにされるな。
第一、この俺を嫁にもらおうなんて、まったく呆れる。
まずは自分の心配をしろ。人の心配はそれからだ。
あと、卵焼きくらいは、まともに作れ。
まあいい。
早く目を覚ませ。
そしたら、誰がなんと言っても構わない、ずっと一緒にいよう。
俺が居たいのは、お前だけだ。明来。
目をつむって動かない明来の手を、そっと掴んだ。ゆっくり引きよせて、智加はその指先に口づけた。体温が少し低い。陶器のように真っ白な顔だ。ときおり、息をしているのか不安で、口元に手を近付けた。静かな吐息を感じて、ふっと安堵の声を漏らす。
乱れた前髪をそっと撫でて、つむった瞳をじっと見つめた。焦げ茶色の髪はくせ毛で、犬のようにもさもさだ。手ですいてやると、滑らかにカールして耳元まで伸びていた。
触れた指先がじーんとしている。寝顔は子供のようで、ぎゅっと噛みしめたままの唇が、痙攣しているのかぴくりと動いた。
こんな風に明来を見つめることは、なかったかもしれない。
高校3年生の秋に、朝の校門で出会った。
何もないところで、盛大にすっ転んで、どじっぷりを笑っていた。
明来には鼠の死骸など見えてなかった。
自分の発する祝詞がまったく効かない。そんな人間は、母以外初めてだった。
だから、離れようと思った。
自分に関わって、傷つけたくなかった。
離れられるなら、それが一番いいと。
だが、離れようとすればするほど、離れられなかった。
明来の眠るベッドの脇に、智加は頭を乗せた。静かに物音もたてずに、そのままじっとする。白いシーツが頬にあたる。温もりを探すように強く押し当てて、智加は目を閉じた。ひんやりとした綿は、反対に智加の体温を吸収していく。渡せるものなら、すべて渡してもいい。
握った明来の指先を、そっと自分の額に押し当てた。祈るように、ぎゅっと手に力を込める。
温かい。
まだ温かい。
俺は、もう迷わない。
解決策を見つけてくる。
それまで、頑張れ。明来。
長い時間、ここにいた。もう夜が明ける。病室の窓のカーテンの隙間から、朝陽がちらちらと顔を見せ始めていた。
智加は明来の手を放した。その顔をじっと見つめた。
しばらくして、智加は立ち上がると、病室にあるロッカーへと向かった。扉を開けると、明来のリュックを見つける。それを取り出してファスナーを開け、中を物色した。明来の携帯を見つけると、あとはロッカーに戻した。
明来の携帯を手に、智加は病室をあとにした。
駐車場に出ると、智加は電話した。相手はすぐに出た。そして、場所は向こうが指定してきた。智加はそこへ向かうべき、車を発進させた。
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「こんにちは。僕を呼び出したんは、会長のもとに行く用意ができたっていうことですよね? 意外に早かったなー」
相変わらず、人を小馬鹿にしたような笑顔で、田中里美が言った。
「あーええですよ。何も喋らんと。ここは人通りが多いですからねー。なんや一般人に触り(さわ)があっては大変ですやろ」
それをわざと指定してきたのだろう。怒り心頭に発しても、自分に手出しはできないと。
場所はJRの駅前で、人が混雑する場所だ。恋人達がよく待ち合わせをする銅像があり、その周りを噴水が囲んでいた。コンクリートでできた囲いに里美は座って、眩しそうに智加を見上げていた。
時間は昼の12時で、オフィスから出てきてランチに向かう人、学生、旅行者、雑多に混雑している。駅に繋がったデパートの壁面には、歌手のなんとかという女性の大きなパネルがかかって、長い髪をたなびかせ、テンポの速い曲が流れていた。
智加は無言で、少し距離を置いて隣に座ると、ポケットからメモとペンを出した。短く書いて、里美に見せた。
『明来に何をした?』
里美は心外とでも言わんばかりに眉を寄せた。顔をしかめると、今度はくくっと喉の奥で笑いを噛みしめている。
「何をて、何かしたんは東辞さんやろ? 僕は何もしてません。ええ友達付き合い、させてもろうてましたよ」
『どういう意味だ?』
「気付かへんかったら、なんも起こらんかったんですわ。でも、明来君は気付いてしもうた。あんたのせいや」
判らないという表情で、里美を見た。
「あんたへの想いや。ただの友達じゃないんじゃないですか? 大切な、この世で一番大切な。それに気付いてしまったんや、明来君は」
その時目の前の横断歩道で、キーっという急ブレーキ音がつんざいた。金属を引き裂くような耳障りな音だ。大きなワゴン車が目の前で止まって、小さな子供がわーんと泣き出した。喧騒とした町中で、ただ笑っているのは里美だけだった。
「僕は、手の平に針を持ってるんですわ。これ」
と言って、里美は手の平を智加に見せた。最初は見えなかった。だが、じっと見ていると、そこにうっすらまるで鬼の角のような尖ったものが見えてきた。
「東辞さんなら見えるやろ。僕はなんも思わんかったやけど。普通にみんなあるんやて思うてた。でも、これ刺したら面白いことになるねん」
そう言って、里美は手の平をぷらぷらさせた。
「とてつもなく幸せになった途端、毒が回るんですわ。面白いでっしゃろ? ほな、質問です。幸せってどこからくると思います?」
急に智加をじっと見て、里美は問いかけてきた。
「お金でも名声でもない。それはぽっかり心の中に生まれるんや。会長は空洞から出てくるって言ってました。人が意識でどうこうできる場所やないらしい。顕在意識と潜在意識ってありますよね? その潜在意識ってところ。ここは理性や感情で動かしようのないところや。だから、誰かに幸せにしてもらうとか、お金で幸せになれるとか、そんな話やない。違う次元の話や」
久我山が空洞と呼ぶところを、里美は潜在意識と言っているらしい。確かに、人には動かしようのないところだ。意識することすら、できないだろう。だから、僧侶が厳しい訓練をして、無我の境地に至るという場所だ。そこに辿り着いて、ようやく人は人の業を抜け出せるという。
だから、先日久我山に会った時、里美のことを面白い男と言って、紹介したのだろう。自分と似ているというこの里美もまた、空洞を意識しているということか。
「なんで僕の針がそうなるんか判りませんよ。そんなん言うたら、人はなんで生まれてくるん?ていうことと同じことですから。とりあえず、僕は会長に言われて、明来君に近づいて、頃合いをみて針を打ちました。サッカーの運動時間にね」
あの時、明来が倒れた時、俺は大学の授業中だった。屑金が激しい頭痛を起こして、俺に。あの時。
智加はぎっとなって里美を睨みつけた。
「あわわ、怖い顔せんどいてな。でも、毒が発動する原因は東辞さんでっしゃろ?」
あーこわ。もう肝が冷えたわーと里美は自分の胸を撫で下ろしていた。
『なぜ、明来を?』
「そりゃー、東辞さんには救えない存在ですよって、会長が見つけてきたんですわ」
すごいでっしゃろ?と里美は威張って言う。
どういうことだ?
智加の想定外だ。一瞬、金縛りにあったかのように、指一本動かせなかった。
「びっくりしはった? そうやよねー。火事で死んだ、思うてはったでしょう。でも殺したんは会長やねん」
は?っと、声が出そうになって、智加は声を噛み殺した。
「明来君のお母さんを殺して、明来君が一人になって、ぐだぐだになったところを、東辞さんに出逢わせて、なんもかんも会長が計画した通りやねん」
智加は目を見開いた。そんな馬鹿な。
「まあ明来君の能力が東辞さんと反発しあっているのは、不確定やったらしいけど。結果オーライってね」
智加は朦朧となって、空中をぼんやり見つけた。言ってることが頭に入ってこない。ただ里美の声が、耳を筒のように抜けていく。
震える指で、文字を書いた。白い紙にボールペンがきつく、あとを残した字になった。
『明来に言ったのか?』
「ああ、お母さんのこと? もちろん言うたよ。会長が東辞さんに逢わせるため、お母さんを火事で殺したって。すごい顔してたなー。ピエロみたいに目をまん丸剥いて、ちょっとウケたわー。ラブラブで幸せいっぱいな顔してたのになー。真っ逆さまに地獄行きや。残念、ちゃんちゃん」
ぷぷっと笑って、里美は口元を押さえた。
全身の毛が逆立った。ぶわっと吹きだした感情が、天高く駆け上がった。まるで稲妻の電撃のように、智加の身体を一気に駆け抜けた。びりびりと全身が震え、コンクリートのふちを必死に握りしめた。
『お前を殺せば、毒は消えるのか?』
ぎくりとした顔で、里美は大袈裟にかぶりをふった。
「いややわー、怖いこと言うて。冗談が過ぎますわ。東辞さんともあろうお人が、殺す殺さないかて下衆な話しを。なしやなし。そもそも、僕を殺したかて、毒はもう発動してるんですから、どうにもなりませんよって。僕は針を刺しただけ。それを毒に変えてしまうんは、幸福だけですわ」
智加は口の端をぎりっと上げた。そのまま、里美の腕をがしと掴む。
「え、なんやの?」
刹那、屑金の絶叫がとどろいた。きーんという甲高い金属音に、耳がつんざいた。辺りの人間はなにごとかと立ち止まり振り返った。
その瞬間には、智加と里美の姿は、駅前の噴水から忽然と消えていた。誰も気付くことはなかった。
(つづく)




