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第7章 蛇壺 -2-

-2-


智加はるかさん。あの、今、少しお時間頂いても大丈夫ですか?」


改まった口調で話しだした章子しょうこに、智加は顔を上げた。


先ほど二人で遅い夕食を取り、夜の23時になろうとする頃だ。11月も後半に入り、すっかり肌寒く感じるようになった。智加はシャツにカーディガンをはおったラフな格好で、ソファに座って明日の予定を確認していた。


今月も休みはない。神社の経営に実際休みなどない。日本では誰もが休みである年末年始が、一番のかきいれ時という変な話だ。


章子は普通の人なので、実際智加は声を出して喋るわけにはいかない。どうぞ、と目くばせをして頷いた。


4人掛けの大きなソファに、章子が座れるよう場所を譲ると、彼女は少し間を空けて座った。俯いて、指先を口元にあてて、何か思い悩んでいる様子だ。


風呂上がりの、石鹸の香りがふわりとたった。何か花の匂いの中に、強い甘い香りがある。そういえば、章子ははちみつが好きだと言っていた。その香りに似ている。


「智加さん」


はい、と智加は首をかしげた。


「あの、私を、つ、妻にして頂けませんか?」


そう言って、章子は顔を伏せた。手を膝につき、ぎゅっと握りこぶしを作っている。肩が少し揺れて、乾きたての長い髪が、さらさらと肩から落ちていった。


智加は章子を見つめた。黒髪の間から、白っぽくなった頬が見えてた。


驚いた。


そういうことを考えているとは、思わなかった。今の状況は、新婚とは名ばかりで、ただ共同生活をしているだけだ。自分が声に出して喋れないのもあるが、メモで話す程度で、向き合って語り合うなどしたことはない。章子が何を考えているかなど、聞いたこともなかった。


忙しさから、ひどいことをしてしまっていた。いや、忙しいからという理由ではない。それは自分が一番判っていた。目をそらしていたのだ。


何から?


答えは判り切っていた。


あの夜、置き去りにした。自分の心は、明来のもとに飛んでいた。


何をどう言えばいいのだろう。


二人の間に、静かに時間が流れていった。新築の窓ガラスに、夜風が当たってカタカタと音を鳴らしている。この新館は結婚を機に内装をだいぶ変えて、夫婦二人の仕様に作り変えられた。八歳で東辞家に連れて来られて、自分が使っていた子供部屋は今はもう無い。


章子は智加より二歳上だが、雰囲気が幼いので年上には思えない。実際、自分も19歳でただのガキだ。初めて会ってから、半年は過ぎている。最初に会ったのは、お互いの両親が列席した場だった。ずっと下を向いて、一度も自分に目線を合わせなかった。ああ、この人も親の言いなりで、結婚を承諾したのだろうと思った。


俯いたままの章子が、口を開いた。


「私に、女性としての魅力が欠けることは、判っています。こんな自分が智加さんの妻になれるなんて、思ってもみませんでした。でも、あなたの妻になりたい、そうずっと思っていました。お母様と仲良くさせて頂いて、神社のお手伝いもできて本当に幸せです。足りないところが多いと思います。でも、これからもっと努力します。ですから、どうか、私を」


唇が震えて、声がうわずっている。自分に視線をあわせず、俯いたまま叫ぶように言って、またぷつりと言葉を切った。


『かけまくも』


使い慣れた言葉が頭に浮かんだ。

ただ一言そう言えば、章子の記憶は消せる。智加が言霊をかければ済むことだ。章子を都合よく傍に居させるため、夫婦円満な記憶に書き換える。それは簡単なことだ。


智加は手を前に出した。章子にそっと指先を伸ばす。黒髪までもう少しだ。章子は顔を上げない。俯いたまま、章子の目を見ることもなく、終わるだろう。


たった一言。


指が、触れるか触れない前で、ぴたりと止まった。


違う。そうじゃない。力は使いたくない。


身勝手なのは自分だ。


章子は違うのだ、この東辞の人間とは。

術を使い、人を操作してきた、あの汚い親父とは。


自分もそうなのか?


親父と同じ人間なのか?


この血のせいにするのか?


そのまま指先を握り込んで、目を閉じた。まぶたの裏は真黒で、しんとしたまま、何も聞こえない。


章子の髪にそっと触れた。ゆっくりと下へ撫でていく。優しく何度も、思いやりを持って。


「ああ、済みません。私ったら、自分のことばっかり言って。あなたがどんなに忙しいか、判っているのに。私は」


智加はゆっくり首を横に振った。テーブルの上のメモとペンを取った。そこに文字を書いた。


『辛い思いをさせてしまって、申し訳ありません。


もう少しだけ、待っていただけますか?』


たった2行、それだけを書いて、章子に見せた。


章子はそのメモにそっと両手を添えると、こくりと頷いた。そして小さな笑みを見せた。それは寂しそうな、なんとも言えない表情だった。


章子に嘘はつきたくない。


だが、今はこれだけしか言えなかった。



その時、館内にけたたましいサイレンが鳴った。何事かと思うような、一瞬身体が固まって一歩も動けなかった。第一ここでサイレンを聞いたのは、智加すら初めてだ。章子は驚いて、思わず智加にしがみついた。智加はその肩を抱くと、テレビのリモコンを掴みスイッチを押した。ニュース番組に合わせるが、何も非常事態のテロップは流れていない。つまり、東辞家だけのサイレンだ。


章子に視線を合わせて、肩をぎゅっと抱いた。ここで待っているようにと、メモに書いて見せると、章子はこくりと頷いた。


智加がすっと立つのと同時だった。ノックもせずに、高宮が飛び込んできた。


「神社から出火です。あなたはここに居て下さい」


咄嗟に白山神社が脳裏に浮かんだ。大きな鳥居。まっすぐな敷石の道から、拝殿、本殿への緑の小道。モミジが赤く色づいていた。あの美しい様が燃えているのか、全身に鳥肌が立った。


親父は昨日から東京だ。


身体が勝手に動いた。ばっと飛び出すと、玄関の鍵入れから車のキーを掴んだ。その腕を、いきなり強い力で掴まれた。ぐいと引き戻され、玄関の壁に押し付けられる。仁王立ちした高宮が、智加を睨みつけていた。


「そこをどけっ」


ぶわっと風が起こった。

びりびりと空気が震え、壁にはめ込まれた鏡がピシリと音をたてた。かたかたと枠が揺れて、ほこりが舞い上がった。智加の激情につられて、空気が刃のように尖ったのだ。

高宮相手に、遠慮する必要はない。


「火なら、俺が消せる」


高宮の双眸がぎらりと光った。


「私が、何のためにここに居ると思っているんです?」


行く手を遮るように右手をかざし、静かに低い声で言う。こういう疑問形の言い方をする時、高宮は間違いなく怒っている、それも真剣に。

目の前の男は口角を上げると、薄らと笑った。


「火なら、我々でも消せます。あなたを向かわせることが、問題なのです」


こうなっては、流石の智加も動けない。ここで高宮相手に喧嘩しても、鎮火するわけでもない。第一どの程度の火事なのか。むっとした表情あらわにして、智加は肩の力を抜いた。すっと怒りを後ろへ押し流した。


「部下から連絡があります。それまで待機して下さい。安全が確認できれば、お連れします」


智加は仕方なく、またリビングへ戻り、章子に心配せず休むように言った。自分はそのままリビングに残り、高宮からの連絡を待った。


テレビは既に放送を終了して、画面は砂嵐だ。電源を切って、余計静かになった。時間がやたら長く感じる。音がするタイプの時計は嫌いで、イライラする。カチカチと無神経に、智加の気持ちを逆なでしていった。

壁の時計は朝方4時を指していた。その時、一階の玄関の開く音がした。智加は小走りで降りていくと、そこに高宮が立っていた。きな臭い、焦げた匂いが高宮から漂ってきた。白いシャツが灰まみれで汚れていた。


「起きてらっしゃったんですか。火は鎮火しています。風もないので、延焼することはないでしょう」


どこか他人事のような言い方だ。顔色が悪い。ぞわぞわと嫌な感じがしてきた。この感じは以前も一度感じたことがあった。あれは確か、平川の妹を救おうとして、禁忌の術をしようとして押し問答した時だ。

高宮は、「あなたにさせるくらいなら、私がやります」と言った。

その時、「親父を裏切るのか?」と聞くと、「ああ、そうですね」と他人事のように笑って言ったのだ。


その投げやりな言い方が、智加の奥歯に刺さったままだ。


高宮の真意はどこにあるのか、本当にこの男は判らないと思った。


今、その雰囲気に、似ている。


智加は高宮の次の言葉を待った。


「全焼ですよ」


目を見開いた。急にぐらりと視界が揺れた。口元を押さえると、ゆっくりと壁に手をついた。それほどの出火だったというのか? 今は火を焚く時期でもない、拝殿本殿、社務所もすべてオール電化で、出火する要因もないはずだ。


「なぜ?」


「先ほど消防の立会いがありました。全焼の割に鎮火が速かったので、変な疑いを持たれましたが、まさか術で消火したとも言えず。こういう時、我々は面倒ですね。そう言えば、発火装置の残骸があったらしいです」


智加は言葉を失った。


発火装置?

誰かが仕掛けたというのか。

それも全焼させるほどの量を。


「親父は?」


「明日、一番の飛行機で戻るそうです」


目の前が真っ白になるとは、こういうことを言うのだろう。


「智加さん。もうお休み下さい。明日は忙しくなりますから」


智加は顔を上げると、車のキーを掴んだ。玄関先に突っ立ている高宮を押しのけて、外へ出ようとした。その腕を掴まれる。


「今行っても、同じです」


「はなせっ」


掴まれた腕を振り払うと、必死に足を進めた。それでも掴んでくる高宮を突っぱねて、何度も振り払った。玄関先で男二人がみっともない。まるで子供のような駄々をこねるようだ。それでも引けなかった。


智加さんっ、と強い口調で呼ばれた。一瞬動きを止めて、高宮を見上げた。数秒、いやもっと長い時間が流れたように思えた。高宮から目を離さなかった。


ふうと高宮が息をはいた。


「判りました。お連れ致します。ですがくれぐれも、私の傍を離れないで下さい」


ほんの数時間で、頬がこけ、傷心した顔だ。ふいと腕を放すと、高宮は先に玄関を出た。智加もそのあとを追った。助手席に乗ると、車はすぐさま発進した。


白々と空は明け始めていた。十分ほどで山を下り、神社に着いた。着く前から、サイレンの赤い点滅が辺りを派手に照らし、焼け焦げたくすぶった匂いが漂っていた。


車を出ると、きな臭い、白い煙が充満していた。


唖然となった。焼け焦げた残骸が無残にも地面から突き出していた。ここに神社があったとは思えない。辺り一面は水浸みずびだしで、少し歩いただけで靴がぐしゃぐしゃに汚れてしまう。泥水のような汚い水が水路を作り、川のように勢いよく流れていた。


鳥居がない。

足二本の残骸がコマ切れに吹き飛んでいた。敷き石は飛び散ったのか、残骸もない。美しい手水ももみじの紅葉こうようも、拝殿から本殿、社務所も全く跡がすらなかった。ただ残骸が飛び散って、元が何だったのかさえ判らなかった。


想像を絶する惨状だ。これほどまでとは思わなかった。爆発、まさにそうとしか考えられない。


茫然となって、足が出た。一歩、二歩、つたない足が前へ動く。その瞬間、


「それ以上は行けません。警察が来ています。テロか、調べているようです」


高宮の腕に抱き止められていた。智加はその腕を、振り払えなかった。



(つづく)

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