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第7章 蛇壺 -6-

-6-


明来あきは見つめられて、目が離せなかった。何かを話すわけじゃなく、東辞とうじ智加はるかがただ自分を見つめている。黒い瞳が熱を帯びたように、ただ見つめてくる。こんな風に真っすぐな目をして見つめられるなんて、今までなかった。

どうしていいのか判らなくなって、ふいに俯いた。


視線をそらしても、東辞の視線は追ってくる。何が面白いのか、こちらを見つめたままだ。


恥ずかしい。顔から火が出そうだ。

にやにやして、ふわふわして、なのに嬉しい。嬉しくてたまらない。東辞がいる。目の前にいる。高校生の時みたいだけど、そうじゃない。全然違う。


オレに触れる。

ドキドキする。

どこから来るんだこの感情。


こんなしまりのない顔を見せたら、東辞に愛想をつかされる。


「見ててあきないな」


「あ、あの」


「なんだ?」


「オレ、こういうの初めてで、なんかそわそわして」


「慣れろ」


「はあ?」


「俺を見ろ」


明来は素直に東辞を見た。東辞は何も言わない。すっと手を伸ばすと、明来の顎に手をかけた。ぴくりと身体が震えた。唇が触れるか触れないかまで近付くと、そこで止まって、明来の瞳を見つめてきた。


「……になって欲しい」


明来はなんて言ったのか聞こえなくて、ん?という顔をして見せた。


「恋人」


かっと頬が熱くなって、目をそらそうとした。その顔を掴まれて、ぐいと元に戻される。


「明来。もう戻れない。俺は……」




**




深夜の誰もいない病院に、東辞智加の走る音が響いた。リノリウムのクッション性のある床でさえ、今の智加の足音を消すことはできなかった。廊下は非常灯のみで薄暗い。今はまだ明け方4時だ。空は白み始める前で、ひっそりと薄い闇をたたえていた。

集中治療センターに、明来はいた。


部屋の前に、高宮たかみやが立っていた。身なりはいつも通りスーツを着こなし、ネクタイ姿だ。疲れて着崩した様子もない。こうなって、だいぶたったということか。


智加は目もくれず、一気にその前を通り抜けた。


「智加さん」


急ぎ、あとに続く高宮の足音が響いた。


そばにいた看護師がじろりと睨みつけ、「お静かに願いします」と小声で言う。どうせ東辞の息のかかった病院なのだろう。いや、東辞ではなく、高宮の、か。


名札の掛かってない個室のドアを開けた。


白い壁、白い床、何もかもが白い。まるで無機質な部屋に、花の一本もない。薄い無菌シートで覆われた中に、明来はいた。青白い顔が、浮かび上がっていた。


つと身体が前に出た。声が出なかった。


智加は愕然となって、膝を折った。膝に置いた両手が震えている。がくりと身体から力が抜けていき、垂れたこうべが上がらない。


息が詰まる。動悸が早くなって、額にうっすらと汗が滲んだ。なんとか息を吐いて、もう一度顔を上げた。


想像はしていたが、そんなはずはないとも思っていた。


こんこんと眠っている顔は白っぽく、瞳は閉じられたままだ。息をしているのか、していないのか、まったく動かない。

その様子に、智加は目がはなせなかった。繋がった点滴の液が、ぽたりぽたりと落ちて、明来の腕へと入っている。傍にある心拍計だか何かの装置が、不規則な波形を映し出していた。


誰もいない部屋に、枕もとの灯りが明来の顔を照らしていた。


「向こうへ行きましょう。さあ」


「……」


「ここに居てはいけません」


高宮が智加の腕を掴んだ。


「放せっ」


智加は高宮の腕を跳ねのけると、明来のベッドへと歩み寄った。その腕をぐいと引きとめられた。痛いほど掴まれて、腕を捻じ曲げられる。智加はぐっと奥歯を噛みしめると、高宮を睨みつけた。


「ここに居ても、何も変わりません」


「黙れ」


「あなたに、何ができると言うんです?」


智加はかっとなった。抑えられない感情が、ぶわっと一陣の風となって、病室を鋭利な刃物となって飛び交った。機材や無菌シートにあたり、大きな音をたてる。祝詞を唱えた訳ではなく、怒りの波動が一気に解き放たれたのだ。抑えられないものがどっと溢れ出てきた。


咄嗟に、高宮が祝詞を唱えた。がしゃがしゃと崩れる途中で、一瞬時間が止まったように見えた。実際は時は止まっていない。ゆるやかに弧を描くように機材が倒れ、ふわりと羽根が落ちるように無音で床に転がっていった。

智加の波動は止められない。ただその動きを緩やかにするだけだ。


「そうやって、あなたは駄々をこねればいい。そうやっていれば気が済むのでしょう。祝詞でもなんでも言ったらいい」


智加は唇を噛みしめた。


びりびりに破れた無菌シートが、まるで鯉のぼりのように泳いでいた。尾びれをたなびかせて、明来の鼻先でひらひらと動いている。それでもこんこんと眠る姿に、智加は一気に強張りが解けていった。見つめることしかできない。白い頬は動くことなく、髪の毛一本すら乱れていない。


「何もできないのです。我々には」


我々……。

東辞全体のことを言っているのか。

そんな気もないだろうに。


身体が弛緩して、何かが抜けていく。そんなことは判っていた。明来には、明来だけには、何もできない。一番守りたいと思っていた存在を、自分は守りきれない。


大きな息が智加の口から洩れた。もしこれに言霊がのるのなら、あたり一面枯れ果て荒廃したものになっていただろう。途端、高宮が掴んだ手を緩めた。相変わらず涼しげな様子で、それでも智加の傍に立ったまま動こうとはしなかった。


智加はもう一度明来を見た。熱を感じない。手を伸ばしても、触れて壊してしまう恐怖に囚われ、智加は手を握り込んだ。


「いつからだ?」


「一週間になります。意識が戻りません」


「一週間?」


火事のあとか。


「外傷はありません。大学で倒れて、そのまま救急車で運ばれました。病状を言えば、血液の比重がとてもおかしい。現代の医学では不明としか言いようがありません」


「血液の比重?」


「はい。白血球、赤血球、血小板。どの値も安定しません。数時間ごとにアップダウンを繰り返しています。何に反応してそうなるのか、ウィルス性なのか、色々検査をしましたが、原因がわかりません」


「病気だと思っているのか?」


言外に、意味を込めた。誰かの仕業なのだ、と。


高宮がまさかという顔をする。


「この先、どうなる?」


「ああ、すみません。考えがまとまらなくて。この先判りません。数値が落ちれば、致死に」


「これが、贈り物なのか……」


神社全焼でも瑤子ようこでもなかった。ましてや、神社本庁でもない。


これが、光輪こうりん協会の贈り物だったのだ。


智加は頭に手を突っ込むと、がしがし髪の毛をかきむしった。先ほど会った里美さとみの顔が浮かんでくる。へらへらと笑った、人の神経を逆なでする顔だった。


田中里美の能力がこれなのか。


いつ?


以前大学で倒れた時があったが、あれば随分前だ。あの時確か屑金くずかねが知らせた。

今、こうなったのは、何のタイミングだ?


智加はまっすぐ前を向いた。その様子に、高宮が訝しげな顔をして見つめてくる。


「何を隠しているんです? 今夜は、どちらに行かれていたんですか?」


智加は答えなかった。ちらりと高宮を見ると、踵を返し歩き出した。静かに病室を出ると、そのまま廊下を歩いていった。


高宮もまた無言のままついてきた。廊下を通り、エレベーターの前で立ち止まった。階下にいくため、下の矢印ボタンを押した。すうーという静かに動く機械音が聞こえてきた。


「待って下さい。もう、あなたの胸に留めておくような問題ではないでしょう? 話して下さい。誰と会っていたんですか?」


「何故、母をかくまっていた?」


「え?」


「親父は探していたはず。何故だ?」


高宮が唇を引き結んだ。思いもよらぬ質問だったのだろう。まるで喉に石でも詰まったのか、ぐっと顎を引き、しかめた顔で押し黙った。


「話す必要は、ないか」


智加は踵を返し、丁度来たエレベーターに乗った。振り返ると高宮を真正面から見た。

すっと閉まるエレベーターのドア越し、俯いた顔で、口を開こうとはしなかった。

その高宮が、ばっと腕を出した。閉まる寸前のドアに手をかけたのだ。


「あなたが、大切だからです」


「答えになっていない」


「誰にも言ったことはありません。包み隠しもしません。あなたと水桧みずえ さんを守りたかった」


「親父を裏切ってもか?」


「そうです。いけませんか?」


「理解できないな」


「総代は素晴らしい方です。私はあのかたの力に心酔している。それは事実です。ですが、ここに居る必要があったのは、」


真っすぐな瞳だった。


ふいに高宮が手を伸ばして、エレベーターに乗ってきた。智加は唇だけでふっと笑うと、目を閉じた。


「智加さん? どこです? あなた一体っ」


智加の姿はどこにもなかった。かき消すように居なくなったエレベーターの中で、高宮は声を荒げた。


「智加さん。何処ですっ?」





いつの間にか力をつけた屑金くずかねが、胸元で大きな染みになっていた。こんな姿、もう誰にも見せられないな、とひとりごちる。

まあ、これはこれでいい。お陰で、少々空間を飛べるようになった。人間離れもいいところだが。


目の前は、うっすらと明けていく飯山の空だ。小さな点が動いているのは、夜明けを待ちくたびれた鴈の群れだろう。遠くを飛んでいる。


自分は、久我山の元に行くだろう。その前にやらなくてはいけないことがある。一週間もあれば十分だ。


「お母さん。済みません」


智加は空に向かい、呟いた。


(つづく)



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