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第8章 夜明け前 -1-

-1-


自宅に戻ると、空がようやく白々と明け始めていた。山の上は秋が深まるのも早く、智加はるかの指先は冷え切っていた。


車の音に気付いたのか、玄関のドアを開けて、章子しょうこが立っていた。


智加は無表情で章子を見ると、つかつかと歩いていった。


「お帰りなさいませ」


こくりとだけ頷くと、ドアに手をかけて止まった。冷えているだろう、章子を先に入らせたかったのだ。

だが、章子も動かなかった。何か言いたげに智加を見上げたままだ。突然手を伸ばすと、智加の腕をがしっと掴んだ。肩にかけたショールが流れて、2人の間にぱさりと落ちた。それでも、章子は智加を見つめるだけで、動こうとはしなかった。


心配と不安と、そんな入り混じった感情が表情から取れた。


智加は少しだけ顔を緩めると、章子の手を取った。しっかりと握ると、中へ促すよう引いていく。リビングは明々と電気で照らされ、テレビはついてなく、無音だ。ここまで来ると、章子は手をはなし、キッチンへ歩いていった。

カチャカチャとカップの鳴る音が聞こえてきた。お茶でも淹れるつもりなのか、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、電気ケトルへ注ぐ。トクントクンと水の出る音が聞こえてきた。


智加はリビングのソファにどさりと座った。聞こえないように、深いため息をはいた。


何から、伝えればいいのだろう。


章子の後ろ姿から目を移すと、テーブルの上に真っ白な用紙とペンが置いてあった。章子が置いたのだろう。きちんとした説明が欲しいはずだ。


智加はペンを取った。


ぐっと力を込めるが、最初の一文字すら出てこない。



戻ってこれないかもしれない


戦いに巻き込むことはできない


忘れてほしい


離婚して、自由になってほしい



どれも綺麗ごとだ。


本当は何だ?


自問自答をする。


明来だ。


誰のためでもない、自分のためでもない。


この世でたったひとり、明来だ。


明来を失いたくない。



カチャリと音がして、咄嗟に顔を上げた。


章子が日本茶を差し出して、ゆったりとほほ微笑んでいた。白い湯気がふわりと上がり、温かな、深いグリーンの色が、白磁のカップの中で揺れていた。章子の笑みはとても綺麗で、思わず目を引かれてしまう。


映像が脳裏を駆け抜けていった。


はちみつのついた指先を


大きな口をあけてパンをほおばる顔を


ぐっと涙を堪えて、妻にして欲しいと訴えた黒い瞳を


さらさらと長い髪が流れていった


「明来ぃっ」


喉の奥から、声が出た。言った自分に驚いた。絞りだした呻き、無意識で出た声だ。章子の前で声を発するなど、今までしたことがなかった。


目を見張る章子。大きな目が見開かれていた。


その瞳から、ぶわりと溢れてきた大粒の涙。透明のしずくが幾重にも頬をつたり、ぱたぱたと手の甲に落ちた。


章子は悟ったのだ。


智加はもう止められなかった。


「あきっ。明来、明来ぃ、」


章子はばっと立ち上がった。もう聞きたくないとでも言うかのように、耳を押さえ目を瞑っている。


智加は腕を掴んだ。聞いてほしいと、ぐいと自分に引き寄せ、正面から顔を見つめた。


章子が自分を見つめている。黒い瞳が濡れて、眼尻に皺が寄っていた。わなわなと震える唇が、きっと引き結ばれて、必死に感情を堪えていた。


「はなして、ください」


「……」


涙がぼろぼろと零れて、智加の手に落ちた。


握りしめた章子のこぶしが、力弱く、智加の胸を叩いている。


「なぜ? なぜ……」


か細い声が、章子の唇から洩れた。殴る力もなく、その場に泣き崩れていく。


智加は何もできなかった。ただ、その姿を見つめるだけだ。震えて小さくなって、うずくまっていた。


今さら、自分の卑怯さに呆れてしまう。全ての責任は俺だ。だが、もう引き返せない。


静かに時間は過ぎていった。



---


智加は、一人車を走らせた。父・わたるは、東京へ行ったままのようだ。

高宮から、しつこいくらい電話がなっている。謹慎が解けたわけではない。警護の人間がいつも張りついていたが、無視をしている。手をかけてくるなら、術を使うまでだ。智加は一人、飯山いいやまへと山道を走っていた。


飯山は、屑金くずかねの生まれたところだ。自分が地鎮祭で失敗して、屑金くずかねなる禍神まがつかみを生んでしまった場所だ。自分の胸に巣食い、どす黒い滲み(しみ)となって広がっていた。

屑金とは、明来あきがつけた名だ。元は不発弾の金属が劣化し、土気と水気で腐敗した。その土地に根を這り、邪気を放っていたものだ。自分が暴力的なやり方で浄化したため、破片が残って、智加にとり憑いたものだ。


土地の守り神になるまで、育てると言った。


明来は、そんな黒い滲みに名前を付け、情を注いだ。


おかげで、何やら成長したようだ。智加に忠告したり、自分ではとうていできない技すら、やってのける。


飯山にかえそう。もうあとは一人で大丈夫なはずだ。


地鎮祭で訪れた場所へ、智加は車を走らせた。


もともと、飯山では市長の中島が小学校を作るという目的で、地鎮祭を行った場所だ。あれから一年以上は経つ。建物は完成しただろうか。


30分ほどで、飯山に到着した。10月の半ば、季節はとても穏やかで、山は実り多く、ところどころ紅葉が色づき始めていた。

昼下がりの時間で、きらきらと木々の間から指してくる日差しが、とても眩しい。鳥の甲高い声に、緑の苔むした匂いもする。山道だが、道路もすっかり舗装され、景色もよく、歩道も完備されてとてもよい環境になっていた。


だが、くだんの場所に、小学校がない。


唖然となった。想像してなかった。一体どういうわけだ?

智加は車を降り、辺りを見回した。


そこは開かれた土地に、何の工事もされておらず、ただ荒地と化していた。


地鎮祭を行った時でさえ、資材はあったはずだ。工事現場らしく、囲いがされて立ち入り禁止だった。それが、今は柱の一本もない。これはどういうことなのだ?


屑金は、何も言わなかった。


歩道まで整備された場所に続くものが、この荒地なのか? 真っ黒なコールタールのような土が剥きだしになり、穴ぼこを作っていた。雨が降って地面に染みずに、残った水に汚れたままだ。


おかしい。

地鎮祭のあとの土地とは思えない。


中島市長の顔が脳裏に浮かんだ。あの中島がこころざし途中で辞めるはずはない。そして、自分に何の連絡もせずに、断念するはずはない。


ぱっとスマホを出して、中島の電話番号を呼び出した。


だが、その手を止めた。


たった一つ、思い当たる原因はあった。


屑金の様子をうかがう。


ここに還すわけにもいかない。いいな?とでも言うかのように、胸元に手をそっと当てた。屑金は何も言わなかった。ただひっそりと、智加の胸のうちに潜んでいた。浮かんでくる様子もなかった。


ざくざくと足もとの土がめくれ上がっていく。智加を恐れてのことか、じりじりとこちらを見つめてくる視線は重い。


智加は後ろを振り返った。何度も振り返り、頭を垂れる。これも自分のせいなのか。


穏やかな秋の木漏れ日の中、真っ暗な闇が智加には見えていた。


車に戻った。急いで行かなくては。もし、自分の予想が正解なら、あそこも、もう存在しないだろう。


唇を噛みしめ、智加はエンジンをかけた。


(つづく)

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