第7章 蛇壺 -4-
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関西訛りの男の車に乗り、案内された場所は、中心街のど真ん中にある閑静な高級ホテルだった。ヨーロッパ老舗の日本直営店で、全国展開している有名なホテルだ。深夜にも関わらず、ホールは賑わっていた。
パーティでもあったのか、豪華な衣装に身を包んだ男女が多く、ソファに座って歓談していた。壁にはアンティックの鏡がはめ込んであり、そこに映し出された姿に目を奪われた。まるで余韻を覚ますかのように、羽根のついた扇子で風を当てている女性は、マゼンダ色の鮮やかなドレスを着ていた。
「こっちや」
男の声に、智加は視線を戻した。
エレベーターホールへと歩いていく。ドレスコードがあるのだろう。目の前の男がジャケットを羽織っている理由が分かった。本来こういう堅苦しい服は、着ないタイプだろうな、と容易に想像できた。
男は、エレベーターのボタンを押した。最上階の16階だ。エレベーターはまるで滑るように静かに昇っていった。二人だけで、他に乗る人はいない。すっと止まった16階で、開いた扉から一歩踏み出すと、ふわりと足が沈んだ。深いワインレッドの豪華な絨毯が、これでもかと言わんばかりに敷き詰めれていた。
このあたりから、少々、むかついてきた。
通されたのは、スィートルームプレジデンシャルで、リビングルームは20畳はあろうかという広さだ。大統領でも呼んで会談するつもりなのか。
広々としたゆとりの空間、格調高いアンティークなインテリア。
リビングルームの窓から空中庭園をのぞむ、VIPにふさわしいワンランク上の空間を、どうぞお楽しみください。
と、そんなホテルの売り文句すら、聞こえてきそうだ。
智加は通されたリビングに座ると、ドアの一点を睨みつけた。ほどなくて、久我山が出てきた。関西弁訛りの男も一緒だ。
「こんな時間にお呼び立て致しまして、誠に申し訳ありません」
久我山は穏やかにそう言うと、智加の向いのソファに座った。御自慢の銀細工の杖もつかずに、スムーズな足取りだ。ドアがノックされ、また誰かが入ってきた。ホテルの給仕だ。黒いスーツに身を包んだ初老の男が、銀のプレートに紅茶を乗せて入ってきた。無言のままで頭を下げると、智加の前に真っ白なカップを置いて、黄金色の紅茶を注ぎ込んだ。
ふわりとあがる湯気に、ダージリンの香しい匂いが漂ってくる。久我山が着席するとともに出してくるあたり、無駄な動きがない。こんな時間だが、年齢からいってもベテランだろう。英国のホテルのバトラーという名称を彷彿させた。一礼をすると、給仕は静かに出て行った。
早速、久我山が向き直った。
「いつもの如く、ご返答は結構です。東辞家の皆さまには、さぞやお力を失っていらっしゃることでしょう。お悔やみを申しあげます」
嫌味な言い方だな、とちらりと久我山を見た。
久我山は悪びれることなく、顔色一つ変えず穏やかな表情だ。相変わらず、上品で仕立てのよい服を着ている。
「早速ではございますが、今日お越し願った本題に入らせて頂きます」
智加の眉がぴくりと上がった。東辞の総代はいまだ智加の父親の亘だ。神社本庁でさえ何かと父に連絡を取っていた。今更、自分に何の話しだ。
関西訛りの男の言った「贈りもの」という言葉だけが引っ掛かり、智加はついてきたに過ぎない。
「白山神社が爆破されることは、私は知っておりました」
智加は目を見開いた。
「爆破を企てたのは、神社本庁です」
はっきり言われると、流石に驚いた。
「可笑しな話です。あれだけ立派なものを建立したのも本庁なら、一夜にして廃墟とさせたのも、本庁に他ならない」
なぜ、と言うのは愚問か。
智加の顔を見てとったのか、久我山は同情でもするかのような顔だ。
「お察し致します。全く理不尽も甚だしい。ですが、これは最初から計画されたものでした。本庁のトップは、一度否定した神道である白山を復興させるつもりはなかったのです」
そう言うと、久我山は紅茶を一口飲んだ。
馬鹿げている。呆れて言葉もでないが、父も気付いたのだろう。だから、言ったのか「お前にはやってもらうことがある」と。
そうか、それで、久我山が直接自分に連絡してきたというわけか。神社本庁を出し抜くために。
智加はふんと鼻で笑った。
「お察しの通りです。あなた様は、うちに来て頂くことになります。ただご準備もございましょうから、一週間、お時間を差し上げます。思い残すものは、もう何もないはずですから」
智加の眉がぴくりと上がった。来て頂けますか、ではない。来るかどうかの選択は自分にはないということだ。
(思い残すもの?)
母のことを言っているのか。
「私共は、神社本庁とは違う団体を作っております。実際、神社本庁にも属しておりません。傘下に入るつもりも毛頭ありませんから。あれはもう古い。私共は新しい日本の神を作っていきたいのです」
何を言い出すかと思えば、「新しい神」だと?
「その土地に生きてきた産土神を、私は復活させたいのです。その考えは、あなた様にも通じるはずだと思っております。ですが、それだけでは、日本は強固にはならない。私は、今の日本の腐りかけた世の中を変えたいのです。それには人々の心に埋め込むしかないのです。希望を」
智加は目の前の男を見た。
洗脳を希望と言う。
うっすらと笑みをたたえたまま、久我山は続けた。
「心に神が住まえば、揺らぐことはない。悪しき心になど、傾くことはない。今の日本に足りないのは、金でも経済力でも有能な指導者でもありません。己の心に住まう「神」が必要なのです」
幾分、呼吸を上げながら、久我山の声が大きくなっていった。
「そのためには、まずは産土神を復活させる。人々の住まう土地を浄化させ、日々の暮らしを強固なるものにする。産土神が数珠のように手をつなぎ、固く全国を守り日本を統一させる。そしてその産土神を掌握し、存続させる力を与えるもの、唯一の神、一神を作ること。それが、あなた様なのです」
は?
智加は思わず、声を出しそうになった。
「日本はこのまま、とどまることなく、滅びへと突き進みましょう。
私は、世々(よよ)、子供らに生きてほしいだけなのです。
苔が生すように」
久我山はそう言うと、目を閉じた。
欲のない顔だった。
部屋のアンティークの振り子時計が、ボーンと柔らかな音を一つたてた。深夜一時。物音はそれ以外なにもしなかった。
「お時間を頂戴いたしました。遅くまで、申し訳ありません。里美、智加様をお送りしてきなさい」
「はい」
里美と呼ばれた男は、すっと前に出た。
「紹介がまだでしたね。この男は田中里美と言います。私の側に置いて、五、六年になりまか。よく言うことを聞く、よい人間です。智加さんと似たところがございます。よかったら使ってやって下さい」
穏やかに言うと、久我山は里美にまるで身内のように、親しげに笑いかけた。
里美は、こちらへとでも言うように智加に手を差し出した。
智加は席を立った。久我山の余韻のようなものが残る部屋をあとにした。
里美とは車中で会話することなく、ほどなくして東辞のかつての神社に車はついた。
深夜でひっそりとして、無音だ。鳥の鳴く声も聞こえない。ざりざりと、ところどころ残る砂利石の上を歩きながら、里美はしかめっ面になった。
「まだ、焦げくさい匂いがしてますね。焼けたあとの匂いっちゅうのは独特で、僕は嫌いですわ。だいたい油の匂いがきつーて、ほんま、かなわんわ」
里美は鼻を摘まんで、背中を丸めた。先ほどまで無言だったのがよく喋った。
「久我山さんが言うてはりましたやろ。僕とあんさんが似てるって。吹き出しそうになりましたわ」
里美は立ち止まると、智加に振り返った。智加よりも背が高く、ひょろひょろしている。目は細目で、いつもにやけた顔だ。
「僕は似てるなんて思うたことあらへんのですわ。だいたい誰とも比べたことないよって。似てるなんて、笑いますわ。でも、車の中でよう考えたら、似てるかも思うて」
里見が目を見開いた。ぎろりとした白目の多い目だ。智加は思わず見つめてしまった。
「嫌い嫌いも好きのうちって言いますやろ? あれと同じことかもしれません。久我山さんが言うには、僕は蓋をしとかなーあかんらしい。僕はただ毎日楽しく生きてる。楽しゅうて楽しゅうて堪りません。人に迷惑なんてかけとりませんし、僕はこうやって生きていくのが幸せなんですわ」
智加はようやくこの男に注意を向けた。一体何を言っているのか。この男の内側に、何があるというのか。
飄々として、要を得ない。
だが、そんな男を、久我山が五年も六年も傍に置くのか。
ここにきて、智加は背筋にぞくりとしたものを感じ始めた。
「それを、久我山さんは生まれ持ったもんって言うてはりました。東辞さんも僕も。だから、お前のせいじゃないっ言うて。意味はようわかりませんが」
はあー流石に眠うなってきました、と里美は両手を空に突き上げ、大きな伸びをした。さらに大きなあくびまでして、暢気なものだ。
「東辞さん、あんさんは、反対に蓋を開けんといかんらしい。久我山さんが言うてはりましたよ。あんさんの蓋が開いたら、なんが出てくるんでしょうね」
くくっと笑うと、里美はまた空を仰いだ。夜空は綺麗に晴れて、小さな白い点が散らばっていた。
「では、僕はこれで。一週間後にお迎えに上がります。もし僕に連絡したいことがあったら、ああ、そうだ。携帯番号は、明来くんが、知ってますから」
(明来?!)
大学の掲示板の前で、明来が数人と歩いていた。あの中にいた関西弁の男だ。いや、それよりももっと前に見た。智加の記憶が一気に蘇る。
瑤子の奇跡の会場だ。
ではこれで、と言うと、里美はその場を去っていった。ざざっと音を立てながら、足音が遠ざかっていく。駐車場の車に手をかけたところで、智加は慌てて電話を取り出した。
高宮を呼び出す。コール音が遅い。
「明来はどこだ?」
「智加さん?」
「答えろ、高宮っ。明来は」
(つづく)




